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   セカンド ・ マリアージュ  28


3月4月は慌ただしく飛ぶように過ぎていき、気が付けばカレンダーは若葉萌える5月が目の前となっていた。
間もなく史郎と離婚して一年が経とうとしている。
今の奏子の暮らしは順調で、あの頃の迷走ぶりが嘘のように穏やかな生活を送っていた。
唯一、守谷との付き合い方には気を付けるようにしているが、今のところあの夜のようなヘマはしていないと思う。
あれから奏子なりにいろいろ考えたのだ。
どうすれば周りの都合で行動を制限されることなく、自分で自分の身を護れるかを。
実家に居た頃や史郎の妻だった時の奏子ならば、自らは何もしなくても彼らの庇護下にいるだけで、誰かの陰に隠れていればそれで事足りた。しかし今の彼女は働かなければならない身だ。そのためには否応なく外に出ることになり、必然的に触りたくないものにも遭遇してしまうことになる。
自分が選んだ道を進むために、これまでならば敢えて見ないふりをしてきたものにも正面から向き合わなければならなくなった奏子だが、逃げ道がない以上それらに立ち向かうしかない。
そんな状況に置かれたことで、知らぬうちに彼女は少しずつ強くたくましくなっていたようだ。
仕事を始めた最初の頃のように、すべての人や物に対するおどおどした雰囲気は感じられなくなり、その代りに意に沿わないことは軽く受け流すか聞こえないふりをするくらいの度量は見せられるようになった。
それは守谷に対する態度でも明らかで、あのことがあってからは、以前のように誘われればどこでもすぐについていくなどということは絶対にしない。今も友人関係を損なわない程度には出かけることを続けてはいるものの、車の中など、狭い空間に二人きりになることは極力控えていた。

守谷からのアプローチは相変わらずで、それが時として少々過度にも感じられることもあるけれど、そのあたりは上手くかわすようにしている。
それにはまず職場の同僚であるおばちゃんたちの協力が不可欠だと感じた奏子は、折を見て彼女らにそのことを伝えた。無論その話の過程で自分が前年に離婚を経験したばかりであることも含まれており、この話を聞いたおばちゃんたちは皆一様に驚いた様子だった。
「そうだったんだ、そんなことがねぇ……だったら今はまだ彼氏だ何だってあんまり騒いでほしくないのは当たり前だよ」
中本達も一応の理解は示してくれて、それ以来守谷に関しては無茶振りされるようなことはなくなった。ただ、どうしても気を使われている感じがして、前より少し皆との間に微妙な遠慮が出てくるようになったのは寂しい。
そう彩乃にこぼすと、彼女は「いずれ周りも慣れて元通りになるから心配はいらないんじゃない?」とは言ってくれたが、果たして本当にそんな時が来るかは正直なところ分からなかった。
しかし何にせよ、奏子は何とか自分で自分の生活を元通りに戻すことに成功した。
ともすれば誰かの背中に隠れてやり過ごすことしか考えなかった奏子にとって、それはささやかな前進ではあったが、彼女の中では自立を守るための大きな一歩となったのだ。
無論、そのくらいで守谷からのアプローチが止むことはなく、むしろ障害が大きければ大きいほど挑み甲斐があると公言した彼に、おばちゃんたちからのさりげないブロックと容赦ない鋭い突っ込みという制裁が加えられるようになったのは確かに心強かったけれど。


こうして周囲の助けも借りつつ何とか平穏な日々を過ごしている奏子だったが、彼女の実家の方はいろいろと慌ただしくなっていた。
というのも、遂に奏子の父親が健康上の問題で社長職を退くことを公にしたからだ。しかしその後継に指名されたのは当初第一候補であった史郎ではなく、長年社長の腹心の部下であった役員のひとりだったことからその理由がいろいろと取り沙汰され、遂に周囲に彼女の離婚が公にされてしまったのだ。
最初にその決定を聞いた奏子は首を傾げた。あれほど史郎を自分の後継にと拘っていた父親が、最終的にどうしてそれを覆したのか。
家を出た今の彼女にそれについて今さらどうこう言う資格はないことは百も承知だ。ただ、自らが史郎の立場を苦しいものにしたという負い目がある奏子には、父親たちの決断は何とも理解し難いものがあった。

