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   セカンド ・ マリアージュ  3


正門横の従業員通用口から敷地内に入ってすぐのところに3階建の建物があり、そこの2階部分が事務所になっているらしい。
恐る恐る階段を上り指定された場所を訪ねる。飾り気のないドアをノックしてから開けると、中にいた数人の人の目が一斉にこちらを向いたのを見た奏子は、一瞬足が竦んでしまった。
「あ、あの私、面接に伺ったのですが」
「久世さんですね?」
「は、はい」
「こちらへどうぞ」
彼女を見て席を立ち、応対してくれた担当者はまだ若い男性だった。
工場に勤める人が着ているのと同じ作業着の上着を身に着けているが、その下はカッターシャツにネクタイ、普通のスーツのスラックスを穿いているところを見ると、どうやら彼は現場ではなく事務方の人のようだ。
面接場所となった簡易の応接室に通され、その男性と向かい合って座った彼女は、まず最初に彼から名刺を差し出された。そこでどうやらこの男の人の名は守谷さんという名前であるらしいことが分かった。
「生産管理責任者さん、ですか」
無意識に名刺にある肩書きを読み上げた奏子が「まだお若いのに」と付け加えると、彼はちょっと困ったような顔をした。
「一応そうなります。でも実は僕は本社からの出向なんですよ。ですからここでは責任者という名の体の良い使い走りです」
そう言って頭を掻く目の前の男性は、背が大きいわりに威圧感のない、雰囲気の柔らかい人だった。元の夫である史郎も同じように細身で背が高かったが、もっと全体的にシャープで冷たい感じがしたことを思い出す。それはそれで格好が良かったし、出来る男っぽくて女性にはモテたのだろうが、如何せん一緒にいるとどうしても肩がこるようなタイプの人であったことは否めない。
「では、先に履歴書の方を拝見してもよろしいですか?」
そう言われた奏子は自分がぼんやりしていたことに気づいてはっとした。
「あ、すみません。久世……奏子です。よろしくお願いいたします」
慌てて自分の名前をフルネームで名乗り、持参した履歴書を手渡すと、受け取った守谷は封筒を開いてざっと中の書類に目を通した。
「ほう、純麗女子大学卒ですか。それにまだ卒業して2年も経っていないとなると、事務方の一般入社の新卒扱いでも充分いけそうですが」
彼は奏子が提出した履歴書を見て不思議そうな顔をした。
確かにそうなのだろう。彼女が行った大学は、昔からお嬢様学校として有名だが、最近では卒業後に普通に就職する学生も珍しくない。実際に戦力になるかどうかは別として、社員にその大学の卒業生がいるだけで対外的に聞こえ良いので会社の箔付けのために採用されることもあると話にきいたことがあった。
「はぁ、そうですか」
気の抜けたような返事しかできない奏子の様子を気にするでもなく、守谷は淡々と質問を続けていく。どうやら彼女がぼんやりしているうちに、いつの間にか面接が始まっていたらしい。
「で、卒業後はどうされていましたか?よろしければ教えて下さい」
「あ、家で……家事手伝いをしていました」
正確には結婚して主婦をしていたのだが、自分がやっていたことを拡大解釈すればそれも強ち嘘ではないと思う。
さすがに履歴書に「離婚歴」までは書きたくなかったので、そのあたりは彩乃の指導の下に上手く端折っておいたのだ。
「差し支えなければ、なぜここで働こうと考えられたのか、その動機をお聞かせいただけますか?」
そう問われた奏子は一瞬答えに迷った。
理由など、適当につけて誤魔化してしまうこともできたるだろう。だが、こういった場に慣れていない彼女はそれ自体をどのように取り繕えばよいのかが思い浮かばないのだ。下手に話を作ればぼろが出てしまいそうだが、かといってありのままを話してもそれをどう受け止められるかが分からない。
それでも奏子はできるだけ自分の気持ちを偽らず、素直に表す言葉を選び、それに答えた。
「正直に申しますと、働こうと思った一番の理由はお金です」
そう言うと、担当者はちょっと驚いたような顔をした。経歴だけ見ると、彼女が大した苦労もしたことがない温室育ちであることは一目瞭然だ、と彩乃からも言われた。多分、目の前の彼も自分を見てそんな風に思っていたのだろう。
「でも、もっと言えば自立がしたいと思ったんです」
「自立、ですか?」
意外だという口調で鸚鵡返しに訊かれる。
「はい。このままだと自分では何もしないで他の人に依存しながら一生暮らしてくことになるんじゃないかと、今更ながら気が付いたんです。もちろん、全部が全部、それが悪いことだとは思いません。ただ、私は今まで自分が暮らしてきた環境しか知る機会がなかった。でも、もっと広い、外の世界が見たくなったんです。そのためにも、先ずは自分で働いてそこから収入を得ることから始めようと思いました」
ふうんと唸りながら頷いた担当者は、その後二、三仕事に関する質問をした後、「最後に」と断ってこういう仕事に就くことを周りの人は知っているのかと訊いた。
「気を悪くなさらないで頂きたいのですが、親御さんを始めとしてご家族やご友人の皆さんは、今までのあなたの生活を容認していたようにお見受けします。学歴なども十分だし、生活に困るといった環境にも見えない。そんな生活をしてきた方にはこの仕事は少し、いやかなり体力的にも辛いし、収入も左程満足できるものではないでしょう。これはいわゆる肉体労働ですからね。働き始めたはよいが周囲の皆さんに反対される、といったようなことはありませんか?」
言葉を選びながら質問してきた彼の、意図したところは分かった。
つまりは苦労知らずの箱入り娘が、突然寮の食堂の下働きなどを始めて、親兄弟の反応は大丈夫なのかということだ。それも聞いたところでは、そこにいるのは独身や単身赴任中の男ばかりだということも若い女性が働くにはネックに思えたのだろう。

