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   セカンド ・ マリアージュ  4


まだ少しテレビを見ると言った彩乃をリビングに残し、奏子は先に自室に引き上げた。数少ない手持ちのアイテムの中から、とりあえず明日仕事に着ていくものを見つくろった彼女は、少し早目に休むことにしたのだが、興奮と不安でなかなか寝付けないでいた。
明かりを落とした部屋でベッドに横になりながら、奏子は薄暗い天井を見上げてため息を零す。
「仕事……か」
周りの人が当たり前にしてきたことが、今の奏子にはそこはかとなくプレッシャーに感じられてしまう。情けないことだが、自分の社会経験は平均値以下といわれても仕方がないくらいに低いものしかないのだ。
大学の時、同じ学年の学生たちはかなりの数が就職を希望していた。そうでないのは奏子のように結婚が決まっていたりその話が現在進行中であったり、海外に留学をする予定の者、家業を継ぐ予定の者や家の都合で当面は家事手伝いをすることにしている者などがいたが、それもごく少数だった。
その時は彼女自身、後に自分が外で働くことになるとは思ってもみなかったし、当時まだ婚約者であった史郎からは奏子に家にいて欲しいという希望をはっきりと言われていた。そのせいもあって、自分はこのまま主婦となり、一生家事と子育てに勤しむ生活を送るのだと信じて疑わなかったのだ。
もしも自分の生き方に疑問を抱かなかったら、多分彼女は今もその暮らしを続けていただろう。単調ではあるが夫や家族たちから守られた生活の中では、決まったこと以外には何も考える必要がなかった。当時の奏子は言われたことに素直に従うことに苦痛はなかったし、実際に自分で決断しなくても良いということは存外楽なことなのだ。それは言い換えれば、史郎にとって思い通りに事を運ぶにはうってつけの生活スタイルであったということにもなるだろう。
まぁ、今になって思えば、彼が結婚相手として彼女を選んだ理由自体、自分の言うことを何でも素直に聞く妻は一番都合がよい、という意味だったのかもしれないが。


奏子と元夫の史郎は対外的には見合い結婚ということになっている。しかし実は二人はもう十年以上前から互いの存在を知っていた。
彼は奏子の異母兄、大貴の学友であり、高校の時には家にも何度か遊びに来たことがある。母親の違う兄や姉とは年が離れていたせいで奏子がその中に混じるようなことはなかったが、当時から目立つ存在だった史郎のことは遠巻きにして見ていたし、彼も友人の妹としての彼女に挨拶くらいはしていた。しかし何分にも当時の奏子はまだ小学生、大人びた兄の友人が恋愛の対象になることはなかったし、それは当然彼の方も同じだったと思う。
しかし時は流れ、彼女が大学生になった頃から周囲の事情が少しずつ変わっていく。
現在弁護士をしている奏子の兄、大貴が家業を継ぐことを拒み、結果として父親の会社の後継者が空席となってしまったのだ。
姉の里佳子は女性ながらかなりの手腕と実力を持っていたが、その頃にはすでに独立して家から出ていて、奏子以外の家族、特に父親と距離をおくようになっていたし、兄の大貴もまったく会社を継ぐつもりはないと宣言して我が道を進んでいた。
となると残る子供は奏子だけなのだが、如何せん彼女にはそんな気概もなければ能力もない。そこで父親が取った手段が彼女に後継者に相応しい夫をあてがい、娘婿として迎えるというものだった。
無論、結婚を強要はしない。奏子の気持ちが最優先だ、と父親は言った。しかし結局彼女には選ぶ権利はあっても自ら探す自由はない。周囲が持ち込んでくる話を両親がふるいにかけ、残った者と見合いをする。それで話がまとまれば、彼女は相手の男性と結婚するという運びになっていた。
最初にその話を聞いた彩乃は「何て時代錯誤、信じられない」と絶句した。そしてその後は怒ったり呆れたりで当人よりもはるかに激しい反応を見せたものだ。
ただ、奏子自身は漠然とそれでもよいと思っていたのは本当だ。
親に逆らって姉兄のように独立して自分の力で生活していく力はない。かといって人を惹きつけるような魅力もない自分が自力で親の御眼鏡にかなう結婚相手を探すのは容易なことではないと分かっていたからだ。

こうして何度か見合いをしたところで、史郎との縁組が持ち込まれた。
息子の友人であり、身元もしっかりしている。その上大貴と違い、会社員として親族が経営する会社に籍を置いていて、ゆくゆくは奏子の父親の会社を任せることも可能な状況と思われた彼を、両親は強く勧めてきた。
条件的には間違いなく良かった。それに何より奏子自身がこの話に乗り気になった。
正直に言えば、全く知らない人と見合いをすることは、彼女にはかなりの負担になっていた。もともと女子校育ちで彼氏もいたことがない奏子が、一足飛びに生涯の伴侶を選ぶことは難しく、ハードルも高かった。二人きりになった時の話題一つとっても、彼女は自分が何を話してよいのか、そんな些細なことにさえ悩んでしまうのだ。
その点既知である史郎は、兄という共通の知り合いがいる点で取っ掛かりに困ることはなかったし、大貴から妹の性格を知らされていた史郎も、彼女の気持ちをへこますことなく上手く付き合いを進めてくれた。
それまでの見合い相手とは違う安心感からか、奏子はすぐに彼に夢中になった。
社会人としてのキャリアを積んできた史郎の洗練された大人の所作も魅力的だったし、少し年齢が離れているのも結婚という未知の世界に踏み出そうとしていた彼女にとっては頼りがいがあることのように思えた。
彼女の反応で脈があると感じた両親はすぐにその結婚話を進めていった。
しかし急転直下のこの話に、年の離れた兄弟たちは二人とも難色を示した。特に姉の里佳子はフライング気味だ、もっと慎重に事を進めた方が良いと、何度も両親に意見したが、彼らは構わず奏子が在学中に婚約を整えた。
それもあって、奏子は大学4年の春には結婚が決まり、約一年の婚約期間を経て卒業後すぐに挙式というスケジュールが立てられたのだった。


奥手な奏子にとって、史郎との経験がすべてにおいて初めてだった。
恋人といえる男性を持ったことがなく、デートもしたことがなかった彼女には、彼と過ごす時間はそれまで経験したことがないほどときめくものだった。
家の思惑で急がされた婚約だったが、それを補う意味でも一年間という期間を持てたことは良かったのだろう。
平日は電話やメールで連絡を取り合い、とりとめもない話をすることができたし、週末ごとのデートは相手の知らない部分を見つけ出すことがこの上なく楽しかった。
史郎は婚約者の欲目を差し引いても素敵な男性で、自分がその横に立てることが信じられないと思ったことも一度や二度ではない。彼と一緒に時を過ごすだけで幸せな気持ちになれた、あの頃。
本当に、毎日がバラ色で、夢のような時間だった。
彼の気遣いや優しさが、自分への愛情だと思い込んでいた彼女は、だからその先に潜む落とし穴の存在に気が付けなかったのだ。
もしもあの時に、もっとしっかり自分の置かれた立場と言うものに目を向けることができていたとしたら、その後の彼との関係も違うものになっていたかもしれない。
ただ、その頃はそんなことを考える機械すらないまま、有頂天の彼女は史郎との結婚式に臨むことになる。
それは今から約一年半前のことだった。




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