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   セカンド ・ マリアージュ  24


里佳子と別れたのは午後9時半を回った頃だった。
何だかんだ言っても仕事の方が気になっている様子の姉を見た奏子が、気を利かせて少し早めに食事を切りあげて店を出ることにしたのだ。
会社の方に戻って行く姉を改札の外で見送った彼女は、そのまま駅前のロータリーにあるベンチに腰を下ろした。
「ああ、やっぱり……そうだよね」
何となく気づいていたことではあったので覚悟はしていたつもりだった。しかし当事者に直接聞いた事実は妙に生々しく、予想以上に大きな衝撃を彼女に与えた。
「はぁ……」
奏子は俯きながらため息を溢す。
美味しいはずの料理の味は何一つ分からなかったが、今となっては里佳子の前で平静を装えたことだけが救いだ。
あの後も姉は当時について多くを語らなかったが、それでも二人の関係が親密だったことは少ない言葉の端々からうかがえた。自分と姉、姉妹でありながら女としては真反対ともいえる人生を歩んできた自分たちが、よりによって一人の男性を愛していたとは。
もしかしたら、彼は奏子のことを見ながら、心の中では密かに姉の面影を追い求めていたのだろうか。
一瞬そんな考えが頭の中を過り、奏子は無意識に首を振った。
史郎はそんなことをする人ではない。そもそも、もし仮に彼が奏子と姉を重ね合わせようとしたところで、自分には何一つ姉のように秀でたところがないのだ。
「ああ、ダメだ。何か自虐的になってくる」
奏子は膝の上で組んだ手をぎゅっと握りしめた。

出来の良すぎる姉兄に比べ、年の離れた末っ子はなんと凡庸なのだろうか。

それは子供の頃から散々言われてきたことだ。無論、奏子とてまったく努力をしなかったわけではない。しかしながら如何せん、どんなに背伸びをしたところで年が離れた優秀な姉たちに追いつけるはずもなく、いつも自分は中途半端なところで諦めることになってしまうのだ。
唯一彼女が自信を持っていることといえば、どんなに酷いことを言われても黙ってそれを受け止めることができるだけの忍耐強さくらいのものだ。いくら両親や姉兄が彼女を可愛がり、護り庇ってくれていたとしても、それがなければ今頃自分は周囲の悪意に晒され過ぎて性根がひん曲がってしまっていたかもしれない。
なぜ兄弟たちの中で自分だけがこんな風にダメな子なのだろう。
それでもきつい言葉を投げかけられるたび、奏子はいつも至らない自分に失望したものだった。そういう経緯で、ある程度道理が分かる年頃になってからは、姉たちと比べられない様にできるだけ目立たずおとなしい良い子を演じるようになった。確かにそれからは周りの風当たりは柔らかくなったが、幸か不幸かそのせいで存在感の薄い末っ子のレッテルを貼られてしまったのだけれど。
そんな彼女がようやく劣等感から解放されたのは高校生になってからで、クラスに編入してきた彩乃の影響に負うところが大きい。彼女も当時は自分と同じように母親の違う兄弟たちとの関係に苦労していて、奏子の屈折した思いを誰よりも理解してくれた。ただ、自分と彼女の決定的な違いは、彩乃の場合家族と意思の疎通がない分奏子以上に立場が難しく、家の外のみならず中でも気を使わなければならないことだった。
自分はまだ家族が理解を示してくれるだけ救いがあるのかもしれない。
そう気づいて以来、奏子が姉兄に対して抱いていた頑なな劣等感は薄らいだように思う。しかしだからといってそれが完全に払しょくされたわけではなく、何かの切欠で、日頃は上手く抑えている自分を卑下する気持ちが再び湧き出してしまうこともあるのだ。

