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   セカンド ・ マリアージュ  21


「も、守谷さん?」
奏子の前に立っていたのは、守谷だった。
ここ二、三日は機会がなくて、何とかうまく接触せずに済んでいたのに、なぜ今夜に限って彼に会ってしまったのか。
「こんなところに一人でいるなんて、何か特別な用事でも?」
奏子の装いを見れば、単にホテルに食事に来た、などと思う方がおかしいだろう。何せ今の彼女は女性が平時にするような格好ではなく、控えめとはいえドレスアップしているのだ。
いつも仕事に出掛ける際には着古したトレーナーやカットソー、それにデニムのパンツやスカートの類が定番の装いになっている奏子が、よもやこんな場所に、しかもこのような姿でいることに疑念を抱かれても仕方がないだろう。
「ちょっと知人からお呼ばれしていて、家の人と一緒に」
彼女は顔を引き攣らせながらも何とか答えた。父親の会社に関係した催しで、一緒に来ているのは元夫。真相からはかなり外れているし、表現にも無理があるが、決して嘘はついていない。
「そうなんだ。ここで会うなんて、奇遇だね」
守谷はそれ以上深く追求することなく頷いた。
「守谷さんこそ、今日はどうしてここに?」
よくよく見れば、彼は正装をしている。
史郎のように略式ではなく、ブラックフォーマルを隙なく身に着けている長身の守谷は、いつも仕事場で見かける作業着の上着を羽織った姿と違って見栄えがし、なかなか迫力があった。
「ちょっと会社関係の用事が、ここであってね」
都内でも有数のこのホテルには、大小さまざまな大きさの広間が幾つもあり、結婚式の他にもこういった会社関係者が集まるパーテイーなどもよく催されている。恐らく彼が今夜出席しているのもそのうちのひとつなのだろう。
「あ、でももうこれから帰るところなんです」
「そう、残念だ。僕はまだちょっと抜け出せそうにないんだなぁ。それでなければ家まで送って行きたいところだけどね」
守谷はそう言って顔を曇らせる。それを見た奏子は残念がる彼に対して罪悪感を抱いた。
もしも今すぐに守谷がここを去ることができたとしても、史郎という連れがいる奏子はどのみち一緒には帰れなかっただろう。それを思うと、彼がまだこの場に留まらなければならないことをありがたい、助かったと思ってしまったからだ。
最初から自分には離婚歴があることや、元の夫とは家業の絡みで今も完全には縁が切れていないことを正直に彼に告白していれば、こんな風にこそこそしたり、後ろめたい気持ちになったりすることもなかったはずだ。
勇気のなさや間の悪さに端を発した隠し事がもとで、奏子は自分がどんどん深みにはまっていくのを感じていた。

「健介さん、ちょっと。お客様が挨拶に来られていて」
背後から同じように正装をした人に呼びかけられた守谷は、ふっと小さく息を吐き出すと、諦め顔をしながらそちらを振り返った。
「分かりました。すぐに戻ります」
そう答えると、守谷は再び奏子の方に向き直り、腰をかがめて顔を近づけてきた。
「本当に残念だよ。時間があれば一緒に食事ぐらいはしたかったんだけど」
そして小声で「いつもの格好も可愛いけど、そういうのもなかなか素敵ですよ」と囁いてから呼びに来た男性と共にその場を離れて行く。
最後に彼に言われたことに動揺し、気の利いた言葉も返せない奏子は、ロビーの隅に座ったまま、視界から遠ざかる彼の背中を見送るしかなかった。

それからすぐに、守谷が立ち去ったのと同じ方向から、今度は荷物を受け取った史郎が戻って来た。もしかしたら二人はロビーのどこかですれ違ったかもしれない。それくらい微妙なタイミングだった。
「一旦家に帰した車を呼ぼうと思ったけど、今からだとかなり時間がかかりそうでね」
奏子のせいで予定よりも早く引き上げることにしたのだから、それ以上無理は言えないだろう。
そういうことならば、ここから実家までタクシーで帰った方が早いということで、彼女は二人分の荷物を持った史郎と共に玄関に出る。
車回しにもなっているタクシー乗り場で、二人はそこに停まっていた客待ちの車に乗り込んだ。
「お疲れさまでした」
動き出した車の中、奏子の労いの言葉に、史郎はようやく締めていたネクタイを緩めた。
「君こそ、大丈夫だったか?」
もともとこういった場所が好きではない奏子は、緊張するとつい固くなってしまう性質だった。そのことを知っている彼が、今日のことを心配してくれたようだ。
「ええ、何とか。でもやっぱり苦手です」
そういって肩を竦める彼女に、史郎が昔と変わらない、優しい顔を向ける。
相変わらず、この顔には弱いなぁ、私。
これは外では決して見せない、彼の素顔の一部だ。奏子も彼と付き合うようになるまでは、史郎がこんな風に穏やかな笑みを浮かべるのを見たことはなかった。日ごろのクールなイメージとは全く違う、素の彼を見ることができるのはごく近しい人だけ。そう思うと他の人が見たことのない彼を自分だけが知っているのだという優越感のようなものを持っていた頃が懐かしい。

奏子はタクシーの座席に深く沈み込むとゆっくりと目を閉じた。
それよりも、今夜は本当にびっくりした。
まさか偶然あそこで守谷に会うことになるとは、夢にも思わなかった。
奏子のいる工場ではそんな催しが行われるとは聞いていなかったので、彼は本社の関係であの場にいたのだろうか。
ほっとしながらそんなことを考えていると、車の心地よい揺れもあってか少しずつ睡魔に襲われる。
「家に着いたら起こしてあげるよ」
隣でそう言ってくれた史郎に「お願いします」と返した奏子はうたた寝を始める。タクシーの動きに合わせて揺れる頭を史郎の方に凭せ掛けると、彼女はそのまま体を預けて眠り込んだようだ。
妙に律儀で責任感が強くて、それなのにどこか世慣れないところは、変わってないね。そんな君らしいところが好きだよ。
彼の囁きは、夢の中の奏子には届かない。
そんな奏子から視線を外し、史郎は車窓を流れる景色に目を向ける。
彼女と別れてからすでに一年近くの時間が過ぎた。その間に自分も、そして彼女もそれぞれに新しい生活を始めているのだから、互いの知らないことがあっても何だ不思議ではない。
それでも……
さっきホテルのロビーで見かけた光景を思い出し、史郎は思わず眉を顰めた。
彼女と親しげに、話をしていたあの男性。ナンパなどするような場所ではないし、第一にそういった雰囲気もなかった。見知らぬ男性に対しては特に人見知りする奏子が、あんな風に笑いながら話をするのは余程親しい間柄の人間だけだと言うことを彼自身も良く知っているのだ。だから、さも親しげに話す二人を見ながら、声を掛けるのを躊躇った。
ざわめく気持ちを抑えながら、史郎は隣に座る奏子を覗き込むと、顔にかかる前髪を後ろに払う。
「あの男は……一体誰なんだ?」

しかしすでに眠りに落ちた彼女の口からは、欲しい答えは何ひとつ返ってはこなかった。




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