もう最悪だ…… この展開に、奏子は頭を抱えながら家族の待つ病室へと戻っていく。その足取りはまるで鉛の鉄球でもつけられているかのように重く、なかなか前に進もうとはしない。 守谷が来ることである程度の波乱は予想していた。しかし彼女の中ではその場に史郎まで立ち会うようなことになるとは考えもしなかった。その上彼らが訳の分からない鍔迫り合いを始めたことで、彼女の頭の中は大混乱を起こしていたのだ。 元夫と恋人に名乗りを上げた仕事先の上司。 彼らに取り合いをされるほど、自分に価値があるとは思えない。 きっと守谷は奏子の過去の男……というのも何だけど、元夫が未だ彼女の近くにいることへの疑問を呈したかったのだろうし、史郎は史郎で恐らく病院という場所を弁えない守谷の行動に苛立ったに違いない。 そう、きっとそんなところだ。 奏子はいろいろと考えた末に、勝手にそう結論付けた。 こういったことに対する奏子の、自己評価はあまりにも低い。 だから努々男二人が自分を挟んであからさまな牽制をし合っていた、などという方向にはまったく思考が向かわないのだ。 考え事をしながら、わずか二、三十メートルの廊下を必要以上に時間をかけてのろのろと歩いた奏子は、病室のドアの前でふぅと小さく息を吐くと、ぎゅっと唇を引き結んで顔を上げた。 皆に何を言われるか分からないが、こんな風にずっと逃げているわけにもいかない。彼女は覚悟を決め、えいとばかりに引き戸を開ける。すると中にいる者たちの目が例外なく一斉にこちらを向いた。 「ひっ」 時ならぬ注目に、奏子はぎょっとした顔でその場に固まった。そんな彼女に向かい、真っ先に口を開いたのは姉の里佳子だった。 「ちょっと奏子、これってどういうこと?」 「うん、ちょっといろいろあって……」 もごもごと口ごもる奏子に、父親が追い打ちを掛ける。 「仕事を始めたというのもつい最近聞いたばかりなのに、そんな相手までできたなんて、儂は知らんかったぞ」 「あ、まだ誰にも言ってないから」 自分にその気がない以上、交際を申し込まれているなんて、おいそれと言えるものではないのだから当たり前だ。それがたとえ家族であったとしても。 「でも、まぁ驚いたわね」 とは母の弁だ。 そして史郎はというと、ずっと無言で家族の間で交わされるやり取りを聞いている。 両親や姉のように、リアクションがあるのはまだ良い。むしろ彼のように黙ったまま何も反応を示さない人に対する方が、その何倍も気まずい思いをするのだということを痛感しつつ、奏子は部屋の端っこで小さくなってただただ嵐が過ぎるのを待つしかないと覚悟した。 しかし、遠慮ない3つの口は思っていたほどの破壊力も発揮せず、一通り驚きの言葉を述べたところで事態は終息を迎えた。というのも、やはりこの話題をこれ以上膨らませるには、史郎の存在が微妙なものだからだろう。 奏子の元夫である彼も、いくら別れた夫婦とはいえ元の妻の新たな艶話など聞きたいとは思わないはずだし、彼女だって聞かれたくない。 それに口こそ挟まないが、彼が不機嫌なオーラを出していることは、その場にいた者すべてが大なり小なり感じ取っていたはずだ。その源が何であるかはさて置いても。 「あら、もうこんな時間。そろそろ帰るわね」 それからしばらくして、時計を見た里佳子はそう言うと、椅子の上に置いていたバッグを手にした。 「それでは私も、そろそろお暇させて頂きます」 彼女に同調するかのように、ソファーに座っていた史郎が腰を上げる。 「ご自宅までお送りしますよ」 「あら、私これからオフィスの方に顔を出さないといけないんだけど」 「良いですよ。仕事先でもどこでも、お望みの場所に」 「そう。それじゃお願いしようかしら。奏子?」 そんな姉たちのやり取りをぼんやり他人事のように眺めていた奏子は、自分の名を呼ばれ、驚いて飛びあがった。 「な、何?」 「あなたも、もう帰りましょう」 「え、でもお父さんは?」 そうなると母親の側には父しか残らなくなる。もともと小まめな人ではないから、付き添いなんてできそうもないし、何より杖を使って歩けるようにはなったものの、まだ介助なしで乗り物に乗ることが難しい父親を家に連れて帰る者がいなくなってしまうと思ったのだ。 「大丈夫、夕方には大貴も寄るって言っていたから、何とかするわよ」 そんな娘たちの会話を聞いていた父親が不満げな顔をする。 「そんな心配されんでも、ひとりでちゃんと帰れる」 「奏子、今日はもう本当に良いわよ。それにお父さんのことなら、何だったらお母さんが一緒に下まで降りて車に乗せるし」 妻の言葉に、父親は拗ねたような顔をする。 「病人に世話を焼かれるほど、儂は耄碌しておらん」 そんなやり取りを見ながら、里佳子が妹の耳元でひそひそと話す。 「もうあの二人は放っておきましょう。何だかんだ言って、ああやってるのが楽しいんだから」 父親とはあまりそりが合わない姉だが、継母である奏子の母との関係は昔から良好だ。それもあって、彼女たちは両親の夫婦仲が良いこともよく理解していて、常に優しく、また時に半ば呆れつつも生温い目で両親のじゃれ合いを見守っている。 「それじゃ、私たちは帰るわね」 「史郎君も里佳子ちゃんも奏子も、お見舞い、ありがとうね。お父さんのことは引き受けたから心配しないで」 「最後の一言は余分だ」 ぶつくさ言う父に向かい、ハイハイとぞんざいに頷いた里佳子は、妹を引き立てるようにして病室を出る。その後ろに史郎を従えた二人は、そのまま廊下を歩いてエレベーターに乗った。 こうして病院の玄関まで来た3人だったが、そこで急に里佳子が自分はタクシーを拾って帰ると言い出した。 「リコ姉、何で?」 慌てて引き留めようとする奏子に、里佳子は小さく肩を竦めた。 「会社はここから近いから、やっぱり自力で行くわ」 「遠慮なさらなくても、二人ともちゃんと送りますよ」 そう言って奏子に同調する史郎に、里佳子は妹に向けるのとは全く違う、冷めた視線を投げかけた。 「史郎君、あなたねぇ……まぁいいわ。ところであなた達、せっかくの良い機会だから、この際二人でもっと話をしたらどう?」 「リ、リコ姉、急に話って言われても……一体何を?」 戸惑いの表情を浮かべる奏子の鼻を、里佳子が軽く摘まんで引っ張る。 「それは自分たちで考えなさいよ。今まで二人に一番欠けてたものは、その会話でしょうに」 里佳子はそう言うと、ちらりと横目で史郎を見る。 「史郎君も……分かってるわよね」 言外に若干の棘と含みを持たせた言い様に、史郎が苦笑いする。 「ええ」 それを聞いた里佳子の唇が大きく弧を描き、艶やかな笑みを見せた。 「そう、なら良いわ。それじゃ、またね」 最後に軽く片手をあげると、里佳子は客待ちをしているタクシーの方に歩き出す。 そして彼女が乗り込んだ車が走り去るのを見届けてから、二人は前後に少し離れて駐車場へと向かったが、その間、奏子の頭の中には姉の言葉がぐるぐると回り続けていた。 話って、今更史郎さんと何を話せばいいんだろう。 そんな奏子の様子をちらりと見て、彼の顔に浮かんだ困ったような表情には気づかないままに、彼女は史郎の車の助手席に乗り込んだのだった。 HOME |