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   セカンド ・ マリアージュ  1


「おはよう」
「おはようございます」
あの時と同じ朝の挨拶が交わされるキッチン。
けれどその相手はまったく別の人だ。
「もう今日から11月だって。今年も残すところあとふた月しかないって、早いわねぇ、1年が」
ポストから取って来た新聞の日付を見た彩乃はそう言うと、パジャマ姿のままでテーブルにつき、素足をぶらぶらさせながら出されたトーストを齧っている。
「ちょっと待って、今、目玉焼き作ってるから」
「半熟でよろしく」
「了解です」

早いものであれから三つ目の季節を迎えた。
奏子は相変わらずこんな生活を送っているが、少なくとも以前のように一日中家に閉じこもって一人でぼんやり過ごすなんてことはなくなった。
それというのも、今も目の前で彼女の作った朝食を美味しそうにがっついている、現在の同居人のお蔭だ。
「もう一枚トーストしようか?」
「うーん、止めておく。時間がない」
彩乃は時計を見ながらそう言うと、口の中に入れていたパンをコーヒーで流し込み、席を立つ。ガシャガシャと忙しなく食器を重ねる様子を見た奏子は慌ててその手を押さえた。
「いいよ、急いでいるんだったらそのまま置いておいて。後で私が一緒に片づけるから」
「悪い、奏子。今日のプレゼンが片付いたら、お詫びにケーキ買って来るから」
「うん、楽しみに待ってるね」
「オッケー、上手くいったら奮発しちゃうよ」
「美味しいケーキが食べられるようにお祈りしておくね」
それを聞いて笑いながら洗面所に消えていく木佐彩乃は、奏子の高校、大学時代の同級生だ。
奏子のように幼稚園から大学までずっとエスカレーター式で上がってくる生徒がほとんどの中、彩乃は家庭の事情で高校在学中に編入してきた特殊な経歴の持ち主だ。二人は高校の時のクラスメイトで出席番号も隣り合わせだったことですぐに仲良くなり、彩乃が大学を中途退学するまでの数年間を一緒に過ごした親友だった。
新進気鋭のアクセサリーデザイナーである彩乃は、現在新作のプレゼンテーション前でかなり多忙な日々を過ごしている。ここ最近、朝は早目に家を出て行くし、夜も帰りが遅い日が多い。休日も呼び出されてたびたび出かけて行くし、家にいても自室に籠って仕事をしていることがほとんどだった。
まだブランド全体を任される立場ではない彩乃はなかなか苦戦する時もあるようだが、その苦労込みで楽しんでいるらしいこの仕事を天職といって憚らない。今日もこれから来春立ち上げる自社ブランドの新作モデルの検討会があるということで、鏡に向かいいつも以上に気合の入ったメイクをしている。
仕事が出来て自立していて、その上誰が見ても美しく有能な女性。
そんな彼女は奏子にとって頼れる友人というだけでなく、憧れの対象であり、羨望の的でもあった。

「それじゃ、行ってきます」
「うん、頑張ってきてね」
身支度をして慌ただしく仕事に向かった彩乃を見送ると、奏子は朝食を片づけて洗い物に取り掛かる。点けっぱなしのテレビのワイドショーを横目に見ながら洗濯をし、布団を干して部屋の掃除を済ませると、そろそろ時刻はお昼前というところだった。
「うわぁ、天気が良いなぁ」
買い物に出かけた彼女は、青く澄みきった空を見て伸びをする。
布団を出しているからあまり遠くへは行けないが、それでも秋晴れの陽気に誘われていつもより少し離れた場所にあるショッピングセンターまで足を伸ばした。
そこは行きつけの近所のスーパーよりもかなり規模が大きい。
ベーカリーや本屋も同じフロアにあり、道路沿いの一角にはドーナツやハンバーガーなどファーストフードの店も入っている。
買い物を終えた奏子は、食料品で重くなったエコバッグ片手にちょっと立ち読みをするつもりで書店に入った。
「……もう流行についていけない」
真っ先に手にしたファッション雑誌をぱらぱらとめくった奏子だが、今一つ興味がわかなかった。親に甘えて結構なお小遣いをもらっていた学生時代や、夫の給料を銀行口座ごと渡されていた主婦の頃ならともかく、今は無収入の身。
単発のアルバイトもそうそうあるわけではないから、あまりこういったことにお金を掛けられない事情もある。だが彼女は決してお金に困っているわけではなく、皮肉なことに、今は使っていない口座には結構な額のお金が入っている。それは離婚時に元夫、史郎から振り込まれた、いわゆる「慰謝料」というやつだ。
離婚を相談した弁護士から最初にこの話を聞かされた時、奏子は受け取りを固辞した。
結婚生活は実質一年にも満たない。その間に暴力を受けたことは一度もないし、夫に浮気をされたというわけでもない。他の新婚家庭の家計状態を知らないので比べようがないが、衣食住を賄う生活費については、夫の収入から考えてもかなり楽な生活をさせてもらっていたと今でも思っている。
それを話すと、周囲からは口をそろえて「ならば、なぜ離婚しなければならないのか」と訊かれた。
正直なところ、自分でもこれが原因だと皆に納得させるだけの理由を並べるのは難しかった。
彼の仕事が忙しく、すれ違いの多い結婚生活だったが、夫婦仲が取り立てて悪かったということはない。彼の外泊理由は100%出張だったし、休日が潰れるのも仕事がらみのゴルフや会合、パーティーのせいだった。
あまり一緒に過ごす時間がなかったこともあるが、喧嘩をしたことはない。だからといってまったくの放置状態ということではなく、セックスもそれなりにはあった。
結婚当初から夫があまりにも家庭を顧みなかったことが不満と言えば不満だったが、それも最初から分かっていたことで、彼の立場からすれば仕方がないことだと納得したし諦めてもいたはずだった。
ただ、彼女は一日中誰とも接することなく家に引き籠り、ずるずると無意味に時間を過ごすことで自分がだめになることが恐かった。そして何より、なかなか打ち解けられない夫と向き合うことができず、彼に対する自分の気持ちの持って行きどころが分からなくなったのが離婚を考えるきっかけになったのだと思う。
結婚してからの約一年の間に、奏子は今まで甘やかされて、のほほんと楽に生きてきた二十数年分のツケを一気に払わされるほどの苦悩を味わった。そして離婚という道を選び、周囲から当たり前に守られてきた自分の考えの甘さを知ることで、遅ればせながらも自立するということの苦労と重みを実感したのだ。

