その夜、午後の早番のシフトで仕事を終えた奏子は7時半過ぎに待ち合わせの場所にいた。 「奏子」 呼ばれて振り向くと、少し離れた場所から里佳子がカツカツとヒールの音を響かせながら近づいてきた。ただでさえ目立つ容貌を持つ彼女が人混みの中を颯爽と闊歩する姿は嫌でも人目を引く。確かに若い頃から美人な姉ではあったがそこにキャリアと自信が加わったことで美しさに一層磨きがかかり、三十路を過ぎた今では年相応の気品のようなものまで備わったように思える。 しかし、相変わらず派手で格好の良い登場の仕方だなぁ。 心の中で唸りながら、彼女は姉の方に向かって手を挙げた。 「リコ姉」 「ごめん、結構待った?」 奏子はちらりと腕時計に目をやってから首を振った。 「ううん。10分くらいかな」 「帰り際になって捕まっちゃってさ。なかなか切がつかなくて焦ったわよ。で、もう途中でスタッフに押しつけて出してきた」 それを聞いた奏子は驚きに目を丸くした。 「だ、大丈夫なの?」 「平気平気。何でもかんでもこっちに振って来るから、たまには自分たちで解決しろってことよ。それにウチのスタッフはみんな優秀だから何とかするわよ」 そう言ってにやりと笑う姉に、奏子は後を託された同僚たちの悲鳴とため息が聞こえたような気がした。 「それじゃ行こうか。リコ姉、こっちだよ」 待ち合わせの場所から5分ほど歩くと、今夜予約を入れている店につく。 「へぇ、何か通っぽいお店じゃない?」 外観だけ見れば昔ながらの古い喫茶店のような佇まいだが、ドアを開けて中に入ると一転、そこはアンティークの調度品が落ち着いた雰囲気を醸し出すお洒落な店だった。 名前を言ってテーブルに案内された二人は、出された食前酒とオードブルで話に花を咲かせる。 こんな風に姉妹で食事をしたのは本当に久しぶりのことだ。 もちろん、それは姉がずっと国外に出ていたという物理的なことが大きな原因ではあるが、それでも奏子が大学生のうちは定期的に会う機会を持つようにしていた。それがぶっつりと途切れたのは、彼女が史郎と婚約した頃からで、その当時は自分の目が史郎の方にばかり向いていたこともあり、姉との交流が疎かになっていることに気付くこともなかったのだけれど。 「ふうん、それで今はその仕事を?」 食事が運ばれてくると、奏子は今自分がしている仕事のことを話し始めた。若干過干渉なところもある姉なのでもっといろいろと言われるかと思っていたが、里佳子は妹の話を聞いても否定的なことは一切口にしなかった。 「うん。ちょっと体力的には厳しいけど、同僚のオバチャンたちは面白くて優しいし、私には合っているみたい」 仕事の内容や職場の人間関係といったことを取りとめもなく口にする妹の話を、里佳子は真剣な顔つきで、ただ頷きながら聞いている。 奏子がこれまでのいきさつを粗方話し終えたところで、姉はやっと少し表情を緩めた。 「良かったわ。あなたが外の目を向ける機会を持てて」 昔から自立心が強く、常に世間の厳しさに揉まれながら生きてきた里佳子からすれば、両親の過度な庇護のもとで、そこから抜け出そうとしない奏子はあまりにも内向きで世間知らずに見えていたのだという。 だが、たとえ姉妹でもそれぞれが一個人である以上、本人が満足しているならそれ以上むやみに相手の価値観に踏み込んで行くこともできない。当人がその有り様に疑問を持たないのであれば、その人にとってはそれで良いのだ、と納得するしかなかった。 里佳子はそう言うと、手にしていたグラスを空けてテーブルの上に置いた。 それからも何か言いたそうにしながら、なかなか口火を切らない姉の態度に、奏子は何となく違和感を覚えた。 今日のリコ姉、何か変だ。 大体仕事が大変な時にわざわざこうして時間を作って呼び出すこと自体、今までの里佳子では考えられなかったことだ。 そう気が付いた奏子は、思い切ってこちらから水をむけてみる。 「ねぇ、リコ姉、何か私に話があったんじゃない?」 そう切り出した彼女に、里佳子は一瞬戸惑いの表情を浮かべた。 「何か、言いたいことがあるんだったら、遠慮せずに言っていいよ」 それを聞いて一度は口を開きかけた姉だったが、何かに躊躇するように再び黙り込む。 「何を聞かされても大丈夫だよ、今なら。それが史郎さんのことでも」 奏子の口から発せられた言葉に不意を突かれ、目を見開く里佳子の様子に、彼女は自分の推測が当たっていたことを感じ取った。 「……いつから気が付いていたの?」 姉の問いかけに、奏子は少し首を傾げながらそのおぼろげな記憶を辿る。 「多分、結婚してすぐくらい……かな」 史郎が意識的に姉の話題を避けていることに気付いたのは。 最初は彼女も何となく「おやっ?」と思う程度だった。