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   セカンド ・ マリアージュ  35


「どうぞ」
人の目がある廊下でこんな話を続けるわけにもいかず、奏子は鍵を開けてその女性を中へと招き入れる。とりあえず彼女をリビングに通すと、自分は上着とカバンを自室に置き、そのままキッチンへと入った。
中途半端な気候に、熱い飲みものと冷たい飲み物のどちらを出すかを迷ったが、自転車に乗って来た自分の喉が冷えた方を欲していたので、それに従ってアイスティーを淹れる。
「冷たい紅茶にしましたけど、よかったですか?」
テーブルにグラスを置きながら聞くと、彼女は固い表情のまま頷いた。
「すみません」
「いえ、こんなものしかなくて、申し訳ないですけど」
二人分のグラスを置き、自分はラグの上に直に座ると、奏子は向かいのソファーに座っている相手をそっと見上げる。
年齢は、自分よりも少し上くらいだろうか。
人目を引く綺麗な人だが決して派手さはなく、どちらかといえば大人しげな感じに見える。装いはといえば、奏子も大学在学中に時々お世話になったブランドのラインナップで揃えられていて、清楚で、いかにもお嬢様が好みそうなテイストになっていた。

「……それで、今日はどのようなご用件で?」
出されたアイスティーに手をつけることなく、しかもなかなか口を開こうとしない彼女に、奏子の方から水を向けてみる。
「あ、あの……」
何かを言い淀む女性に、奏子は辛抱強く言葉を待った。
「久世さんは、寺坂さんを今でもお好きなんでしょうか」
「はぁ?」
直球で投げられた質問に、奏子は間が抜けた返事をした。
「私、直接寺坂さんにうかがったんです」
「うかがったって……一体何を」
「お見合いを断られた理由です」
彼女、宮間さんの話によると、史郎は見合いの直後に断りを入れたらしい。
地元の出身者同士のこの話は双方の両親や間を取り持った仲人が随分乗り気だっただけに皆が納得できず、特に当事者である目の前の彼女は史郎に連絡を取って直接本人に真意を確かめたのだという。
「それで、彼は何て?」
「『将来的にもにこちらを引き払う気はないし、まだ再婚とか、そんなことを考えたくない』と」
ただ、史郎と同郷の彼女は現在東京で会社勤めをしていて、慌てて実家の方に戻る必要はないという。家同士も遠いながら縁戚関係にあり、以前から顔見知りという間柄なので、何とか見合い話をまとめたいという周囲の意向も強かったようだ。
それに何より宮間さん自身が史郎を気に入っていて、ぜひこの話を進めて欲しいと思っていた矢先に先方から断りの連絡が入り、落胆した彼女はそれでも諦め切れなくてそのような行動に出たということだった。

「不躾ですが、寺坂さんに、再婚に前向きになれない理由を訊いてみたのですが……」
今の史郎が結婚に対してどんな思いを抱いているのか、聞きたいような、聞きたくないようなそんな複雑な気持ちになりつつも、奏子は途切れてしまった彼女の話の続きを待つ。
「寺坂さん、はっきりおっしゃったんです。どれだけ時間が経っても、前の奥様のことを完全に忘れてしまうことはできないだろう、って」
どんな女性と一緒にいても、ふとしたことで彼女のことを思いだして無意識に比べてしまう。
そんなふうに不実な気持ちを抱いたままで、たとえ他の誰かと付き合ったところで、また奏子の時と同じように相手の思いを察することができず辛い思いをさせてしまうだけだ。
史郎はそう言って目の前の彼女の気持ちを退けた。
「だから、寺坂さんがそこまで言い切る方に一度お会いしたかったんです。それで、彼には内緒で、ご家族に久世さんのことをうかがって参りました」
「そうでしたか……」
離婚後は寺坂の両親とはすっかり疎遠になっていたが、奏子が実家を出てから一度だけ、以前お世話になった方の訃報で連絡を取ったことがあり、その時にここの住所を知らせた覚えがある。
だから史郎の母親から、くれぐれも先方に失礼のないようにと釘を刺されつつも奏子の居場所を聞いてきたのだという。