「さて、帰るか」
雑誌を棚に戻し、荷物を持ち上げた時、ふとその横に平積みにしてあった求人情報誌に目が行く。
『未経験者大歓迎のお仕事特集』
表紙の目立つ大見出しに惹かれた彼女は、再度バッグを下ろしてその雑誌を手に取る。
ぱらぱらと捲って中をのぞいていると、そこには未経験者でも大丈夫だという多種多様な求人が載っていた。
営業、配送、販売、清掃業、介護や医療サービス等々。
その中で彼女の目を引いたのは、会社の独身寮のまかない仕事の求人広告だった。
その見知った住所は、今彼女が住んでいる場所から自転車で10分とかからない場所にある。
「午前5時半から8時までと午後は3時から7時半まで。週末休みで祝日は出勤か。午前午後、どちらか一方だけでも可。時給は――」
内容に興味を引かれた奏子はもう少し詳細が知りたくて、その求人情報誌を買い求めると急いでマンションへと戻った。

家に着くと先ずは買ってきた食料品を冷蔵庫やストッカーにしまう。そしてコーヒーの入ったマグカップを手にリビングに行くと、彼女は買ってきた情報誌をテーブルに広げてさっき見た時に折り曲げておいたページを出した。
「パート、か」
パートとアルバイト。このあたりの住み分けが、彼女には今一つよく分からない。
現在23歳の自分の年齢だと、結構アルバイトで通用することが多い。ただ、元主婦、として考えると、名称的にはパートの方がぴったりくる感じは否めない。
この求人のようにパートと銘打っている場合は、相手は多少年齢のいった落ち着いた人材を探していると考えるべきなのか。
「ま、どっちでも条件は同じようなものなんだろうけど」

仕事の内容は調理助手と片づけ。
男女問わず、年齢60歳くらいまで。
見習い期間の1ヶ月間は時給750円、本雇用されたら800円スタートで年1回の昇給あり。祝日の出勤及び早朝の5時半から6時半と夕方6時から7時半までは時給100円アップ。
原則土、日曜日は休みだが、祝日は出勤あり。
お盆、年末年始の休みは会社の休暇に準ずる。

特別何も資格といえるものを持っていない奏子だが、料理なら何とかこなせる。皿洗いは得意だし、掃除や片づけも嫌いではない。
「えっと、場所は……あ、やっぱり、多分あそこだぁ」
いつも奏子が行くクリーニング店の並びにあるその敷地には、ブロック塀に囲まれた鉄筋コンクリートの建物が数棟並んでいた。
クリーニング屋のおばさんの話では、あれは大きな道路を挟んだ反対側にある、自動車関係の工場に勤める従業員用の男子独身寮だということだった。言われてみると、確かに雰囲気は男臭くてすべてが雑っぽい。ベランダに出ている洗濯物の干し方は結構いい加減だし、建物の奥まった入口に突っ込むようにして無造作に自転車が停めてあるのを見かけることがよくあった。
「男子寮となると、食べに来るのは男の人ばっかりだよなぁ」
ただでさえ、男性に免疫のない自分がそんなところに入って行けるのか?そう考えると自信がないが、時間といい、場所といい、仕事の内容といい、これを逃すとなかなか次にありつけないような気もしてくる。
とりあえず、彩乃の意見も聞いてみようと思った奏子は、その求人雑誌をテーブルに置くと残りの家事に取り掛かったのだった。




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