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   セカンド ・ マリアージュ  15


電話で教えられた病院の前でタクシーを降りると、奏子はそのまま入口に駆け込んだ。
午前の外来の患者が一段落した病院は、午後の面会時間前で人も少なく、閑散としている。
総合案内所で事情を話し、父親のいる場所を探してもらう間に母親の携帯に連絡を取ろうと試みるが、電源を切っているのか、何度かけても伝言ダイヤルに繋がるばかりだ。

仕方なくその場で待っていると、確認を頼んだ職員が父親は今、手術室に入っているようだと教えてくれた。
「入院患者様の場合はご家族は病室でお待ちいただいていることもありますが、そうでない方は手術室の側に待機室がありますので、付き添いの皆さまはそちらにおられると思います」
職員はそう言うと、病院の簡易の見取り図を指して、階数とここからの行き方を丁寧に説明してくれた。
それを聞いて大体の場所を覚えた奏子は、職員に礼を言うとすぐにエレベーターホールがある方向に向かって歩き出す。
しかし、見れば3基あるエレベーターの表示はすべて上階に向かっていて、自分がいる1階には1基も留まっていなかった。
「ああ、もう。タイミング悪すぎ」
焦る気持ちを無理やり抑え込みながら、奏子はため息まじりに階数を表示するランプを見上げる。
自分の腕時計に目を落とせば、家を出てからかれこれ40分近くが経っていた。急を知らせる電話がかかってきたのは今から1時間ほど前のこと。掛けてきたのは父の会社の重役の男性で、奏子も面識がある人だ。
外出中に急に体調を崩した父親は、そのまま会社の車でかかりつけの病院に担ぎ込まれたらしく、その時点では母親もまだ到着していなかったと聞いている。その後、症状がそこの個人病院では手に余ると救急搬送されてしまったのでそれ以降の容態は彼にも分からないらしく、辛うじて救急車が入ったこの病院の名前だけは聞き出すことができたのだった。
マンションを出た時には既に母の携帯は繋がらなかったし、ここに来るタクシーの中から兄の大貴の方も試してみたが同じような状態だった。姉の里佳子は現在海外にいるのですぐに駆けつけることは難しいだろう。そうなれば、自分で状況を確かめるしか父の容態を知る手立てはない。
奏子はふと思い立ち、自分が持って来たトートバッグの中に手を突っ込んだ。中から出てきたのは、今日職場で使うはずだったアームカバーだ。
父の急を知らされた時、奏子は午前の仕事を終え、一旦帰宅していた。すでに午後の出勤準備をしていたのでこれがカバンに入っていたのだ。受けた電話を切ると彼女はすぐさま中本に連絡をいれて事情を説明し、今日の午後のシフトから外してもらった。そしてこの後のことも考えて、明日も休めるように出勤の予定も変えてもらった。年末年始や連休時に家族と共に過ごす他の人が休みを取りやすいように出勤を代わったりしていたお蔭か、急なことにもかかわらず無理をきいてもらえたので、ひとまずは助かった。
仕事中は携帯の電源を切っている彩乃には、後で分かるようにとメールを入れてからそこらにあった荷物をまとめ、駅に向かった。そこからタクシーを拾ったのだが、その時やっと自分の手が震えてきたことに気が付いた。
今まで一度も経験したことがない家族の危機に、緊張状態で固まっていた自分の意識がようやく回り始めたのだ。
「大丈夫、大丈夫」
気が付けば彼女は無意識に、呪文を唱えるように何度もそう呟きながら手の震えを抑えるためにバッグのストラップをきつく握りしめていた。そして車窓に流れる街の景色などまったく目に入らず、ただ前だけを見てここまで来たのだ。