見合いで一度会っただけでそんなに必死に入れ込むようなものか、と他人には言われるかもしれないが、奏子には目の前の彼女の気持ちが痛いほど分かった。
人を好きになるのに時間や会った回数は関係ない。この人が良い、と思えば瞬く間に人は恋に落ちるのだ。
奏子自身もそうだった。どちらかといえば奥手で、恋人の一人も作れなかった彼女が、史郎を見た瞬間に彼が欲しいと思った。それはもう常識や理屈といったものでは説明がつかない感情の部分によるもので、彼女はその時初めて自分の欲というものを自覚した、といっても過言ではないだろう。
ただし、彼女にはそれを持続していくだけの力がなかった。外からの雑音や、自身の焦りや疑念といったものに惑わされたせいで、彼を自分に繋ぎとめておくことに疲れてしまったのだ。
目の前の彼女を見ていると、彼に恋をした時の自分を思い出す。
まだそれはそんなに昔のことではないのだけれど、今の奏子にははるか遠い彼方のことのように思えてしまう。

「私も彼を嫌いで別れたわけではないんです。ただ、私の我侭で……」
いつからか、一緒にいるのが辛くなってしまった。彼と同じものを見て、同じことをしながら自分一人が置いてきぼりにされているという卑屈な感情に抗うだけの強さがなかったのだ。その結果、彼の気持ちと人生を深く傷つけた。そんな自分に今さら彼のことを思う資格はないだろう。
それを聞き、彼女が奏子に何か言おうとしたその時、玄関が開く音が聞こえた。それに続いて足音が聞こえ、彩乃がリビングに姿を現す。
「奏子、もう帰っているの?玄関の靴はお客さん?」
「お帰り。あ、うん」
彩乃の姿を見た宮間は、慌てて立ち上がると荷物を手に取った。
「お邪魔しています。すみません、長居してしまって。もう失礼します」
彼女は返ってきた彩乃に一礼すると、逃げるようにリビングを後にする。
「あ、宮間さん、ちょっと」
奏子が呼び止めると玄関で靴を履いていた彼女が振り返った。
「ごめんなさい。でも、私にはどうすることもできない、と思います」
そう言った奏子に、彼女は小さく首を振った。
「いえ、私の方こそすみませんでした。ただ、どうしてもあなたに会ってみたくて、こんな真似をしてしまいました……ごめんなさい」
彼女はそう言ってこちらに向かってぺこりと頭を下げると、そのままドアの向こうに消えて行く。後に残された奏子はしばらくその場に佇んだ。
「奏子、あの人誰?」
その声に振り向くと、彩乃がすぐ側に来ていた。
「う、うん、ちょっと……」
言い難そうにしているのを察してか、彩乃はそれ以上しつこくは聞いてこない。
「それよりそろそろご飯にしない?お腹がすいた」
はっとして時計を見ると、時刻はもう9時を回っている。
「ご、ごめん。すぐ準備するね」
「慌てなくていいよ、着替えたら私も手伝うから」
彩乃はそう言うと自分の部屋に戻って行く。その後ろ姿が視界から消えてから、奏子は宮間が去った方を振り返る。
彼女は自分より数段綺麗で素敵な人に見えた。性格も穏やかそうで、感情的になったり激昂したりすることもないのだろう。奏子が見ても、非の打ちどころがない、そんなふうに思える。今でもきっと史郎のまわりには、そんな女性が大勢いるはずだ。
そう考えると奏子は複雑な思いに囚われる。もう他人なのに、自分には手が届かない人になったというのに、彼のことを思うとなぜ今でもこんな気持ちにさせられるのか。
そんなことを考えてしまう自分が嫌で、奏子は無機質な玄関のドアから目を背けると、小さくため息を漏らしたのだった。




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