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   セカンド ・ マリアージュ  39


「あれ?おかしいなぁ……」
週明け、奏子は更衣室でカバンの中をかき回していた。先週末、やけどの治療に病院に行き、新しい薬を貰ってきたはずだった。ところが、いくらカバンを漁ってみてもそれらしいものが見つからない。
「薬局でちゃんと受け取ったよね、私」
実家に行く前にばたばたと病院に寄ったので記憶が曖昧で絶対という保証はないが、それでも財布の中には院内薬局分のレシートが入っていたから間違いない。ただ、いつも薬が入ってくる紙の袋がどこを探しても見つからないのだ。
家には前もらった分の残りがあり、週末はそれを使ったせいで新しい薬の所在を確かめることさえしなかった。今朝は出勤の途中で薬を持ってくるのを忘れたことに気付いたが、まだ封を切っていない同じものがカバンの中にあると思っていたから取りに帰らなかった。
どこに置き忘れたんだろう。
家のマンションでは出した覚えがなかったし、実家なら母親がすぐに連絡を寄越すだろう。となれば、残るは病院のどこかに置き忘れたか、それとも落としてしまったかのどっちかだ。
「困ったな」
水仕事をすると手袋が蒸れるので、一度包帯を外して新しいものを巻き直さなければならない。その際に必ず薬も一緒に塗り直すようにと医師から言われていたのだ。
「仕方がない。今日はこのままやっちゃうしかないよね」
奏子は念のため手袋の中に薄いガーゼを一枚余分に敷き、皺にならないよう慎重に左手にはめる。それから髪の毛が残らないようキャップに押し込み、カバンをロッカーに戻してから更衣室を出た。
「さぁ、仕事仕事。おはようございまーす」
そして朝の挨拶と共に厨房に入り、早速朝食の準備に取り掛かかったのだった。

試雇の時を含めれば、奏子がここで働き始めてはや10ヶ月近くになる。もう作業は慣れたものだし、最後までなかなか合格点がもらえなかった煮物やあえものの味付けも中本に太鼓判を押してもらえるまでになり、今では大概のことは一人で任せられるようになっていた。
家族以外の、それもこんなに大勢の人の嗜好に合うものを自分が作れるようになるなんて、本の一年前までは想像もしていなかったことだ。
奏子が通った私立の女子校には給食というものがなく、幼稚園から大学までずっと母親がお弁当を作って持たせてくれていた。そのため実際に給食の調理員の仕事というものを見たことはなく、写真や人の話を聞いてそれを知るくらいだった。
しかしここにきて、一抱えもありそうな大きな鍋や、ボートのオールのようなしゃもじ、一杯で皿から溢れるのではないかと思うくらいものがすくえるお玉、家庭では収納場所に困りそうなくらいのビッグサイズのボウルなど、普通では考えられない調理道具も難なく使いこなせるようになったのには自分でも驚きだ。

