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   セカンド ・ マリアージュ  19


その夜、仕事を終えた奏子は、バスと徒歩で30分以上もかけてマンションに帰った。
自転車を使えば15分とはかからない道のりが、公共の交通機関を使うとなると存外時間がかかるのは痛いところだ。その上夜遅い時間帯はバスの本数がめっきり減り、うっかり1本逃すと次を待つだけでも大変だ。
それを見越した守谷が家まで送ると申し出てくれたが、今夜は丁重に断った。帰りの足を心配してくれる彼の気持ちはありがたかったけれど、彼女の中には一人になって考えたいことが山ほどあったからだ。
無論、その中には守谷に対する隠し事をどうするかも含まれている。
家から一番近い停留所でバスを降りた後、歩道をとぼとぼ歩きながら奏子は思い悩む。
大した結論も出ないまま、マンションに帰りついた彼女は、重い足取りでエレベーターに乗り、気もそぞろに自分の部屋を目指す。
玄関のドアのところにたどり着くと、部屋の中には電気が灯っており、すでに彩乃が仕事から戻って来ていることを教えてくれた。
「ただいま」
鍵を開け、ドアを開いたところで中から電話の呼び出し音が聞こえ始める。
「お帰り。外は寒かったでしょう?早く入っておいでよ。はい、もしもし?」
リビングのドアの向こうからこちらに声を掛けてきた彩乃は、そのまま鳴り続けている電話を取ったようだった。
「はい、ええ、そうですが……はぁ」
玄関を上がり室内に入ってきた奏子に、彩乃がちらりと目をやる。
「いえ。ちょっと今お風呂に入っていて……ええ。そうですね。はい」
なかなか受話器を置けない彩乃の様子に、奏子も何かあったのかと心配になる。
「明日、ではだめなんですか?それかメールでも。今夜はあの子も疲れているようなので、早めに休ませたいんですけど」
少し怒気を含んだ調子でそう返す彩乃に、相手が何か言ったようだが彼女は頑として譲らない。
「大体別れた夫が今さら電話をしてくるのもどうかと思いますけど。ええ、携帯の電源が入っていない理由は私には分かりませんので」
彩乃はそう言うと、明日の朝にこちらから連絡させます、という言葉を最後に強引に電話を切った。
話の内容や、遠慮のない応対で、相手が史郎であることに途中から気付いていた奏子は、子機を充電器に戻し「ふん」と鼻を鳴らした彩乃を伺い見る。
「史郎さん……よね?何か言ってた?」
「さぁ、私には用件は言わなかったわよ。ただあなたを出せの一点張りで」
さっきの会話の中で携帯の件を聞き、慌ててバッグを見たら電源をオフにしたまますっかり忘れていた。仕事に行く前に、父親の見舞いで病院に入る際切ってそのまま忘れていたらしい。
そのことを言うと、彩乃は呆れたような顔で彼女を見た。
「半日そのまま放置?何て悠長な……まぁ、奏子らしいといえば奏子らしいけどさぁ」
遅ればせながら、彼女の前で携帯の電源を入れてみるとメールと着信が「これでもか」というくらい大量に残されている。そのほとんどが史郎からのものだ。
「こりゃ余程連絡を着けたかったのね。そういえばあの人、何か妙なことを言ってたのよ、日にちがどうとかこうとか」
そこで奏子は今日父親の見舞いに行った時のやりとりを彩乃に話して聞かせる。
「ふうん、それで元夫と一時的にペアを再結成して表舞台に出ることになった、ってこと?」
そう言われると何だか昔解散したアイドルグループが期間限定で行うことみたいだ、などと思いつつ、奏子は曖昧に頷いた。
「母には今回だけっていってあるけど」
「うーん、どうだか」
彩乃はこちらに疑わしげな目を向ける。
「多分、そっちは大丈夫だと思うんだけど、会社の人がちょっと……」
「何かあったの?」
「今度父の……お見舞いに行きたいって」
「それ、この前の、一緒に買い物に行った男の人?」
「……うん」
頷いた奏子を見て、彩乃はふぅと大きなため息をついた。
「そっか、やっぱりね」
何がやっぱりなのかと訝しい顔をする彼女に、彩乃は少し呆れたような目を向けた。
