BACK/ NEXT / INDEX




   セカンド ・ マリアージュ  17


父親の容態は安定しているということで、翌日にはICUを出て一般病棟へと移った。
この病院は完全看護なので基本的に夜は泊まり込むことができない。手術当夜も遅い時間に母親が帰宅させられたのを機に、奏子はそのままマンションへと戻って来た。
彩乃に詳しい状況を話しておきたかったし、ほとんど着の身着のままで飛び出してきたせいで泊まる用意を何もしていなかったからだ。
翌朝、マンションから病院に向かった彼女は、前夜母親に乞われたためにその日は実家に泊まることにしていた。

奏子は父親が四十の声を聞いてから生まれた子供だ。もう決して若くはない父は、昔の過度な喫煙癖がもとで肺に穴が開くという持病を抱えており、以前から体調を崩しやすかった。そのせいで彼女が家にいる頃にもこうして何度か病院のお世話になったことがある。
今回は症状が急に現れたことや、大がかりな手術が必要な可能性があったためにより設備の整った大きな病院に救急搬送されて周囲を慌てさせたが、実は過去にも同様の処置を受けており、穴が塞がり痛みがなくなれば回復も早いのが常だった。


麻酔が切れ、痛いの息苦しいのと文句を言いだした父親を宥めて病室に残し、奏子と母親は車で自宅へと戻った。
彼女が実家を訪れたのは正月以来のことだ。
自分はもとより兄も家を出て一人暮らしをしているし、父親は入院中で食卓が寂しいとこぼす母親に何も言えず、奏子は食事終わると早々に自室に引き上げた。

奏子の実家は決して大きなお屋敷というわけではない。場所こそ世間でも有名な、閑静な住宅街の中にあるが、家の規模としては中くらいにあたる。ただ、地続きに以前は祖父母の隠居用の離れにあったせいで、建物を壊した今も塀越しに外から見れば図抜けて広く見えるのだ。
一旦はこの家から嫁ぎ、出戻ってから一年近くが過ぎたというのに、幸か不幸かまだ彼女の部屋は実家の中にそのまま残されている。
結婚した当時には、こんなものはいい加減片づけて欲しいと思った時期もあったが、今になれば残しておいてくれたことに感謝すべきかもしれない、と奏子は自嘲気味に思った。
結婚前そのままに、家具もウォークイン・クローゼットも、その中身まできれいに残されている部屋を見回し、彼女はため息をついた。

一度本格的に整理をしに帰らないとダメかな……

ここには史郎と暮らしたマンションから引き上げてきた荷物が箱に入れられたまま置かれている。中には彼に買ってもらった衣料品やカバン、アクセサリーなども含まれていて、当時の奏子には心情的にとても使えず見るのも辛いと、離婚してから何度かこれらを処分しようとしたことがあった。
それを止めたのは、母親だ。
多分母はその頃はまだ、もしかしたら奏子と史郎がよりを戻すかもしれないという期待を持っていたのだろう。いや、もしかしたら今もまだ、心の中で密かにそうなることを願っているのかもしれない。
最初に両親に離婚の話を切り出した時、父親は怒るより先に困惑したようだった。やっと自分の後継の目星がついたと安堵していたこともあるだろうが、何より娘からも婿の史郎からも夫婦仲が壊れそうだという話を聞かされていなかったせいだ。
奏子はともかく、史郎はそんなことを考えたこともなかったようなので、それは仕方がないことかもしれないが、とにかく突然の告白は父を驚かせてしまったことに変わりはない。
それでも娘に甘い父親である彼は、最終的には奏子の意思を受け入れてくれた。後継のことはこの際置いておくとしても、男女のことは本当のところは当人たちにしか分からないことだと言って。
これに対して母親はなかなかその事実を認めようとはしなかった。
そのため、一時は実家に逃げ帰った奏子より、母親の方が憔悴してしまい、兄からはどちらが離婚の当事者だか分からない、とからかわれたくらいだ。
そんな母は、表面上とはいえ彼女の話に納得してくれた父親とは違い、事あるごとに史郎ともう一度話し合うことを勧めてきた。さすがに離婚届に判を押し、二人が他人になってからはあからさまに口に出すことはしなくなったが、それでも今もお気に入りだったかつての娘婿の史郎びいきであることに変わりはないらしい。