「おはようございます。久世さん、お疲れ様」
「守谷さん、おはようございます。中本さんですよね。今呼んできますからちょっと待っていて下さい」
朝食の一番慌ただしい時間帯が終わり、後片付けと夕食の下準備をしているところに伝票を手にした守谷が姿を現した。ちょうど朝食の調理で出たごみをまとめて外のボックスに捨てに出たところで彼に遭遇した奏子は、彼を認めるや否や今出てきたばかりの戸口に向かって戻ろうとする。
「あ、久世さん、ちょっと待って」
中に引っ込みそうになっている奏子を守谷が慌てて呼び止める。
「君にもちょっと話があるんだけど」
「えっ、話ですか?」
そう言われて訝しそうな顔をする奏子に守谷が苦笑いする。母親が入院していた病院でのあの一件以来、何となく彼に対する彼女の対応が引き気味になっていたからだ。
「そんなに警戒しなくても。今日は単なる食事のお誘いだから」
「食事?」
「そう。久々に良い店を見つけたんだ。それで今週末にでもどうかなと思って」
ここのところ奏子の身の周りが慌ただしかったことや、前に食事に行った後で守谷に迫られたこともあり、意識的に一緒に行動すること避けていた。しかし、彼が奏子の家族の前で好意をもっていることを明らかにし、両親の方も彼女の判断に任せると言ってくれている手前、それをはっきり断らないのであれば、こうやって付き合いを続けていくのは自然の流れなのかもしれない。
史郎のことで何となくもやもやした思いを捨てきれない奏子だが、彼が新たな恋に向き合うのを願うなら自分もそれなりの行動を起こすべきだと考えた彼女は、迷いつつも彼の誘いを受けることにした。
「分かりましたご一緒させて頂きます」
彼女からOKの返事を引き出した守谷は、ほっとした様子を見せる。
「店の場所や時間はまた後でメールするよ」
「お願いします」
「了解」
それだけ言うと彼は中本を呼びに行こうとする奏子を制し、自ら厨房に続くドアに向かって歩き出す。その後ろ姿を見送りながら、彼女は無意識に詰めていた息を吐き出した。
二人でいると多少強引なところはあるが、守谷も恋人としてはかなりポイントが高い人だと思う。自分が史郎という出来過ぎた夫を持ったことがある女でなければ、恐らく彼に言い寄られた時点でコロリと参っていたに違いない。
しかし今の彼女はかつてのように身の程を知らない、夢みる女子ではない。いくら相手が素敵な人で自分に好意を持ってくれているからといっても、すぐにその胸に飛び込んでいくような無邪気な衝動は持てなかった。
それに、これを言うと何だか自分が終わってしまいそうだが、今の彼女は異性の誰に対しても男としての魅力を左程感じられないのだ。特に守谷とは、男女の間に起きる引力にような感覚が、全くと言っていいほど働かない。事実、彼と一緒にいて落ち着けるのは確かだし、楽しい。しかしそれはまるで結婚して数十年を経た夫婦のような、ちょうど奏子の両親を見ている時に感じる空気感に似ていた。考えようによってはそれはそれで楽ではあったが、今からそんなふうではいざ夫婦になっても一体どんな結婚生活になるのかが想像できなかった。
それを彩乃に言うと「あなた何かちょっと枯れかけてない?」と呆れられたが、一度大きな失敗をしている以上、ついそれを回避しようという心理が働いてもしまうのも仕方がないことだろう。だから恐らく、守谷にもそんな感情が働かないのだ、と彼女は勝手に自分を納得させていた。


仕事の後、更衣室で皆とお茶を飲み、奏子はいったん家へと戻った。その際に中本たちから守谷に関しての気になる噂について訊かれたが、彼女自身はまだ彼からもそんな話を聞いてはいない、とだけ答えておいた。
考えてみればここのところ仕事場以外で話をする機会もなかったし、ましてや個人的なことは人の目や耳がある場所では話し辛いのだから仕方がないが、それが今朝突然の彼から食事に誘われたことと関係している気がして仕方がない。
すっきりしない気持ちのまま午後の仕事をこなし、夜にマンションに戻るとその間に携帯電話に母親から着信があったと表示されているのを見つけた奏子は折り返し実家に電話をした。
「あ、もしもし、お母さん?」
電話に出たのは母親で、彼女からだと分かるとすぐに向こうからこう切り出された。
『奏子?明日こちらに来られない?』
「明日?うーん急だね」
時間的に厳しいと渋る奏子に、母親は何度もそう繰り返す。
どうしてか、母親は何となく慌てている感じがしたが、その後彼女がいくら理由を問うても「明日言うから来てくれ」の一点張りだ。終いには彼女の方が根負けして、短くて済むなら、朝と夕方のシフトの間に時間を作ると約束させられてしまった。
「一体何なんだろう」
いつもはおっとりとして鷹揚な母にこんな風に押し切られるなんて初めてだ。電話を切った後、奏子は困惑した様子で首を傾げたのだった。




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