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   セカンド ・ マリアージュ  26


「バツイチなんです」
奏子はそう告白すると同時に俯いた。
バツイチ ―― 自分の口から出た言葉なのに、言い慣れないせいか違和感がある。
かつて結婚していた相手と別れた経験を持つすべての人に当てはまる言葉だというのに、奏子は今まで自分をそう表現したことはほとんどもなかった。
考えてみれば昔は……それこそバツイチなんて言葉がなかった時代はみんなどういう風にこの事実を告げていたのだろう。
離婚歴がある?それとも以前結婚していたことがあった?もしくはかつては夫がいました?
それらの言い回しを思い浮かべると、バツイチという言葉は短く端的で、しかも他に誤解の仕様がないくらい状況を的確に表す言葉だと今更ながら気付く。
ただ、同時にそれを口にしたことで、もはや自分は真っ新な女ではないのだという事実を改めて思い知らされたようにも思えて、気分が少し沈んだ。
「ごめんなさい。最初はどうしても隠さなければいけないことだとは思っていなかったんですけど、できれば知られたくないなっていう気持ちもあって。でも……」
いくら彼に好意を寄せられてもこの秘密を抱えている限り、守谷に対する遠慮はなくならないだろう。自分にとってマイナスとなる事実をきちんと伝え、その上で彼に嫌われるのなら、それはそれで仕方がないことなのだ。
項垂れる彼女の視線から外れた彼は今、一体どんな顔をしているのだろう。
嫌悪感が滲んでいるであろう守谷の表情を見るのが怖くて、顔があげられない奏子の向かいから、ふうっと息を吐き出す音がした。
「……知ってた」
「えっ?」
彼の呟くような一言に、奏子は弾かれたように顔を上げる。驚いたことに、正面に座る彼の顔には怒りも蔑みもなく、ただ少し困ったような笑み浮かべているだけだった。
「久世さん、ではなく寺坂さんだったっけ?」
「……どうしてその名前を」
「この前、ホテルで偶然会ったよね?あの時一緒だった人、だろう?」
動転して固まっている奏子に、守谷がふっと笑いかける。
「あの後一緒に食事でもどうかと思って後を追いかけたんだ。そうしたら君には連れがいた。親しげに話しながら一緒の車に乗り込むのを見たんだ」
守谷はそう言うと何かを思い出す様に空を見あげる。
「持っていた記念品の袋を見て、どこの会場か分かったから後で芳名帳の名前を確認させてもらったけれど、久世なんて名字の招待客は一人もいなかった。ただ、『奏子』という名前の女性がたった一人だけ、その会場を訪れていたのを見つけたんだ」
あの時は確か、受付の列に並んだ時に史郎が先に記帳し、その後に奏子も自分の名を書いた。形の上では夫婦として招待されているので、敢えて名字は書かず、彼の隣に名前だけ綴った記憶がある。
「よく……見つけられましたね」
あの時のパーティーは盛大なもので、招待客はざっと見ただけでもかなりの数いたと思う。その中から名前を拾い上げるのは気が遠くなる作業のように思うが。
「今時ああいうのはすぐにデータ化されるからね。招待客に礼状を出したりする際にそれがあると便利だから」
それを聞いた奏子は頭の片隅に何か引っかかるものを感じたが、それよりもこの成り行きをどう説明しようかという気持ちが逸ってその疑問を受け流してしまう。
「その時に一緒に会社の名前も分かったから、そこから調べるのは早かったよ」
恐らく彼は彼女の父親の事業のことも、史郎がその会社で働いていることも確認済なのだろう。
そこまで知られているのであれば、下手に隠し立てすることもない。
奏子はあの日、どうして元夫と一緒にパーティに出ることになったのかという経緯を説明したのを皮切りに、大学在学中に見合いをして、婚約、卒業後すぐに史郎と結婚したこと、そして一年も経たずに離婚してしばらくは実家に身を寄せていたことなど話した。
「でも、実家にいる間ずっと自分が何をしたいのかが分からなくて。それが段々と焦りに変わってきて、自分はこのままでいんだろうかとか、ここでぼんやりしているだだけでは駄目になってしまうんじゃないかとか、いろいろ強迫観念みたいなものまで出始めて……それで友人に泣きついて、今のところに転がり込んだんです」
史郎とのことも、話せるところは話した。恋らしい恋もしたことがなかった自分にとって、彼は初めて出会った王子様だったこと。結婚後、何でも完璧に出来過ぎる夫にどう接して良いのか分からなかったこと。劣等感から来る自己否定が積み重なるうちに、段々と自分が内に引き籠ってしまったことなど。
異性に自分の過去の恋バナを打ち明けるのもどうかとは思ったが、目の前の守谷は長い時間ただ黙ってうなずきながら彼女の話に耳を傾けてくれた。
「私が離婚を切り出したことで彼を傷つけたということは重々承知しています。でも、このまま一緒にいたら、ますます自分を見失ってしまうようで耐えられなくなった」
私は、本当は弱くて狡い人間なんですよ、と呟くように口にした奏子に、守谷が問いかける。
「それで、まだ君は彼に心を残しているのかな?」
おかしな話だが、それは奏子自身もよく分からないことだ。決して史郎のことが嫌いだから別れたわけではない。だが、また同じ筋道を辿って再び彼と一緒になる気があるのかと訊かれれば、素直に「はい」と頷けない自分がいる。
俯き加減で哀しげな顔をして「分かりません」と答えた彼女は、不意に自分に触れた腕の感触に驚いたように顔を上げる。見ればいつの間にか向かいにいたはずの守谷が、彼女のすぐ側に来ていた。
抗う間もなく彼の腕に抱きすくめられた奏子は、一瞬体を強張らせた。
「も、守谷さん?」
奏子の狼狽に動じることもなく、彼は体の動きを封じると同時に彼女の頭に手を添えて自分の方へと押し付ける。
守谷の体に顔を埋めた奏子は、息をするたびに彼の香りと体温をまとった空気が自分の中に取り込まれていくことに慄きながら、無意識に目の前の胸板に手を突いてその状況から逃れようとした。
「や、やめて下さい」
必死の抵抗も虚しく、腕の力が弱まる気配はまったくない。彼女は守谷のこの性急さを本能的に「怖い」と感じた。
彼女と一緒にいる時の彼はいつも穏やかで優しい。だから今までも苦手な異性との付き合いとしてではなく、同性の気の置けない友人と同じように彼に接することができたのだ。それを守谷がどう捉えていたのかは分からないが、少なくとも彼女にハードルを下げさせるには十分値するものであったのは間違いない。
もちろん、奏子も彼が男性であるということを頭では理解しているつもりだった。しかし今となってはそれはあくまでつもりでしかなかったのだ。
「僕がその人の代わりになって君の心の穴を埋めると言ったら、君はどうする?」
「……一体何を」
その言葉の真意が掴めず、奏子はおずおずと守谷の顔を見上げる。すると目が合った途端、彼はゆっくりと体を屈め、彼女の方に顔を近づけてきた。
このままだとキスされる?
そう思い、さっと顔を背けようとした彼女の思いを読んだかのように、彼の唇は奏子の口元を掠めるように通り越して、顔の側面に落ちる。その感触にびくりと震えた彼女に、守谷が耳元で囁いた。
「そんなに怖がらなくてもいいよ。これ以上無理強いはしないから、今はね」
彼は自分の腕から解放すると、まだ呆然としている奏子の頬にそっと手を添える。そして彼女に向かってはっきりとこう宣言した。
「今は無理でもきっと忘れさせてあげる。君の中にいる、その『夫』のすべてを」




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