BACK/ NEXT / INDEX




   セカンド ・ マリアージュ  34


「はぁ……」
奏子は目の前に自分の手を差し出してじっと見つめる。
熱いものに触ればやけどする。分かり切ったことなのに。
「やっちゃったなぁ」
それはフライヤーに入れた揚げ物を取りだす時の一瞬の油断だった。大きく撥ねた油がハンドルを握っていた左手の甲にかかった。それに気を取られていたせいで、高温になっていたフレームに手首から先をべったりと押し付けてしまったのだ。
咄嗟に避けられなかったのは、単に自分の運動神経が鈍いからというだけではない。仕事以外の余計な考えごとをしていたせいだ。
すぐに流水で流し、氷で冷やしたがやけどをした部分が赤く熱を持ち、少し時間を置いた今はヒリヒリと痛みを伴った水ぶくれになりつつある。
お蔭で洗い物を含む水仕事一切を止められた。薬を塗って包帯を巻いた手で食品に触ることはもちろんご法度で、簡単な調理もさせてはもらえない。
皆が一番忙しく立ち回っている時間帯に、自分一人だけ手持無沙汰なのは気分的にもかなり辛かった。特におばちゃんたちが代わる具合を聞きに来てくれて、気を使われているのが分かるから余計にだ。
その日の仕事は使える方の手で配膳の段取りをするところまで、早く上がって念のために病院に行くように言われた奏子は、しょんぼりしながら調理場を出る。
そんなタイミングで守谷が厨房に姿を現した。
「どうしたの?」
退勤にはまだ早い時間だというのに服を着替え、荷物を持って休憩室から出てきた奏子に、守谷が不思議そうな顔をする。
「あ、ちょっと……」
そこに厨房から中本が顔をのぞかせた。
「あ、守谷君、書類持って来てくれた?」
「ええ、これです」
彼はそう言うと、奏子の脇を抜けて奥へと進んで行く。
「あ、カナちゃん、気を付けて帰るのよ。もし無理だったら明日は休んでもいいから、早めに連絡をちょうだい」
「分かりました。お手数をお掛けしてすみません」
訝しむ守谷の目を避けるようにして、奏子は一礼すると通用口の方に向かって歩き出した。
「あ、久世さん、ちょっと待って」
背後から守谷の声が聞こえたが、構わず外に出た。何があったのかは多分中本たちが話してくれるだろう。
今日の怪我に関しては、別に彼が悪いわけではないが、それでも何となく話しをしたくなかった。今自分が鬱々と悩んでいることを突き詰めて考えれば、守谷にだって遠因があるはずだ。そう思うと八つ当たりしてしまいそうになる自分が嫌だった。
ただでさえ滅入っている気持ちをこれ以上へこませたくない。
だから彼女は逃げるようにして自転車置き場へと向かった。


自転車置き場に着き、鍵を探してカバンの中に右手を突っ込む。指先に触れた金属の感触に、それを掴んだが、出てきたのは目的のものではなかった。
「あ……」
彼女の手に中で鈍い銀の光を放っているのは自転車の鍵よりも大きな鍵。
それは先日史郎から手渡されたマンションの鍵だった。
こんな小さなものが、目下のところの最大の悩みの種だなんて。奏子は指先で摘まんだそれを目の前で揺らしながら、小さくため息をついた。
「どうしようか……君はどうしたい?」
問いかけたところで無機質な金属は何も答えてはくれないことくらい百も承知だ。
もちろん、史郎に突き返すことも不可能ではない。しかしこれを握らされた時の彼の切ない表情を思い出すと、どうしても躊躇してしまう。何が史郎にそんな顔をさせるのか、彼女にはそれが分からないのだ。
「やっぱり未練かなぁ」
いつだったか、守谷に訊かれたことがある。
「でも、前のご主人にはもう気持ちは残ってないんでしょう?」
その言葉に、奏子は即答できなかった。
自分の方から離婚を切り出し、勝手な理由で彼の元を飛び出した。それなのに未練があるなんていうこと自体烏滸がましいのは分かっている。そうは思っているものの、側に居れば無意識に彼の姿を目で追い、声を聞こうと耳を澄ますことを止められないのはどうしてなのか。
いろいろなことを考えて悶々としながら自転車を押して歩いているうちに工場の入口に行き、詰所にいる守衛さんに軽く頭を下げて挨拶をしてから外に出た。まだ辺りは明るくて、いつもと違う様子にちらりと時計を確認すれば、ようやく5時半を少し過ぎたところだった。

とりあえず言われた通りにお医者さんに行こう。
奏子は自転車に跨ると、記憶を頼りに皮膚科の看板が上がっている病院に向かってこぎ出したのだった。



思っていた以上に時間がかかり、心身両方の疲れを蓄積させながらマンションに帰りついた頃には外は薄暗くなっていた。
夕食は昼の間に買い物を済ませて準備しておいたのですぐに取り掛かれるはずだが、その前に少し休みたい。
そんな気分でエレベーターに乗り部屋のある階で降りると、廊下の向こう、自分たちの部屋の前に誰かが立っているのが目に入った。
女の人?
遠目に見ても、明るい色の長い髪が分かった。少しずつ近づいていくと、白いカットソーに淡い色彩のスカートを身に着けているのが見える。そして履いているサンダルまでがはっきりと認識できる距離まで来たが、奏子にはその女性には見覚えがなかった。
珍しいな、彩乃の知り合い?
一緒に暮らすようになってから一年近くになるが、その間に誰かが彼女を訪ねて来たのを見たことがない。親戚とは疎遠だし、友人もそうは多くないという彩乃は、あまりプライベートな空間に他人を入れたがらないせいもあるのだけれど。

「あの……うちに何か御用ですか?」
声を掛けると、その人は驚いたような顔でこちらを振り向いた。
「あの、こちらに久世奏子さんとおっしゃる方がお住まいだと伺ってきたのですが」
それを聞いて奏子も驚いた。
一応家族や近しい友人にはこの住所を知らせてはあった。しかし、今までは誰もここには訪ねてこなかったし、奏子も自身が間借り人であることを肝に銘じていて、用事があればできるだけ外で会うようにしていたからだ。
「あ、はい。私が久世ですけど」
そう答えると、暫くの間女性はじっと彼女を見つめた。
「そうですか、あなたが……」
その言葉に、含みを感じた奏子だが、名乗ってしまった以上知らぬふりもできそうにない。そんな彼女に女性は所在無げな様子を見せる。
「あの、私あなたが誰だか存じ上げないのですが」
そう言って首を傾げると、その人は小さく頷いた。
「私、宮間と申します。寺坂さんの……史郎さんのことでお願いがあってまいりました」




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style