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   セカンド ・ マリアージュ  29


一瞬、父親の言うことが理解できなかった。
頭の中を素通りしてしまう言葉に戸惑いつつ、奏子はそれの持つ意味を反芻するかのように何度も口の中で繰り返す。
史郎が再婚する。
今までも予防線を張るように考えていたことではあったが、それを現実のものとして目の前に突き付けられると口では言い表せない胸の痛みに襲われた。
「まだはっきりと決まったわけではないし、本人もいろいろ迷っているみたいだが」
それでもその可能性がある以上、彼の将来のためにも安易に後継者の地位を譲ることはできなかった。だからこの後結果がどう出るにしても、ワンクッション置く意味もあって他の重役が昇格という形で社長職に就くことに決めたのだ、ということだった。
「そ、そうなんだ」
一応父親に調子を合わせて頷く奏子だったが、受けたショックは隠しきれない。それでも心配そうな父親の手前、彼女は精一杯の虚勢を張って何でもない振りをした。
「そういえば、大分前になるけど、史郎さんが女の人と一緒にいるのを偶然見かけたことがあったのよ。お相手はあの人なのかな……」
それを聞いて、自分も詳しい話は聞いていないのだと言う父に、奏子はただ「そう」とだけ返す。
それきり、互いに何を話せばよいかを迷っているタイミングで母親が部屋に戻って来た時には正直ほっとした。それは父親も同じだったようで、いつになく母を急かしてお茶を淹れさせていた。
母から香りのよい緑茶を手渡された奏子は、そこでようやく肩の力を抜いた。そんなに緊張するようなことではないはずの話にここまで敏感になってしまう自分が情けない気もするが、殊史郎の話となるとどうしても過剰に反応してしまう。
そんな彼女の様子に、母親が父親に目配せしたのが分かったが奏子はそれには気づかないふりで湯呑みに口を付ける。
思えば離婚を決意して実家に戻った時、しつこいほど考え直す様に諭したのは母だった。
あの時は正直いって干渉が辛く、疎ましささえ感じたものだったが、今になってみれば彼女のことを一番間近で見ていたのは母その人だったことを思い出す。
見合いをし、何度もデートを重ね、正式にプロポーズされるまで、いかに奏子が史郎に熱を上げ、彼しか見えなくなっていたのかを誰より知っていた母は、突然舞い戻って来た娘に何を思ったのだろうか。奥手で、成人してからも浮いた話の一つもなかった奏子が初めて見せた女性としての輝きに、目を細めていた母が見せた落胆は痛いほど感じたけれど。
「やっぱりお母さんのお茶は美味しいな」
どことなく心配そうな母にそう言うと、母は少しほっとしたように微笑んだ。
「きっとお茶葉のせいよ。頂き物の良いお茶だから」
「いや、母さんの淹れるお茶は確かに美味いよ」
父親にも言われた母は少し恥ずかしそうに肩を竦める。
「もう、お父さんまで。お世辞を言っても何も出ませんよ」
少し年の離れた夫婦だが、両親は変わらず仲が良い。母とは血のつながりがない姉や兄も、この中に入ると違和感なく家族の形を保つことができていたと思う。子供の頃からこれが家庭のあるべき姿だと思ってきた奏子は、史郎と始めた結婚生活との間にあるギャップに苦しんだ。
今思えばもっと多くのことを彼に望めばよかったのだろうか。
しかし王子様に拾われただけで胸いっぱいだった冴えない女の子は、それ以上の望みを口にできなかったのだ。
我侭を言って、彼にそっぽを向かれるのが怖くて。
自分には分不相応な彼に呆れられ、捨てられることを恐れて。
今だって一年前とそんなに変わっているわけではない。だた、自ら進んで外に出て、いろいろな人やものに触れる機会が増えたことで自分を卑下し否定することはずいぶん減ったように思う。
誰にだって苦手なものはある。できないことも、あって当然。だって自分は完璧な王子様に相応しい選ばれた人間などではなく、どこにでもいるありきたりで平凡な女なのだから。
もっと早くにそれに気づき、開き直ることができていたら、史郎との関係も違っていただろうか。夫を崇め奉り、憧れの目で見るのではなく、ひとりの男性として彼を捉えることができていなたなら、対等とまではいかなくても同じ目線でものを見ることだってできたのかもしれない。
今思えば奏子の夫となり、父の後継と目され逃げ道を失っていた彼に、縋ることしか考えなかった自分はさぞ重い存在だったことだろう。彼と離れ、少し下がった場所から彼と自分を見て、やっとそれに気づかされた時は、すでにすべてが終わった後だったのだが。
小一時間両親と世間話をした後、奏子は実家に暇を告げることにした。
ベッドで見送ってくれた父に「また来るから」と言い残し部屋を後にした娘を、庭先まで見送ると一緒に来た母が呼び止める。
「ちょっと待っていてくれる?」
頷いた奏子を玄関に残し、母は小走りで部屋に入って行く。そして戻って来た彼女が手にしていたのは、手のひらに乗るくらいの小さな箱だった。
「何?」
「うん、お誕生日プレゼント。少し前に預かったのよ、史郎君から」
「えっ?」
無意識に受け取ろうとした奏子は、驚いてそのまま出しかけていた手を引っ込めた。
「史郎さんから?何で?」
「去年は結局何もしてあげられなかったからって。彼、そのことがずっと気にかかっていたみたい。だからその分も、今年の誕生日には忘れず渡そうと思いながら持ち歩いていたみたいなんだけど、このままだとなかなか会えそうにないからって。あなたがここに来た時に渡して欲しいって言われたのよ」


母に無理やり持たされた小箱は今、彼女の上着のポケットに入っている。迷いながらも開けた箱の中身は、3月生まれの誕生石、小ぶりティアドロップの形をしたアクアマリンのイヤリングだった。
それが入ったケースを片手で探りながら、奏子は実家から駅までの道を歩いていた。
昨年は気づくことさえなかった彼女の誕生日を今年は覚えていたなんて。ちくりと胸の痛みを感じながら、奏子は去年の誕生日の夜を思い出す。
特別なディナーを用意して、夫の帰りを待っていたあの日。
恐らく食べてはもらえないだろうと分かっていても、どうしてもそれをやりたかたのは、きっと煮え切らない自分に自らの手で引導を渡したかったから。
それなのに、いかにも史郎のせいと言わんばかりの立ち回りをして彼に罪悪感を持たせていたのだということが、今になって心に重く圧し掛かってくる。
それでも考えずにはいられなかった。
もしも去年、こうして自分のために選んでくれたプレゼントを渡されていたとしたら、今頃自分はここにはいなかっただろう、と。
日々募っていく焦りや苛立ちから目を背け、今も彼のためだけに毎日せっせと家事に勤しみ、変化のない生活を繰り返しながら、その中にささやかな喜びを見出そうとしていたかもしれない。
そんなことを考えている自分に気付いた奏子は、ふっと小さく笑う。
どちらが自分にとってよりに幸せだったかなんて、まだ分からない。しかし不思議と今の生き方を選んだことを後悔する気持ちはまったくなかった。
奏子はポケットの中で箱を撫でながら思った。
多分これが、彼からもらう最後のプレゼントになるだろう。身に着ける機会はないかもしれないが、思い出を懐かしむには十分すぎるくらいの贈り物だ、と。




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