まぁ、純麗女子大卒というだけで、そう言われても仕方がないのかもしれないなぁ。

昔からそこを出れば縁談に困らないと言われる女子校。しかも今では結構良い企業も狙えるところを大学まで出てまだ二年足らず。結婚しているのならともかく独身の彼女が何でわざわざパートなんかに応募してくるのかというのが率直な疑問だろうか。
聞き方によっては少々カチンともくるが、これも致し方ないことなのだろう。
担当者にしたって、採用を決めたはいいが周囲から反対されて、すぐに「私、やっぱり辞めます」と言われては困るというのも理解できる。
「大丈夫です。今は自活することを目指して家も出ていますから」
「この住所はご自宅ではないのですか?」
彼女が履歴書に書いたのは、彩乃のマンションの住所だ。居候の身ではあるが、彼女の勧めで住民票などもこちらに移してある。
「はい。今は大学の時の同級生と……女の友人と一緒に住んでいます」
担当者が一瞬ほっとしたような素振りを見せた。恐らく彼は奏子が恋人と同棲しているとでも思ったのだろう。だから念のために「女の」友人という部分を強調しておく。普通に考えれば彼女が行ったのは女子大なので大学の同級生となれば、相手は女性以外に在りえないのだけれど。

「では、結果は後ほどこちらから改めて連絡をさせていただきます。お疲れ様でした」
その言葉を聞いてやっと緊張で強張っていた顔が元に戻った。それを見ていた守谷が書類を挟んだバインダーを閉じながらくすりと笑った。
「そんなに固くならなくても良かったのに」
元々柔らかい雰囲気の彼が笑うと更に優しい感じになる。それを見た奏子もついつられて微笑んだ。
「やっぱり緊張します。私、気が小さいせいかこういうことって苦手で、失敗したらどうしようとか思うと気が気じゃなくて」
「大丈夫ですよ。もっと自分に自信を持って」
「……はい。ありがとうございました」
笑顔の素敵な守谷さんに見送られて事務所を出た奏子は、帰り道に件の寮の側を歩いてみた。
そこは前に見たときと変わらず、どこか男臭くて雰囲気が雑然としていて、やっぱり女性にはちょっと近づきにくい感じだ。
「私、本当にこんなところで働けるのかなぁ」
ついそんな呟きが口から零れる。せっかく面接を受けたのに、いざ決まるかもしれないと思うと急に怖気づいたのだ。
「ダメダメ。しっかりしなきゃ。これは自立への第一歩なんだから」
自転車を押しながら、奏子は自分に喝を入れる。
自分の意志で、自分の力で何かを成し遂げることを恐れていては何も始まらない。
「でもやっぱり不安だなぁ」
それでも弱音が口から零れる。当たり前のことながら、今までお膳立てされたことに乗っかることしかしたことのない人間がそんなに簡単に変われるものではないのだ。

そしてその日の夕方、奏子は工場の事務の女性から電話を受けた。
「採用……ですか?」