数日後、奏子は内々に、父親の見舞いの名目で実家に向かった。
現在父は週に2、3回、半日の出勤を医師から許可されていてはいるが、それ以外の日はほとんど家にいてそこで無理のない範囲で仕事をこなしていると聞いている。もちろん、彼女が平素から父親の様子を気に掛けているのは本当だが、今日はそれ以外にも確かめたいことがあったので平日の、しかも人目につかないお昼前を選んだ。

「こんにちは」
「いらっしゃい」
実家に着くと馴染みの家政婦ではなく、母親が自ら出迎えてくれた。
「よく来てくれたわね」
「うん。それで、お父さんの具合は?」
「今のところはまぁまぁかしら。お仕事も極力減らしているみたいだし」
「ふうん、そうなんだ」
母と娘は並んで廊下を歩きながら家の一番奥の、離れのようになっている父親の書斎を目指す。
今はこの日当たりが良い角部屋が父の仮の寝室になっている。ここからだと玄関や車庫に続く庭からも出入りが可能なため、まだ体力がつかず時折調子が悪くなると車いすを使っている父には都合がよいからだそうだ。
「あなた、奏子が来ましたよ」
母親が一声かけながらノックしてドアを開けると、正面には昔から変わらない壁面いっぱいの書棚と大きなマホガニーの机が鎮座している。その横の、以前は総皮張りの応接セットがあった場所に、今は電動でリクライニングする介護用のベッドが置かれていて、そこに父親が背もたれを起こした格好で座っていた。
「ああ、奏子か。珍しいな、こんな時間に」
いつもは大概休日か、または午後のシフトの出勤前に立ち寄るので、こんな昼前の時間にここを訪れることは滅多にない。
「うん。今回はちょっとね」
奏子はそう言うと、見舞い品の定番にしている、この家の贔屓の店で買った和菓子をバッグから取り出して父親に渡した。
「ああ、ありがとう。今日はお茶を飲んで行くくらいの時間はあるのか?」
顔を見せただけで慌ただしく帰ってしまうことが多い娘に、菓子を受け取った父親が聞く。
「うん」
「そうか。ならば母さん、お茶を淹れてきてくれんか?」
娘の返事に相好を崩した父は、早速母親にお茶の用意を促す。何だかんだ言っても末っ子の奏子には両親は甘い。特に彼女が離婚後に出て行ってしまってからというもの、なかなか実家に寄り付かなくなった娘の訪れを楽しみにしていることはよく分かっている。
「そうですね、それじゃぁついでにそのお菓子もお皿に取り分けて来ましょうかね」
母親は夫から渡された菓子の包みを受け取ると、お茶の用意をするために書斎を出て行った。部屋に残された父親はそれを待ってから改めて娘の方に向き直った。
「それで、何から聞きたいんだ?」
そう父親に突然本題に切り込まれ、奏子はどきりとした。
「勘づいていたの?」
「当たり前だよ。お前と何年親子をやってると思っている」
父はそう言うと母親の前では見せなかった、少し疲れた表情を浮かべた。
「まぁ、言わなくても分かっているよ。史郎君のことだろう?」
「……うん」
奏子は小さく頷くと上目づかいに父親を見た。
「何で史郎さんを跡継ぎにしなかったの?あんなにお父さんのお気に入りだったのに。誰かに反対でもされたの?」
娘の婿であることを差し引いても、彼に対する父の評価はかなりのものだった。自分が見込んだ男を手元に置くために惜しげもなく娘をくれてやった、そう周囲が噂していたのを、奏子自身も知っていたくらいだ。
だが、父はふっと乾いた笑みを浮かべると、小さく首を振る。
「いや。だれも異議は唱えなかっただろう、彼だったらな」
その歯にものが挟まったような言い様に、奏子は訝しげな顔をした。
「だったら何で」
「確かに史郎君は有能だ。しかし彼は我が家の家族ではないんだ、今は」
「でも……」
彼女の言葉を遮り、父は言葉を続ける。
「会社を引き継げば、否応なしにこの家との関係まで切るに切れなくなってしまう。彼にはウチの柵に囚われず自由に生きる権利があるんだ」
父はそこまで言うと、一度言葉を切り、ふうと息を吐き出した。
「奏子、いつかは知れることだと思うから、先にお前にも教えておこう。今、史郎君に再婚の話が持ち上がっている。相手は彼の実家と懇意にしている家の娘さんだそうだ。それがまとまれば、もしかしたら彼はウチを辞めて、家業を手伝うことになるやもしれんのだよ」




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