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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 9



「ちょっと待ってよ。冗談でしょう?」
「冗談って何がだ?俺はこれ以上ないほど本気だ」
汐田は袖口を掴んだ彼女の手を冷ややかに見つめた。
「そんなこと勝手にされたら……」
「そう言って先延ばしにし続けてきた結果がこれだ。いい加減どこかで踏ん切りをつけないと身体がもたないと、あれほど言っても君は何もしなかった。違うかい?」
「それは……」
「君が言わない……いや、言えないのなら、俺がはっきりと言う。こうでもしないと、このままだと君と子供の両方を守ることなんて、とてもできないじゃないか」
汐田はドアを睨んだまま、掴まれていた袖を引き抜こうと力を入れたが、思いのほかするりと彼女の手が外れたように感じた。
「……由紀乃?」
彼が振り向くより一瞬早く、肩越しに彼女が床に崩れ落ちるのが目に入る。
「由紀乃、どうした?」
床にしゃがみ込んでその場に倒れた体を抱き起すが、彼女はお腹を押さえたまま顔をひきつらせている。
「いや、い、痛いの。何か、お、お腹の中が引き絞られていくみたいに……くっ」
由紀乃は背中を丸めると、両手で下腹を抱え込むようにして低く呻いた。
「き、救急車、救急車だ」
汐田は片手で彼女を抱きかかえたまま、デスクの上にあった電話を床に引きずり下ろすと、119を呼び出そうと必死にダイヤルを押す。社内の電話はすべて外線ボタンを押さないと外に繋がらないのだが、動転した彼にはそれさえも理解できなかった。
「何で繋がらないんだ」
苛立たしげに舌打ちしながら受話器を放り出した汐田は、彼女を抱き上げるとそのままドアを開けて部屋の外に出た。
「どうなさったんですか?部長」
通りがかった社員たちが驚いた様子で道を開けるのにも構わず、彼はそのままずんずん廊下を進んで行く。
「汐田部長?」
階段を何階か下り受付に女性社員の姿を認めると、汐田は呻きながら身を捩ろうとする由紀乃を抑え込んだまま矢継早に指示を出す。
「君、悪い救急車を呼んでくれ。それから営業部の六嶋君にすぐにここに来るよう連絡を着けてくれないか。頼む、急いで」


救急車の到着を待つ間に、早妃子が由紀乃のカバンと上着をロッカーから出して届けてくれた。
カバンの中にあった彼女の携帯電話でクリニックに連絡を入れ、状況を説明すると、すぐに病院に連れてくるように指示された。
救急車が到着し、ストレッチャーに下ろされた由紀乃は半分意識が朦朧としているようで、頻りに両手を動かして何かを掴もうとしている。そんな状態で車に乗せられる彼女を早妃子が気遣う。
「部長、おひとりで大丈夫ですか?私も付き添った方が良いようなら……」
「ありがとう。だが、ここは私が何とかする。悪いが、今日はもう戻ってくるのは無理だろうから、後のことを頼む」
「かしこまりました。あの、落ち着かれたらでいいですから、後で様子だけ教えていただけませんか?私の番号は係長の携帯に登録されているので」
「分かった。勤務中になるかもしれないが、大丈夫か?」
「構いません」
そう答えた早妃子に頷くと、汐田は救急隊員に促されて由紀乃の側に乗り込んだ。

視界から消えていく救急車を見送り、振り返った早妃子の後ろには、物見高い野次馬が群れていた。その中にはもちろん、彼女の同僚たちも大勢集まっている。

ああ、佐東係長、もうこれでバレバレですぅ。
たらりと冷や汗をかきつつ、なぜか心の中で萌調になりながら、早妃子はこの場を如何に突破するかを考えていた。

同僚たちが、特に受付近くにある総務経理部の女性社員たちが大挙して入口付近に押しかけ、何やらひそひそと話しながら早妃子を遠巻きに見ている。今はまだ外にいるので人目を気にして誰も彼女に聞こうとしないが、社内に入った途端に囲まれ、質問攻めに遭うのは必至の状況かと思われた。
その時だった。
「せんぱーい、大変ですぅ。見積もり出してるパソコンがフリーズして、その上電源が落ちて真っ黒になっちゃいましたぁ」
人の壁の間から、いつもの調子の萌のSOSが聞こえてきた。
「あれ、今日中にできないと営業さんに怒られます。でも電源入れても何にも映らなくて、今まで入れたデータももしかしたらパーかもしれませーん。先輩、何とかして下さいぃ」
「メグ、落ち着きなさいって」
人の間をかき分けるようにして、あたふたと萌が早妃子の手を引っ張って社内に戻ろうとする。
「早く、早くぅぅ」

