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   セカンド ・ マリアージュ  36


包帯の上からラップを巻き、その上から薄手の炊事用手袋をはめ、さらに両端をしっかりと輪ゴムで縛ってある左手は物を掴むことさえできず、押さえる動作以外にはほとんど用をなさない。そして、いくら利き手ではないとはいえ、ここまですると左手そのものが邪魔にさえ感じられるようになってくる。
「彩乃、大げさ過ぎ」
あれから食事の準備をしていた奏子の左手の包帯に気付いた彩乃は、それがやけどだと知るとすぐに彼女をキッチンの外に追い出した。それきり、奏子は調理も洗い物も、風呂の掃除さえもさせてはもらえず、ただぼんやりとリビングで彩乃が動き回るのを見ているしかなかったのだ。
そしていざ風呂に入る段になると、今度はあれやこれやと持って来て、今の手の状況を作ってしまった。結果、腕はもとより手首から下に至っては倍くらいはゆうに太くなってしまい、彩乃の手を借りてやっとの思いで袖口から腕を抜くことができたという有様だ。
「服が半袖でよかったよ」
湯船の中で奏子はそう呟くと、自由になる右手で顔を擦った。
日頃はシャワー派の彩乃が、片手では飛沫を避けて体を洗うのも難儀だろうと湯船にお湯を張ってくれた。
「無理せずそのままザブンと浸かったらいいから」
彩乃にそう言われて、今夜ばかりはありがたくその言葉に従うことにする。

「ふぅ」
お湯を片手でくみ上げては零しながら、奏子は次々に現れては消える水紋をぼうっと見つめた。
このもやもやとした思いの正体は、言わずと知れた「嫉妬」だ。
自分から逃げ出しておいて、今更そんなことを考えるのはさもしいことだとよく分かっている。しかし、自ら手放したものを他の人が手に入れようとしているのを、ただ黙って見ているしかないということは、何て苦しくて遣り切れないものなのだろう。
こんな思いをするくらいなら、自分も他の人を……守谷のように彼女に好意を寄せてくれる男性にもっと意識を向けることができれば、史郎が新しい恋に向き合うことを心から喜べるようになるのだろうか。
しかしそれでは自分が守谷を、まるで当て馬のように都合よく使っているだけではないだろうか。
「でも、それじゃ根本的に解決したことにはならないよね」
ともすると、こんな風にその場限りの、後ろ向きで場当たり的な思考に走ろうとする自分に気付き、へこみそうになる。
奏子は左手の肘から上を上げたまま肩まで湯船に沈むと、右手ですくった湯をバシャバシャと顔にかけた。
今の状況は自らが望んだことで、誰のせいでもない。家族に甘やかされ、史郎に守られていた自分を変えたいと、せっかく周りが整えてくれた居心地の良い場所を捨てたのだ。前を向いて生きて行かなくては、皆の期待に背いた意味が無くなってしまう。
そうは思っても、今日の奏子はやけどと突然の史郎の見合い相手の来訪で、心身ともにどん底だった。
「はぁ、何か疲れた」
そう呟くと、奏子はずるずると体を滑らせて鼻の下までお湯につけた。そして吐く息が小さな気泡となって水面に上がっては消えていくのを感じながら、しばらく目を閉じたまま湯船の中に揺蕩っていたのだった。



それからしばらくして、梅雨明けとともに夏の暑さが本番を迎えると、冷房の効きにくい工場内だけでなく、ちまたでもそろそろ夏バテを訴える者が出始める。
その頃になり、ひと月以上入院していた母親がようやく退院の運びとなった。むろん、まだまだ通院とリハビリが必要だが、退院して家に帰れるというだけで、母親は嬉しくて仕方がないようだ。父親も、あまり表情には出さないが、妻が戻って来ることにほっとしているのが分かる。
当日は兄の大貴と父親が迎えと退院の手続を引き受けてくれたので、奏子は週末の休みにあたるその翌日、母の見舞いも兼ねて実家を訪れた。
すると早速ベッドから起き出して、キッチンでごそごそと片づけものをしているのを見咎めた奏子は、思わず母親の元に駆け寄った。
「お母さん、そんなことをしてもいいの?」
「調子が良いの。もうすっかり痛みもないし」
母はそう言うと手ずからお茶の用意をし始める。それを制しようする娘に、母は首を振ると入院中にはなかった余裕の笑みを見せた。
「大丈夫?」
「平気よ。せっかく家に戻ったんだから、このくらいしないと体が鈍っちゃう」
多少動きのぎこちなさは残っているものの、以前と変わらない母親の様子に、奏子は心配しながらも安堵する。まだ療法士さんには無理は禁物と言われているようだが、これだけ動こうという意思があるということは、思った以上に回復が早いのかもしれない。
「ところで、お父さんは?」
休みということもあって、いつもならば夫婦で一緒に行動していることが多い父親の姿が側にないことを不思議に思った奏子は、母親に訊ねた。
「ああ、お父さんね、今日は会社に行ってるのよ」
聞けば、週の初めあたりから史郎が体調を崩して遅刻と早退を繰り返していたらしい。それが昨日になって遂に欠勤するとの連絡が入り、彼に回復するまで出勤停止を言い渡した父がその代役として出勤して行った、とのことだった。
「珍しいなぁ。史郎さん、体調管理にはかなり気を使っているはずなんだけど。」
訝しむ奏子に母親は同意するように頷いた。
「そうね、彼の入社以来、こんなことは初めてかもしれないわね」
「『仕事の』鬼の攪乱とか?」
「奏子ったら、そんなことを言うと史郎君が可哀想よ。でも……何分にも彼も一人暮らしだから」
「大体史郎さんは忙し過ぎるのよ」
奏子の言葉に、母親も同意して頷いている。
こうしてしばらく二人がその話題について意見をし合っているうちに、父親が運転手に付き添われて帰宅してきた。
「あ、あなた。お帰りなさい」
「お父さん、お帰りなさい。お邪魔しています」
「随分楽しそうだな。何を話しているんだ?」
「ふふふ、内緒よね、お母さん?」
「そうそう、女同士の話よ」
そう言って、二人は父親が母娘の会話に混ざろうとするのを軽く交わした。
「どうせ。いつも儂は仲間外れにされるんだよな」
年甲斐もなく、ちょっと拗ねてみせる父を、母親と奏子は生温い目で見つめる。
「ところで、お父さん、史郎君の具合は?」
母親がそれを聞くと、父は急に真面目な顔をして手のひらで頬を擦った。
「それが、今朝から連絡が取れないんだ。皆心配していて、部下の誰かが訪ねて行ったようだが、応答がなかったらしい。結局セキュリティーの関係で中に入れず戻って来た」
どうしても、となると管理人に事情を話して通してもらうことになるが、そうするとまた大事になってしまう。念のために史郎の実家の両親に連絡を入れておいたものの、彼らも遠方に住んでいて今すぐには駆け付けられそうにない様子だったという。
「一応明日になっても連絡がつかないようだったら、管理会社に依頼するように指示はしてある。それまでに何か反応があればいいんだが……」
「史郎君に限って大丈夫だと思うけど、心配ですね」
それを知った母親も、顔を曇らせる。
両親の会話を聞きながら、奏子はカバンの中に入れっぱなしになっている彼のマンションの鍵を受け取った時のことを思い出す。

『暗証番号は、君の生年月日だから、覚えておいて』

鍵と暗証番号が分かれば中に入ることができるはずだ。しかし今の自分は彼とは他人なのだ。勝手にそんなことをして、許されるのだろうか。




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