押し付けられた彼の唇が熱っぽいのは、きっと体温が高いせいだ。 そう思った奏子は、腕から逃れようと咄嗟に彼の胸を押し返した。しかし彼女を拘束する力は弱まるどころか一層強くなるばかりだ。 「ダメっ」 唇が離れた一瞬の隙に奏子は顔を背けた。 「止めて下さい。冗談でもこんなことをしないで……」 「冗談?」 皮肉っぽく歪んだ彼の口からため息が漏れる。 「冗談でなければ高熱からくる気の迷いです。史郎さん、お願いですから、ね、大人しく眠って。でないと熱が下がらないでしょう?」 「……冗談、か。君はいつもそうやって、気付かないふりをするんだね」 「えっ?」 必死に彼から身を剥がそうとするが、両手を絡めとられた奏子はいとも簡単にその抵抗を封じられてしまう。剰え、くるりと身をかわされて、あっという間に彼の体に組み敷かれていた。 「君が気の迷いだと思いたいならそれでもいいさ」 真上にある史郎の顔に浮かんだ表情を見た彼女は、いつもと違う彼の切迫した雰囲気におののく。 「もっと早くにこうすればよかったんだ。あいつに浚われるくらいなら」 「し、史郎さん?」 再び唇が押し付けられ、割られたそこから彼の舌が捻じ込まれる。奪われた呼吸が苦しくて、それから逃れようともがいてみたものの、頭を抱え込まれた今は顔を背けることさえ許されなかった。 たとえ高熱に侵されてようと男の腕には敵うはずもなく、奏子は次第に抗う気力を失っていく。しかしそれは単に力によるものだけではなく、彼女の内側から滲みだす願望によるものが大きい。 何度も触れたことのある、彼女がよく知る唇の感触は、彼と一緒になるまで何も知らなかった自分の、女の部分を否応なく引きずり出す。幾度となくこの感覚に惑わされ、狂わされた時の記憶は今も彼女の中で、自分でも気づかないくらいひっそりと燻り続けていたのだ。 夫と体を重ねた一年の月日はもう過去になってしまったというのに、聞き分けのない自分の気持ちは心の中でまだ貪欲に彼を捕まえようと足掻いている。 このまま激情に流されてしまえば、彼女の内なる欲望は間違いなく満たされるだろう。 だが、彼女は最後の最後で自分の欲をねじ伏せる。 馴れ合いの、その先にあるかつてのように行き先を見失った空虚な自分の姿が頭の中を過ったたからだ。 「……違う」 呻くように呟く奏子に、動きを止めた史郎は彼女の顔を凝視した。 「違う、こんなの違う。こんなの、私が好きだった史郎さんじゃない」 それを聞いた史郎が一瞬怯んだように押さえつけていた力を抜く。その間に奏子は渾身の力を込めて彼の体を押し返すと転がるようにしてベッドを降り、ドアの側に置いたバッグを無造作に掴んでそのまま部屋を飛び出した。 たった数メートルの廊下を必死で走り、玄関で履いてきた靴を掴む。そこで中途半端に靴を引っかけドアから出ると、彼女は他人に不審がられない程度に小走りになりながら、エレベーターへと向かう。この時間、扉の前には誰もおらず、こんな時に限って2基あるエレベーターはどちらも1階に止まったままだ。 奏子は後ろを振り返って確認するが、自分以外廊下に出ている人はだれもいなかった。あの状態では史郎が追いかけて来ることはないだろうが、それでも彼女は一刻でも早くここから立ち去りたいと願う。 何でこんなことになっちゃったんだろう。 なかなか上がってこない階数表示を見ながら、奏子は肩を落とした。 いくら病人相手とはいえ、気を許し過ぎた自分が悪かったのだろうか。それが原因で彼が変な風に誤解をしたのであれば、非は彼女の方にある、と言われても仕方がないけれど。 しかし、奏子はあんな状態の彼を見ているだけでは我慢できなかった。たった一年とはいえ、夫婦として一緒に暮らした人なのだ。その彼が熱にうなされ苦しんでいるのに、何もせずに「はい、それではさようなら」と背を向けることなど到底できようはずもなく、迷惑がられるのを承知で彼を看た。 それに、今までずっと奏子は史郎に嫌われたと思っていた。我侭を通し、勝手に自分の元を去った彼女に、彼が良い感情など持ち続けているはずがないと思い込んでいたのだ。だから嫌がられることはあっても、昔のように口づけられるなどとは思いもよらなかった。 それとも、あれは自分が手放したものの大きさ重さを思い知らせるための、彼女を罰するキスだったのだろうか。 考えれば考えるほど混乱してくる。 奏子はやっと来たエレベータに乗り込むと、下に降りるボタンを押す。 1階では来た時とは違って外に出るのは容易く、ホールの端にあるセンサーの下を歩くだけでエントランスの自動ドアは簡単に開いた。 彼のマンションを出て駅の方向へと向かおうとした奏子は、前から車が来る気配を感じて道の端に避けた。彼女の側を通り過ぎたタクシーはそのまま今しがた彼女が出てきたばかりのマンションの前に止まる。 見るとはなしにそのタクシーを振り返った彼女は、車から降りる人影を見て思わず息を呑んだ。 「宮間、さん?」 咄嗟に側にあった電信柱の陰に身を潜めた奏子は様子をうかがうが、車から降りた彼女はこちらに気付くこともなく、そのまま史郎のマンションへと入って行った。 彼女は史郎の実家の家族とも親しいと聞いているから、もしかしたら彼の両親に頼まれて様子を見に来たのかもしれない。しかし彼女がここに来た理由は何であれ、今は誰かが史郎の側についていてくれることが望ましい。 たとえそれが、史郎に心を寄せる、美しい女性であったとしても。 奏子は一瞬目を閉じ唇を噛みしめる。 これでいいのかもしれない。 彼の部屋に何一つ痕跡は残していないはずだから、少なくとも彼女に自分がいたことを気付かれることはないだろう。 熱で弱っている史郎もこれかきっかけとなり心が宮間に傾けば、彼の気持ちにも何だかの変化が起きるかもしれない。 奏子はふっと息を吐き出すと、肩に下げていたバッグのひもをぎゅっと握りしめてその場を後にする。 しかしその時の彼女はまだ、自分が犯してしまった小さなミスが後々ややこしい事態を引き起こすことになると気付いていないだけだったのだ。 HOME |