相手の話では、前任者が急に辞めたせいで人手が足りず、現場は毎日てんてこ舞いしているらしい。すぐにでも仕事に来てほしいと言われた彼女は、とりあえず翌日の夕方から見習いとして行くことになった。


「ということで、明日からお仕事に行くことが決まりました」
その夜、帰宅した彩乃にそう報告すると、彼女はうんうんと頷いた。
「そっか、良かったじゃないの。私、ちょうど飲みに誘われていて晩ご飯が要らないから、明日は時間を気にせず仕事場を見ておいでよ」
彩乃はそう言うと食器棚からフルートグラスを2個取り出し、冷蔵庫に入っていたワインをそこに注いだ。
「奏子の勇気ある一歩に乾杯!」
食卓に向かい合って座る二人が軽く合わせたグラスがカチンと軽い音を立てる。
「ありがとう」
あまりお酒が飲めない奏子はグラスの縁から舐めるようにしてワインを啜る。それを見た彩乃は笑いながらグラスを傾けた。
「大丈夫、奏子にはできるよ」
「そ、そうかな……」
まだ今一つ自信を持てない奏子は弱気な笑みを浮かべる。
「これから少しずつでいいから、自分で決めることに慣れていけばいいのよ。それに新しい環境で、また違った出会いがあるかもしれないし」
彩乃はウインクすると小さくグラスを掲げた。
「離婚してからそろそろ半年、ってことはもう再婚したってオッケーなんだからね」
それを聞いた奏子は困ったような表情で彩乃を見た。
元の夫、寺坂史郎との離婚が成立したのは5月の連休明けだった。
離婚届を預けたまま身一つで実家に戻っていた奏子だが、離婚後は彼もマンションを出ることが決まったので、急遽引っ越し業者に依頼して連休中に慌ただしくマンションから荷物を引き上げることになった。
家具や電化製品、それに荷物が詰まった段ボール箱が次々に運び出されていくと、短い結婚生活を送った部屋が一気に空虚なものになっていく。それを見ながら自分はここで一年間、一体何をしていたのだろうと虚しい気持ちになったことを思い出す。
「そうだね。半年か、もうそんなになるんだ」
奏子はそのことを忘れていたというよりも、結婚生活自体を敢えて思い出さないようにしていたという方が正しいのかもしれない。他にも彼女が封印してしまった思い出はたくさんある。
例えば、これから一生使うのだと思い、小筆書きを習った寺坂の名字もやっと書き慣れたと思ったらまたすぐ他人の名前に戻ってしまったし、史郎のためにと練習したネクタイ結び方や講座にまで通って身に着けたコーディネート術も今では使うあてのない無用な知識だ。
彼女が夫のためにと信じて疑わなかったそれらすべてのことが、今となってはほろ苦い思い出でしかない。
「でも当分、ううん、ずっとでもいい。男の人は遠慮したいな」
そう答えた奏子に、彩乃は苦笑いを浮かべたのだった。




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