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   セカンド ・ マリアージュ  20


父親の容態が安定していたこともあり、翌日は普段通りに仕事に行った。
まずは早朝から始まる午前の仕事を終えると、彼女はいつも以上にそそくさと身支度をして家に戻る。見送る同僚たちは、それを父親の見舞いのためと良い方に受け取ってくれたようだが、実はそうではない。早く厨房を離れなければ、出勤してきた守谷に見つかる恐れがあったからだ。
いつもならば顔を見れば挨拶して軽い雑談に応じるくらいの余裕があるのだが、さすがに今日はそんな気持ちのゆとりもない。できれば目の前の懸案事項、史郎との外出ということが片付くまで、守谷とは面と向かって話をしたくなかった。
だが、そんな杞憂をよそに、なぜかその日一日、守谷は厨房には姿を現さなかった。
そしてその翌日はパーティー当日。
幸か不幸か、その日の朝も守谷と遭遇することはなかった。聞けば、彼は本社の方に呼び出されていて、今週いっぱいはそちらに出向いているとのことだ。
元々本社からの出向扱いでこの工場にてきている守谷は、時々こうして本体の方に戻って何か用事をしているらしい。そのあたりのことは中本たちも詳しくは知らないようだが、彼が不在の間は代わりの担当者に用件を振るようにしているとのことだった。

今夜の外出に備え、奏子は午後から休みをもらっていた。
ここのところ自己都合で仕事に穴を開けてばかりいるという自覚はあるが、今回も致し方ない。同僚のおばちゃんたちにそれを詫びると「カナちゃんが年末年始をフルに出て、充分休ませてくれたお返しだよ」といって快く出勤を代わってくれたのが本当にありがたかった。
午前の仕事を終えた奏子は一度マンションに戻り、身支度を整えてから実家へと向かう。
家に着くと母親が待ち構えており、その言葉通り部屋には彼女のフォーマルなドレスが何着か、すぐに着られる状態で吊り下げられていた。
「これがいいわね」
母親と相談して選んだのは、結婚した頃に作ったシンプルなカクテルドレスだった。一度しか袖を通していないそれは、以前よりも少し痩せた今の彼女にはゆとりがあり、着映えがする上にほっそりとして見える。しかし如何せん、水仕事で荒れた手は付け焼刃の手入れ程度ではどうしようもなく、レースの手袋をして誤魔化すことにした。
それから母が行きつけにしているヘアサロンに連れて行かれた奏子は、そこで夜会用のヘアメイクを施される。
不思議なことに、鏡に中の自分が少しずつ変わっていく様子を目の当たりにしながらも、違和感が拭えなかった。一年前には当たり前だったことが、今の自分にはそぐわないように感じられてしまうのは、彼女の内面が変化し、生きていく上での要不用を篩にかけ、要らないものを削ぎ落とすことを学んだせいかもしれない。

ドレスアップの仕上げに胸元にネックレスを掛け、揃いのイヤリングも着ける。
結婚指輪は離婚した時に史郎に返したので手元にはないが、婚約した時に贈られたエンゲージリングは慰謝料の名目で彼女の元に残されていた。今日の装いには石の映えるそれをつけたらどうかと母からは言われたが、心情的にはどうしても左手の薬指用に作られたリングは填めることができなかった。
いくら一緒に出掛ける相手が史郎でも、別れた夫からもらったリングを今更どんな顔をして着ければよいと言うのか。
もちろん、久々の娘のドレスアップ姿に少し浮かれている様子の母親にはそんなことを言えるはずもなく、奏子は手袋をするから今日は指輪は着けないと誤魔化したのだった。


夕方6時前。
史郎が彼女を迎えに久世家を訪れた。
「もう支度はできているのかい?」
玄関まで迎えに出た奏子を、彼は以前と変わらないクールな表情で見つめる。
「ええ。すぐに出かけられますよ」
そう言いながら羽織ろうとした手からショールを取り上げると、彼は奏子の背後に回り、ふわりとそれを着せかけた。
「きれいだよ」
昔のように、彼にそう囁かれた奏子は、思わず俯いた。
そう、ほんの一年くらい前まで、彼女は夫のこの一言が聞きたくて自分を磨き、飾り立てていたのだ。
夫の側に居て、恥ずかしくない妻になりたい。
その一心で、彼の心が掴めなくて挫けそうになる自らの気持ちを奮い立たせていた時期もあった。
彼に認められたい。彼に褒められたい。彼に愛されたい。
すべては彼を……史郎を中心に回っていた、あの頃の自分。今思えば滑稽なくらい卑屈になって彼の顔色をうかがい、その意に沿うことだけを考えていたのだと分かる。
そんな自分が彼の目にどう映っていたのかは定かではないが、自らの愚かさに気付いた奏子はもはや昔のようにその一言に無邪気に喜びを感じることはできなかった。