しかし何度か回数を重ねるといかに鈍い奏子でも違和感を覚えるし、それが何なのかがはっきりしない分かえって気になってしまう。 外でも家の中でも常に注意深く立ち振る舞う史郎のことだ。何か確たる証拠があったわけではないが、それでも奏子の女の勘はその疑わしさを嗅ぎ取ってしまった。 「もちろん、史郎さんには何も言ってないよ。聞けるはずないじゃない、リコ姉とどういう関係だったの?なんてさ」 そう言って笑っていることに、奏子は自分でも驚いた。 これが史郎と別れる前だったら、もっと感情的になっていたかもしれない。いや、それよりも当事者である姉と向き合ってこんな話をすること自体、できなかったかも。 結局のところ、良くも悪くも吹っ切れたのだ。彼との関係を自分から断ち切ることで。 存外冷静は反応を示す妹に、里佳子は少し困ったような、それでいて納得した表情を浮かべた。 「……そうだったの」 グラスに新たに注がれたシャンパンを揺らしながら、里佳子が静かに語り始める。 「彼とはね、まだ私がデザイナーを目指していた頃に短い付き合いがあったの」 当時、海外の大学を出た後に再度日本でデザイン関係の学校に入り、基礎から学び直した彼女は、駆け出しのデザイナーとして社会に出たばかりだった。同じ頃、史郎も社会人となり、世間の荒波に揉まれつつ、忙しくも刺激的な日々を過ごしていた時期でもある。 そんな彼らは、当時まだ司法修習生だった里佳子の弟の大貴を通じて久しぶりに会った際に新卒社会人としての共通の話題があることに気づき、そこで意気投合したのだという。 「まぁ、お互いに若かったってこともあるのよね。何となく同じような考えや悩みを持っている身近な異性に愚痴をこぼして、それに共感してもらえると嬉しくなっちゃったっていうこともあるし」 今思えば、互いに多忙でなかなか自由に会えない境遇も、その感情を炊きつけるのに一役買っていたのかもしれないが、とにかく、若気の至りとも言える関係はあっという間に燃え上がった。 「でもね、やっぱり無理なのよ、彼と私では考え方が違い過ぎた」 恋人を自分の型に填めようとする史郎と、それを拒み、自我を押し通そうとする里佳子。根本的に違う価値観を持つ二人に妥協点は見いだせず、次第に一緒にいることに息苦しさを感じるようになっていった。 始まった時以上の速さで破局を迎えた彼らの関係はほとんど周りに気取られることもなく、久世の家族の中でも期せずして二人の間に立つ羽目になった大貴が断片的な経緯を知るだけだ。 それもあって、奏子と史郎の結婚話が持ち上がった時、里佳子はもとより彼も良い顔をしなかったというわけだった。 「あなたがあの人と結婚するって決めたと聞いた時、私は直接彼に会いに行き、問いただしたわ」 奏子を選んだのは何でも自分の思うようになるから、扱いやすい妻に仕立てることが可能だから、そんな理由で彼女を伴侶に選んだのならば、妹のためにも絶対にこの結婚を認めさせない。 そう思って史郎のもとに乗り込んだ里佳子だったが、彼の返事は意外なものだった。 「彼ね、こう言ったのよ、はっきりと。『彼女のことを愛している。大切に守りたいと思っているから結婚を申し込んだんだ』って」 その時のことを思い出したのか、里佳子は唇を歪めつつも何とか笑いを堪えた。 「信じられる?あのクールな伊達男が臆面もなく愛しているだの守っていきたいだのと語るのよ。それも真顔で」 それが自分のことだと言われ、奏子は顔を真っ赤にして俯いた。 「まぁ、結婚相手がかつて自分の姉と関係のあった男だなんて妻には気持ちの良いものじゃないだろうから、そこを逆手にとって彼に約束させたの。二人のことを漏らさない代わりに絶対にあなたのことを大切にする。自分の思い通りにならなくても無理強いをしない、そしてあなたが望むことは何でも叶えるってね。でも、まさか貴方の方から離婚を言い出すなんて、思ってもいなかったから」 里佳子は手にしているフルートグラスを照明に翳しながらぐるりと回す。そして物憂げな目で、泡立つ薄い褐色の液体越しに妹の方を見つめた。 「彼にはプレッシャーになっていたのかもしれないわね。今思えばあんなこと、言わなきゃ良かったのかしら」 そんな里佳子に向かい、奏子はずっと聞いてみたかったことを改めて姉に問う。 「リコ姉一つ聞いてもいい?」 「何?」 「リコ姉は本当に史郎さんのことが好きだった?」 彼女の言葉に、里佳子がはっと息を呑んだのが分かった。そしてゆっくりと天井を見上げ、やがて視線を妹の顔に戻す。 「そうね、多分あの時は本気だったんだと思うわ。でも……」 里佳子は何かを考えるように瞳を閉じ、言葉はそこで中途半端に途切れる。そしてしばらく時間が過ぎた後、目を開けた彼女はひと言だけ、こう呟いた。 「人を好きになることも、好きでい続けることも……本当に難しいものね」と。 HOME |