呆気にとられた周囲を尻目に、萌は現れた時と同様に突風のようにばたばたとその場を去って行った。もちろん、早妃子を連れてだ。
二人は途中まで非常階段を駆け上がり、そのまま途中の踊り場に座り込んだ。
「きっつぅ」
「あ、あなたねぇ、わ、私の年を考えてよ。こんな、階段を、一気に駆け上がったのなんて、中学校の部、活動以来なんだから」
息が上がり切れ切れになりながらも文句を言う早妃子に向かって、萌がにんまりと笑った。
「でもちゃんと脱出できましたよね、あの鵜の目鷹の目集団から」
「い、一応、ね。っていうか、あなた、無用に変な時に、小難しい表現使うわね。まぁ、助かったわよ。ありがとう」
へへへと笑う萌を見ているうちに、早妃子も笑いが込み上げてきて、訳もなく顔を見合わせて大笑いした。
「さてと。ところですごい機転を利かせたじゃない?見積もりのフォームが入ったマシンが動かないなんて、嘘にしてもすごいインパクトがあったわよ」
「あ、あの嘘じゃなくて、実は……」
「メグ、まさかあなた本当に……」
「使っている途中でフリーズしちゃったんで、えいっと電源落としたら、それっきりうんともすんともいわなくなっちゃったんですぅ。あ、痛っ」
デコピンされた額を押さえて、萌が涙目で見上げた。
「ちょっとあの見積もりのフォームはあのマシンにしか入っていないのよ。あと部長のパソコンと。今日は部長はもう帰って来ないと思うから、何が何でも動くようにしなくちゃ。できなかったら今夜は帰れないわよ」
「そんなぁ」
「ほら、ぼやぼやせずに、すぐにデスクに戻って再起動かける」
「ひえ〜」



救急隊員に掛かりつけのクリニックを言うと、確認が取れたのでそこに救急搬送された。
診察の結果、軽い出血とそれに伴う収縮があるということで、大事をとって由紀乃はそのまま入院となった。

「とにかく無事でよかった。君が倒れ込むのを見た時には、本当に肝が冷えたよ、まったく」
咄嗟にお腹を庇って身体を丸めたために大事には至らなかったが、それでも倒れた時の衝撃はかなりのもので、直接床に叩きつけられた右肩には、打撲の痛みと共に大きな痣ができつつあった。
「ごめんなさい。まさか私も倒れて意識を失うなんて思ってなかったから」
由紀乃は大きく一つ息を吐き出すと、痛くて動かせない利き腕ではなく、点滴の針が刺さったままの左手を動かした。
「何だ?」
「あ、お水が飲みたくて」
汐田はストッカーの上に置いてあった水差しを取ると、コップに注いだ。
「ありがとう」
半分ほどの水で喉と唇を潤した由紀乃は、コップを汐田に返しながら表情をうかがった。
彼も疲れた顔をしている。
それはそうだろう。彼女が自分の前で倒れたのだから。彼にしてみれば、大事な子供が危険に晒されそうになったというだけでも大きな衝撃になったに違いない。
汐田は時計をちらりと見てから、由紀乃の点滴の薬剤に目をやった。
「まだ時間がかかりそうだな。ちょっと会社に連絡を入れてくる」
彼はそう言うと病室から出て行った。

「ああ、やっぱりバレちゃったわよね、あの騒ぎだと」
混濁した意識の中で、大勢の人がこちらを見ていたような記憶がおぼろげながらあった。救急車を呼ばれたことや、汐田が付き添いとして来たことなども、後から尾ひれがついて噂になることだろう。
「まぁ仕方がないか。これも嫌なことを先延ばししていた自分のせいだし」
そう言いながらも由紀乃は痛みのある右手で両目を覆う。
確かにこのことが白日の下にさらされることが恐ろしかった。だが、このまま子供を失ってしまうかもしれないという恐怖は、それをはるかに凌駕するものだった。
自分にとって、今何が一番大事で、何を一番にしなければならなかったのか。
いつの頃からか、それを履き違えてしまっていた自分の浅はかさが堪えた。


そんなことを考えながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
気が付いた時には外はすでに暗く、病室には明るさを抑えた電気が灯っていた。
「起きたのか?」
側のパイプ椅子に座って雑誌を読んでいた汐田が立ち上がってこちらをのぞきこんだ。
目覚めたばかり、おまけにコンタクトを外している彼女の手元にメガネもなく、時計の針がぼんやりと滲んで見える。
「いま……今何時?」
「そうだな、10時少し前ってところだ」
「えっ、もうそんな時間?」
「ああ、かなり疲れていたみたいだな。良く寝てたよ。それに少し安定剤も入っていたみたいだし」
いつの間にか外された点滴針の痕には、薄いガーゼが絆創膏で留められていた。
「あなたももう帰った方がいいわ。明日も会社があるんだし」
「いや。今夜はここに泊まることにした。一応ナースステーションの許可は取ったから」
このクリニックは産科があるため、一、二泊程度ならば家族が付き添うことが許可される。
「でも会社は?」
「とりあえず、明日明後日の2日は付き添いで休むと会社に有給を申請しておいたから問題ない」
「そんなこと……すっかりバレちゃったみたいね」
「ああ。そのようだな」
「皆に言う手間が省けたじゃない」
虚しく笑う由紀乃の手を、汐田が握った。
「なぁ」
「ん?」
「もしかして、いや、多分に君が結婚を躊躇っている理由は、15年前のときのことが原因なんだよな」
「……それだけではないけど、確かに大きな理由の一つではあるわ」
「そうか。こんなことになる前に、一度ちゃんと君に話しておくべきだったな。どうしてあの時あんなことになったのかを」




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