守谷の車でマンションまで送ってもらう間、奏子は助手席でずっと俯いていた。もちろん、その表情は強張ったままだ。 隣の守谷も同様に始終無言で、ただ前だけを見つめてハンドルを握っている。 オーディオをオフにしたまま、ナビの指示音声だけが無機質に響く車内は、重苦しい空気に包まれていた。 気まずい雰囲気に、居た堪れなさを感じる奏子だったが、だからといってこんな時、一体何を言えばよいのかも分からない。 正直この展開は予想外だった。 今夜一番の目的であったことをきちんと伝えられたことだけは良かったし、肩の荷が下りたと思う。しかし彼の反応が思わぬものであっただけでなく、お返しに自分の告白以上に破壊力のある爆弾発言を幾つも食らったような感じだ。 やっと終わった課題を出したら、その帰り際に前の数倍の宿題をまとめて渡されたような気分になる。 どうしよう。 足元に視線を向けたまま、奏子は守谷に気付かれないように小さくため息をついた。 今までの彼なら、きっと自分の話を聞けば「そうでしたか」と納得し、今後は一歩引いた感じで友人として付き合ってくれるだろうと思っていた。しかし守谷が見せたのは、そんな優しくて紳士的な彼ではなく、もっと生々しさを感じさせる男としての顔だったように思う。 男性に対してほとんど免疫のない奏子の中では、恋人としての男性の言動は史郎というサンプルしか持ち合わせがない。その史郎は結婚する前も、結婚してからも常に奏子に対してジェントルな態度を崩したことはなく、それを安易に守谷にも当てはめてしまっていただけに、彼が豹変するなどと考えたこともなかったのだ。 正直にいえば、今夜の守谷のことを少し恐いと思った。そしてこんな時間に彼の部屋までのこのこついて行った自分は、本当にバカだとも。 そうこうしているうちに周りの動きが停まり、エンジン音まで聞こえなくなったことに気付いた奏子は、そっと顔を上げて窓の外を伺う。そこでようやく車が自分と彩乃が暮らすマンションの前にいることに気が付いた。 「お、送って下さって、ありがとうございました。」 何も言わずに黙って自分を見ていた守谷と目が合った奏子は、慌ててシートベルトを外して外に出ようとする。しかしいくらハンドルを引いてもドアは開かず、焦った彼女は無意識に何度も同じ動作を繰り返した。 「ロックが掛かっているから、そのままでは無理だよ」 ドアの反対側から聞こえてきた彼の言葉に、脳が反応するまで少し時間がかかった。 「えっ?」 奏子が自分の手の下を見ると、なるほどそこにはドアのロックのボタンらしきものが押し込まれた状態になっていた。 「す、すみません」 やっとのことでそれを解除した彼女は、今度こそドアを開けようとする。 しかし今度は彼女の行動を見透かした守谷の手で、運転席側にある集中ロックを掛けられてしまう。 その音に驚いて振り返った彼女に向かって、守谷は悠然と微笑んだ。 「僕は本気だから」 「な、何を……」 引き攣った表情を浮かべる奏子に、彼が畳み掛けるように言葉を投げかける。 「さっき言ったこと。嘘じゃないからね」 咄嗟に否定しようとした奏子だったが、その唇を彼の指先が軽く押さえた。 「イヤとかダメは受け付けないよ。少なくとも今夜は」 唇に指を押し当てられた彼女にそう言うと、守谷はもう片方の手でロックを解除し、ふっと表情を緩めた。 「さぁ、もう行って。中入るまでここで見ているから」 それでも大きく目を見開いたまま動かない奏子に、彼は少し困ったようにくすりと笑う。 「行かないならこのまま君を持ち帰っちゃうけど、それでもいいの?」 それを聞いた奏子は、慌てて荷物を持つと、ドアを開けて車の外に飛び出した。そして脱兎のごとくマンションに駆け込む。いつもならばここまで送ってくれた彼にお礼の言葉の一つも言うところだが、今日の彼女にそんな気持ちの余裕はない。 エントランスの自動ドアが閉まったところでようやく後ろを振り返った彼女は、ちょうど動き出した守谷の車のヘッドライトがその前を横切り、そのまま走り去っていくのをぼんやりと見送るしかなかった。 「お帰り〜今日のお店はどんな感じだった?」 「……ただいま。うん、美味しかった……よ」 その日は仕事が休みで家にいた彩乃に出迎えられた奏子は、曖昧な表情で内心の動揺を隠そうとした。本当はこのままこっそり自室に入ってそこで籠城したい気分だったのだが、久々の夜のお出かけに興味津々だった彩乃が今夜の首尾を聞こうと、わざわざ玄関まで出迎えに来てしまったのだ。 「何があったの?」 