母親に見送られ門を出た二人は、待たせていた車の後部座席に乗り込んだ。
そういえば車で移動したのせいなのか、実家を訪れた時から彼はコートを着ておらず、マフラーを緩く巻いているだけだ。ちらりと横に視線を向ければ、彼の今夜のいでたちが目に入る。
特にドレスコードの指定はなかったものの、やはりある程度は格式のある装いを求められることになる今日は、彼も三つ揃いのダークスーツを身に纏っていた。
「どうかした?」
奏子の視線に気づいた史郎が訝しげな目を向ける。
「いえ、何でもないです」
「……今日は勝手を言って申し訳なかったね」
そう言って史郎に見つめられた彼女は、慌てて彼から目を逸らすと小さく首を振った。
「史郎さんの方こそ、父が無理を言ってすみませんでした」
恐らくは彼もこんな場所に彼女を伴って来たくなかったに違いない。おめでたい席で別れた妻と夫婦のふりをするなんて、道化もいいところだ。
そこで会話は途絶え、車内に沈黙が流れる。
その時、彼が傍らのブリーフケースから何か書類を取り出し目を落としたのを機に、奏子は再び史郎の方を盗み見た。
男性のスーツ姿は男前三割増し、と巷ではよく耳にするが、史郎の場合はそれ以上だと思う。細身で長身なわりに肩幅がある彼は、かっちりとした服装が様になる。仕事の時のビジネススーツもさることながら、略式とはいえ正装した彼は人の目を、特に女性たちの視線を吸い寄せるような、独特の雰囲気を放ち、男の色気のようなものがダダ漏れになってしまうのは仕方がないことだろうか。
かく言う奏子もそんな彼についつい目を向けてしまうのを禁じ得ないのだ。


ホテルに着き車を降りると、そこからはエスコート役の彼の肘に手を掛けてロビーを通り抜ける。
受付で名を告げ、会場の大広間に入ると、すでにかなりの招待客が集まっていた。
畑違いの業者の集いということもあってか、彼女が知った顔はほとんど見られなかったが、史郎は挨拶を受け、声を掛けられる度に名刺を交換していたようだ。
そしてここでも、やはり彼は注目を集めるようで、直接声を掛けてくる人たちの他にも、周りからこちらをうかがうように見ている女性たちの視線を感じる。史郎といえば、それには気づかないふりをしながら彼女たちの無言の誘いを黙殺していた。
前はこれが嫌でいつもやきもきしてたっけ……
彼に周りに群がる女性たちに勝手に焼きもちを焼き、いじけていた自分を思い出し、奏子は心の中で苦笑いした。
自分の夫だと思えば心が狭くなるが、ひとたび他人になってしまえば彼女たちの気持ちも分からなくはない。元妻の贔屓目抜きにしても、確かに彼は格好良い。一般人であるが故にそこいらのタレントや俳優より手が届きやすく、ちょっかいを出してみたいと思うのも頷けるのだ。中には本気で彼に声を掛けてくる者もいるのだろうが、周りを囲んでキャーキャー燥ぐようなノリの女性たちが大多数だろう。

時間と共にお酒も少し入り、頭痛を感じた奏子は、動き回るのが辛くなっていた。
そろそろ引き上げたいところだが、彼をここに置いたまま自分だけ帰ることもできない。そう思って一人壁際に下がろうとした彼女の腕を、史郎が掴まえる。
「どうしたんだい?」
彼に覗きこまれ、奏子は思わず足元がふらついた。
「あ、ちょっと頭が痛くて」
アルコールに弱い彼女は、飲めばすぐに頭痛や吐き気をもよおしてしまう。それが分かっているので乾杯のシャンパンをグラスに半分ほど口にしただけだが、それでも酔いが回ってしまった。
「それならば、そろそろ帰ろうか」
「えっ、でも……」
まだ主催者の一方にしか挨拶できていない。かなり多くの招待客がいて、両方となるとなかなか順番が回ってこないからだ。
「ウチとつながりのある会社の重役との顔つなぎは終わっているから大丈夫だ。それより君の顔色がよくない方がよほど気になる」
史郎はホスト役の社員を見つけ自分たちが帰る旨を伝えると、そのまま奏子を伴いクロークに向かう。
歩くうちに足元がおぼつかなくなってきた彼女をロビーのソファーに座らせ、一人荷物を取りに行く彼の背を目で追いながら、奏子はやっと肩の力を抜いた。
「終わったぁ、やっと帰れる……」
彼女はほっとした表情で目を閉じると、少しだらしなく背もたれに体を預ける。
「久世さん?」
「えっ?」
ちょうどその時、突然名を呼ばれた奏子は、驚いてびくりと体を震わせた。
「どうしたの?こんなところで」
聞き覚えのある声に恐る恐る目を開けると、そこにあったのは、できれば今は会いたくないと思っていた男性の姿だった。




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