そもそも奏子が家を出ようと思った切欠は、離婚するまでも、してからも、何とか復縁をと画策する親たちからの無言の圧力を感じたからだった。
はっきりとした離婚理由を明かさない奏子に、両親、特に母親はまだ関係を修復するチャンスがあると踏んだようだ。父親はそれに押される形でそれとなく双方の気持ち元に戻そうと機会を振って来た。
確かに奏子は理由を言わなかったが、それは単に自分でも説明がつかなかったからで、彼の元に戻るということは当時の彼女の選択肢にはなかったというのに。
父親の期待と母親からの懇願。
それらが徐々に奏子を追い詰めていった。自分の家にいるというのに、居心地が悪くて息苦しい。それでなくとも一年に及ぶ史郎との結婚生活に疲弊し、離婚してからは親に心配を掛けまいと空元気を装っていた彼女には、すでにその重圧に耐えるだけの余力がなかったのだ。
親の意に沿うことはできず、かといって家を出ても行く当てもない。袋小路に陥り、自分でも限界に近づいたと感じた彼女に手を差し伸べてくれたのは、その頃たまたま連絡をくれた学生時代の友人、彩乃だった。

待ち合わせをした喫茶店で、彼女はコーヒーを片手に、ただ相槌を打ちながら何も言わずに自分の情けない話を聞いてくれた。
彩乃は学生時代から付き合いのある、腹を割って何でも話せる数少ない友人であり、自分が在学中に婚約した当時の経緯も知っている。その後、奏子が結婚したことで一時疎遠になってしまった二人だが、離婚して住所が変わったことは彼女にはメールで伝えてあった。
「ふうん、そんなことになってたんだ。だったら、ウチに来ない?住み込みでハウスキーパーとして」
突然の誘いに目を丸くした奏子に、彩乃は頭を掻きながら笑った。
「ウチ、今大変なことになってるのよ。平日は忙しくって、家のことにまで手が回らないし、休みは一日中ダウンしていることもしばしばで。足の踏み場もないっていうか物を避けながら歩いているっていうか、そんな状態なの」

大学を中途退学したのと同時に家を出た彩乃は、早くから一人暮らしをしていた。
最初は家賃の安い小さなワンルームマンションを借りたが、仕事が軌道に乗って来たのを機に少し前に自宅にも仕事場が持てる少し広めな賃貸マションに引っ越したことは聞いていた。
「一部屋空いているの。今は物置になってるけど、広さは6畳あるから充分使えるわよ」
そのまま彩乃に誘われて初めて訪れた彼女のマンションは、少し古いが駅からほど近い場所にあった。間取りは3LDK。南向きに洗濯が干せる大きなベランダもあり、恐らくファミリー向けに作られた物件だろう。

彩乃の誘いは奏子には助け舟だった。
家に戻るとちょうどいた母親にその話を伝え、奏子はそのまま家を離れる準備を始めた。
両親は心配して何とか思いとどまるように言ってきたが、もう限界だった。とにかく少しでも早く家を出たくて、奏子は次の彩乃の休日を待って、文字通り彼女のところに転がり込んだのだ。
そんな訳で、彼女は今の住居には結婚していた時のものをほとんど持ち出しておらず、実家に放置していた。実家を出た当時は、もしかして戻って来ざるを得なくなったら必要になるかも、と思って残していったものたちだが、新たな生活を始めた今では多分もう一生必要ないだろうと感じ始めている。

両親のことにしてみても、今になり冷静になって考えてみれば、彼らなりに不肖の娘の行く末を心配していただけなのだということが理解できるようになった。
史郎にあれほど恋焦がれて、好きで嫁いだ相手だと両親も知っている。ならば何とか元のサヤにと願う親の気持ちに偽りはないだろう。両親からすれば、そのついでに会社のことが上手く収まれば願ったり叶ったりだった、といったところだろうか。

少し引いたところで、自分の進む方向が見えれば考え方も変わってくる。疑心暗鬼で周囲に心を開けず、堂々巡りをしていた頃の自分からすれば、今はそれなりに気持ちの余裕がでてきたのかもしれない。


翌日は午後のシフトに組み込まれていた奏子は、朝早めに実家を出て一度マンションに戻ることにした。仕事に行く前に病院に寄り、父親の顔を見てからとなると、家事を早目に済ませてしまいたかったのだ。
パートとはいえ職に就いたことを実家には知らせていない。言えば何かと過保護な両親に反対されことは目に見えていた。ただ、兄の大貴には、就職の際の保証人になってもらうために事前に話をしてあった。
現時点ではまだ、母親にそのことを知らせる必要はないと奏子は思っている。特に父親がこんな状態の今は、要らぬ心配は掛けたくない。
母には用事があるから帰るとだけ伝え、実家を後にする。
そして予定通りに家事を終え、病院に見舞いに寄った奏子を待っていたのは、ある人からの短い伝言だった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style