「別に何でも……」 「ないわけないよね、その顔で」 自分の言葉尻を捕え、怪訝そうな顔をする彩乃を見た奏子は、どうやらそれが上手くいかなかったことを悟った。 「……そんなに分かりやすい?私って」 「そりゃぁね」 伊達に友人を長くやってるわけじゃないから、と言い切る彩乃に、これ以上誤魔化しはきかないだろうと覚悟する。 そこで彼女は彩乃に引っ立てられるようにしてリビングに連れ込まれソファーに座らされると、渋々ながらも今夜の出来事のあらましを話すことになった。もちろん、強引に迫られそうになったことや、彼の口から飛び出した際どい言葉はうまく端折った。 彩乃にしたって、奏子の情報で知る限りの守谷のイメージでは、彼がそんな行動に出るとは思わなかったようで、うーんと唸ったきり難しい顔をして、しばらく何かを考え込んでいるようだった。 「それは、確かに、ちょっと……ナンだわねぇ」 ようやく返ってきた彼女の反応は実に曖昧で、いつもの彩乃らしくないものだったのだが、未だ軽いショック状態から抜け出せていない奏子はそれを深く考える気力がない。 「うん、何かちょっと困ったというか、どうしようっていうか」 彩乃に負けず劣らずの、困惑した表情の奏子は、ソファーの上に置いてあったクッションを抱きしめるとそこに顔を埋めた。 「しかし、よくそのまま押し倒されなかったわね。そこだけは彼の自制心に感服するわ」 「お、押し倒すって、そんな……」 慌てて否定しようとする奏子の方にぬっと顔を突き出した彩乃は、彼女の目の前で人差し指を横に振った。 「だってね、あっちは奏子が嫌がらずに家について来た時点でチャンスだって思ったんじゃない?それでもその場で強引に迫らなかったってことは、これからのことを考えてのことだと思うのよ」 「これからのこと?」 「そう。だって今焦ってそんなことしたら、奏子が手の届かない所に逃げちゃうって彼もよく分かってるのよ」 確かにそうだ。もしも今夜、あのまま守谷とキスの一つでも交わしてしまっていたら、自分は間違いなく尻尾を巻いて逃げだしていた。そして多分明日にでも、彼と顔を合わせたくないことを理由にして仕事まで投げ出していたかもしれない。 「まぁ、何にせよ、彼の方は意思表示をしたわけだから、今度は奏子が球を投げ返さなきゃならない番になったってことだわね」 自分で考えて行動することが苦手な自分に、果たしてそんな決断ができるのか? 奏子は訳もなく、すがるような目で彩乃の方を見たが、彼女はゆっくりと首を横に振っただけだ。 「それは自分でやらなきゃならないことでしょう。私には何も言えないわ。さあ、今夜はもう寝なさい。お風呂の用意してあるから、ゆっくり浸かって頭と体を休めなさいよ」 そう言って彩乃は奏子の肩をポンと叩くと風呂に行くように促した。 「……うん、分かった」 奏子はゆっくりと立ち上がる。そして自分の背後で、彩乃がため息交じりに小さく舌打ちしたのに気付くこともなく、とぼとぼと自室へと向かったのだった。 その夜、友人が姿を消した後のリビングで、彩乃は一人床に座り込んだまま、食い入るようにして画面を見ていた。 「まったく、何か怪しいとは思ったんだよね」 誰に言うでもなく、ぶつぶつと独り言を呟きながら、彼女はつぎつぎとブラウザを閉じたり開いたりを繰り返す。そしてようやくお目当ての記事を見つけた彩乃は、じっくり時間を掛けてそれを読んだ後、保存してからパソコンを切った。 「守谷健介、いや真田健介か。また厄介な男に見初められたものね、奏子も」 彩乃は床に敷いたふかふかのラグの上にひっくり返ると、両手で顔をごしごし擦った。 「真田興産、今はただのSANADAになっているんだっけ。あーまったくもう、何てこったい」 そう呟いた彼女は、今度は盛大なため息をつく。 確かに奏子は苦労知らずのお嬢様育ちだが、家はそれほど金満で贅沢三昧な暮らしをしていたわけではなさそうだった。そして前の夫である史郎の実家もそれなりに名と財力のある家ではあったと聞いているが、彼自身はその境遇に身を委ねなかった経緯がある。 しかし、今度はバックがけた違いに強すぎる。もしも彼がその力を使ってまで奏子を手に入れようとしたならば、それに抗うことはかなり難しくなるかもしれない。 そんな男に正面から向き合わざるを得ない彼女のことを考えると彩乃の頭に中には悲観的な結末しか浮かんでこなかった。 「ああ、もう本当に、彼女の周りにもっと普通の男はいないの?」 そう言って天井を見つめる彩乃の言葉は、誰にも聞かれることなく夜の闇に溶けていった。 HOME |