「何かおかしいなとは思ったのよ、ただの同僚にしては」
守谷は正しくは同僚ではなく上司のような関係にあたるのだが、下っ端の奏子に対しても丁寧に接してくれるので、あまり関係を意識したことはない。そう言うと彩乃は何か察したような様子でにやりと唇を歪めた。
「それって、多分に私的な感情が含まれてない?」
「そ、それは……」
彩乃にはまだ、彼から交際を申し込まれていることを打ち明けていない。ただ、察しの良いこの友人は少し前から何となくそのことにも気付いている様子で、休日に出掛けていく奏子の服装や髪形をさりげなく直したり、アドバイスをくれたりしていた。
「まぁ、いいじゃないの。これで親公認ってことになれば。元ダンナの方も、あなたに新しい彼氏ができればきっぱり身を引かざるを得ないでしょう?」
かねてから彩乃は奏子に新しい出会いがあることを歓迎し、それが付き合いに発展すれば応援するというスタンスを取っている。
「それが、ね」
奏子は言い難そうに口ごもる。彩乃はすでに守谷との交際を決定事項のように言うが、自分の中ではまだそこまでの感情が育っていないのだ。それに、奏子は未だ自身の離婚を彼に黙っていることが心苦しくて仕方がなく、自分の職場での立場を考えればそれだけでも余分な悩みを抱えることになってしまうのだ。
彼女の話を聞くうちに、彩乃も段々と表情が曇り始める。
「それってさぁ、ちょっと拙くない?いろいろと」
モーションを掛けてきているという守谷という男性が積極的に話を先へと進めたがっていることや、彼女が自分に離婚歴があることを告げていないこともさることながら、奏子本人が彼に対してそこまでの感情を抱けずにいるのは少々厄介な問題だ。
周囲の勢いに押され、何となく自分もそれにのまれてしまったような前の結婚の二の舞は、奏子のもっとも恐れるところだ。だからこそ、できれば今度の相手の男性には慎重にことを進めて欲しいところだが、肝心なその理由を彼女が告白していないのであれば、抑えようも諌めようも懇願しようもない。
「うん。その上、一度だけとはいえ史郎さんと夫婦を装って人前に出なければいけないなんて。もうどこから収集を着けたらいいのか分からなくなりそうで」
もし仮に、今後奏子が守谷と付き合うことになれば、彼のアプローチを受けた後に史郎のパートナーとして立ったことは彼女の中でさらに大きな後ろめたさを残すことになるだろう。
奏子の心中を思いやると、いかに彩乃とはいえ、頭を抱えそうになってしまう。
聞けば、史郎と出掛けるのは明後日の夜。
それまでに守谷に対する気持ちを整理し、彼を捕まえて自身の身の上を告白し、ついでにお義理で元夫と疑似夫婦を装うことになったと知らせることなど、どう頑張っても無理なことにしか思えない。ましてやそれらすべてを一人でこなさなければならないのは奏子なのだ。
「そりゃ、無理だねぇ」
つい口から零れてしまった言葉に、側で奏子が苦笑いしている。
「ただ、これだけは言っておくけど」
彩乃はそこで立ち上がると一旦言葉を切った。
「史郎さんと本格的に復縁することだけは勧められないから」
「そんな心配しなくても、それはあり得ないよ」
そう言って少し切なそうに微笑む奏子の頭をポンと軽く叩くと、彩乃はリビングを後にする。

奏子が新しい恋を始めるのなら、いくらでも応援する。
だが、上手く隠しているつもりでも、彼女の心には未だ史郎が……元夫が住み続けているのを彩乃は知っていた。彼女が生まれて初めて経験した恋は、純粋で強烈で、その分一途なものだったから、それを簡単に忘れ去ってしまうことは容易ではないはずだ。
周囲は皆、奏子の外見や雰囲気に惑わされて、彼女のことをただ大人しくぼんやりしたお嬢様として扱う。すぐ側に居ながらその内側に潜んでいるしなやかな感性や、存外思い切りの良い気質に気がつけない輩、史郎のような男には二度と彼女に近づけたくはなかった。




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