「……帰ろう」
ここで一人落ち込んでいても仕方がない。
奏子は自分が乗るバスの停留所に向かってとぼとぼ歩きだす。いつもなら楽しみな守谷との外出も、今も彼女の気持ちを高揚させることはできず、むしろこんな調子で彼と向き合わなければならないことが苦痛にさえ感じる。
ただでさえ、明日は彼に大事な話をしなくてはならないというのに。
やっとそれを伝える勇気とチャンスを得たこのタイミングでもたらされた里佳子の告白は、奏子に少なからぬダメージを与えた。もしこれで守谷からも何かショックなことを言われたら、果たして自分はそれを受け止めることができるだろうか。
「こんなこと、彩乃にも言えないよなぁ」
もしもこのことが彩乃にバレでもしたら、彼女が怒り狂う姿が目に見えるようだ。
奏子がマンションに戻った時にはもう10時を回っていたが、ありがたいことに彩乃はまだ帰宅していなかった。
これ幸いと彼女の分の食事の準備をしてから、風呂に入りそのまま早々に寝室に引き上げる。しかし悶々とした考え続ける奏子に簡単に眠りが訪れるはずもなく、ベッドに入ってからも何度も寝返りを打ち続けた。
こんなこと、離婚する前に帰宅が遅い史郎さんを待っていた時以来だ。
あの苦しい日々を何とか抜け出してからまだ一年も経っていないのに、もうずっと昔のことのように思える。時の流れなんて、実際はそんなものなのだ。
照明を落としたくらい部屋で、奏子は天井を見上げながら思った。
こんな気持ちで守谷に向き合いたくはない。しかし逃げても逃げ切れない、いつかは向き合わなければならないことからこれ以上目を背けたままでいることもできない。
どんなに悩んでも明日は必ずやってくる。守谷に真実を告げる時は今しかないのだ、と。


翌日、待ち合わせの場所に奏子が行くと、約束の時間より前に守谷が来ていた。
予約ができないということもあり、開店に合わせて行ったがすでに店の前には行列ができている。少し待たされて席に案内された二人はその日のお勧めのメニューを注文した。
「どうしたの?口に合わなかった?」
昨日の今日であまり食欲がない奏子だが、彼に気を使わせまいと何気なさを装っていた。しかしどうやら心ここに在らずな彼女の様子は守谷にはお見通しだったようだ。
いつものように会話も弾まず、食後のデザートとコーヒーが運ばれてきたのを機に、彼がこちらをうかがってくる。
「……いえ、美味しかったです」
何とか笑みを作って答えたが、それでもまだ浮かない顔の奏子に彼は心配そうな表情をする。
「何か今日はおかしいよ。調子が悪いなら早めに帰った方が良いかもしれないね」
コーヒーを飲み終えた彼は「家まで送る」と、彼女がデザートを食べ終わるのを見届けてから伝票を持って席を立つ。なかなか話を切りだせず焦って後を追う奏子をよそに、守谷は会計を済ませて、店の外の駐車場向かって歩き出した。
「守谷さん、あの……」
そこで彼女は意を決して彼のジャケットの袖を掴んだ。
「久世さん?」
突然の彼女の行動に驚いた守谷が、足を止めた。
「お話したいことがあるんです」
「何か良い話だと嬉しいな」
そういっていつものように軽口で答えた守谷だったが、彼女を振り返った途端にその顔から笑みが消えた。
「あまり……そうじゃないかもしれません」
彼女が全身から発する緊張を感じ取ったのか、守谷も表情を固くする。
「それなら、どこか話がしやすいところがいいね」
彼が車のドアを開けて彼女に助手席に乗るように促す。
奏子を隣に乗せた守谷の車は、駐車場を出るとそのまま通りを真っ直ぐに走り出した。
「どこに行くんですか?」
車窓に流れる街の明かりに目をやりながら、奏子は膝の上に置いたバッグを両手でぎゅっと抱きしめる。その様子を、守谷は信号待ちで止まった間に横目でちらりと見た。
「うん、どこかファミレスでも、と思ったけど止めた」
「どうしてですか?」
「あんな煩いところでは込み入った話はできないから」
彼はそれだけ言うと再びアクセルを踏み込んだ。どんどん後ろに流れて行く風景が少しずつ眩い光を減らしていくことで、車が都心部から郊外へと向かっているのが分かった。
どこに行くつもりなんだろう。
いつもと違う守谷の雰囲気に呑まれながら、今の奏子は彼にそれを問いかけることさえできなかった。




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