乗っていたエレベーターが止まり、扉が開くと奏子はフロアの一角の、手術室があると思しき場所に真っ直ぐに向かう。そして固く閉ざされた観音開きのドアの前まで来ると、辺りを見回して見知った顔を探した。
すぐ脇のドアがないオープンスペースを見つけてそこをのぞくと、数人の人影がある。その中に入口に背を向けて椅子に座る自分の母の姿があった。側には仕事用のスーツ姿の兄がこちらを向いて立っているのも見える。
「お母さん?」
呼びかけると、母は俯いていた顔を上げてこちらを振り返った。
年明けに実家に顔を出してからというもの、母親とは電話ですら話をしていなかった。急なことに動転してはいるものの、思ったよりも落ち着いている母の姿に少し安堵する。
「奏子、来てくれたのね」
少しほっとしたような顔で呼ばれた奏子は、思わず母親の側に駆け寄りその肩を抱きしめた。
「お父さん、大丈夫だよね」
母は小さく頷くと、側にいる奏子の兄であり自分の継子でもある大貴に同意を求めるように見上げた。
「心配しなくてもいい。手術室に入るまで、親父に意識はあったし、こちらの言うことにもわりとしっかり反応していたから。ただ……」
大貴は何かを言い淀むと、つと視線を奏子の後ろ、入口の方へと向ける。
それにつられて彼女が振り返ると、そこには今一番会いたくて、そして会ってはいけないと思う人の姿があった。
「史郎さん……」
「奏子……さん、元気そうだね」
史郎は前のように名を呼んでから、気付いたように「さん」付けにした。
彼は気づいていないようだが、奏子の方は少し前に彼の姿を見かけている。
「ええ。史郎さんも」
もっと動揺するかと思っていたが、現実に彼を目の前にしても不思議なほど落ち着いて受け答えをしている自分に驚く。もっと他のシチュエーションで彼と対面すれば違った反応をしたかもしれないが、今は父親のことで頭が一杯でそこまで気が回らないことがかえってありがたい。
しかし、その時ふと彼女の頭をある問いが過った。

なぜ親戚でもない彼がこんな場にいるのだろうか。

奏子と結婚している間、彼は父親にとっては義理の息子だった。しかし離婚が成立した今となっては二人は赤の他人だ。もちろん、今も変わらず父の事業の一端を彼が担っているということは知っていたが、だからといって倒れた父の枕元に駆け付けるような義理はないはずだった。
彼女の疑問が表情に現れたのか、史郎は奏子の気持ちを見透かしたように話し始める。
「お義父さん……社長がこの仕事の第一線から退くことを聞いているかい?」
始めて聞く話に、奏子は驚いた顔をした。
「いえ。父とはずっと会っていなかったから……」
「そうか、知らなかったんだね」
首を振る彼女に、史郎は少し目を伏せ気味にして続ける。
「知ってのとおり、大貴……君の兄さんは家業を継ぐことには難色を示している。そして姉の里佳子さんも海外に拠点を置いていて、今のところこちらに戻って来る気は皆無だと言って来た」
そこまでは知っている。だからこそ、自分が史郎と結婚してゆくゆくは久世家の婿としての彼に会社を継いでもらうよう取り計らったのだから。
「だが君と僕が離婚したことでその話は一度白紙に戻った。だから社長も何とか他の方法をといろいろ考えられていたんだ。しかし夏以降、彼の体調の悪化が著しくてね。ここにきて待ったなしの状況になってきた」
そこで一旦話を切ると、史郎はふっと息を吐き出した。
「社長は再び後継を僕にと言って来た。元は血縁も何もない、その上娘と離婚した僕にね。もちろん最初は断ったよ、道理的にもそんな話は受けられないって」
奏子の父親が社長を務める会社は、曾祖父が興した典型的な同族会社だ。現在は上場して株式を公開しているものの、今もなお、経営陣には親族が名を連ねている。
離婚により史郎本人はそういったポジションからは一切身を引くつもりだと聞いていたが、彼女の父親の強い慰留でしばらくは今のままの体制で会社にかかわっていくことになった、というところまでは奏子も話を聞いていた。
しかしそこまで父親の健康状態が悪化していることも、その後継に史郎を据えようと考えていたことも彼女は全く知らなかった。
「そのあたりのこのことは、大貴も了解しているはずだ」
史郎に言われて兄を見ると、大貴は口元を引き締めたまま彼女に向かって頷いた。
「いずれまた何だかの変更があるかもしれないが、とにかく今はお義父さん……社長の負担を軽減することを最優先に考えた」
その引き継ぎとして、一緒に顔つなぎを兼ねたあいさつ回りをしている最中に父が倒れたということだった。
「そうだったんですか」
もしも自分が離婚を言い出さなかったら、それだけの能力を有すると父に見込まれていた史郎は何の障害もなく後継者としての地位に就くことができたはずだ。だが、彼女と別れたことで史郎は当然得てしかるべき立場を失ってしまった。
奏子は自分の我侭が彼に与えた不利益を考えると申し訳なさに、思わず俯いた。
その時、カツカツという固いヒールの音が廊下に響き、入口に人影が現れる。
「姉貴?」
室内を見回していたところを大貴に目敏く見つけられた姉はこちらを向くと一瞬驚いた顔をした。
「里佳子ちゃん?」
「リコ姉!」
母親と奏子に同時に呼ばれた彼女は、しかしそれには応えず硬い表情でじっと一点を見つめている。
「お久しぶりです……里佳子さん」
なぜかその視線の先にいたのは、妹の元の夫である史郎だった。




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