chapterW 「Sugar」 な彼女 8
「佐東係長、休み時間に悪いが、ちょっといいかな」 昼休憩が終わる少し前、由紀乃は汐田に部長室に呼び出された。彼の話の大方の予想はついている。それは彼女の部下にあたる、派遣社員の尾藤美幸に関することだ。 「どうしたものかなぁ、相手が取引先となると、知らぬ存ぜぬで通すのにも限界があるし」 「そうですね。一応本人に覚えがないかどうかを確認してからということになりますが……」 美幸と思しき女性を、榊コーポレーションのオーナーが探していると聞き、二人はどう対処するのが良いのかを思案していた。派遣社員である尾藤は、身分的には自分たちがどうこういえる立場にはないが、この会社に勤務し、尚且つ由紀乃の直属の部下である以上、何かあった場合には彼女を擁護する必要がある。 「それはそうと、由紀乃、昨日また病院に行ったんだろう?何かあったのか?」 がらりと口調を変えて、汐田が聞く。周りに他人の目がないとはいえ、社内で彼がこんなことをするのは珍しいことだ。 前回の検診時に注意されていた微量の出血が再びあったことから、彼女は次の検診を待たずにクリニックで診察を受けた。本当なら黙って行きたかったところだが、診療時間の関係でどうしても半休を取らざるを得ないため、その行動は上司の汐田に筒抜けになってしまう。 「いえ、ちょっと調子が悪かったから念のために診てもらっただけよ」 今月に入って悪阻が落ち着くと、今度はむくみや立ちくらみが起きるようになった。もとから貧血気味ではあったものの、むくみなどというものには無縁だったのに、特に朝方に手足がぱんぱんに腫れ、肌に押した指の型がついてしまう。痛みはなかったが、倦怠感がひどくて家でも横になっている時間が増えた。 医師にはできるだけ安静にするよう勧められたが、仕事を持つ身ではそうも言っていられない。すでに年休は検診や何やで半分以上消化しているし、まだ妊娠期間はやっと半分を過ぎたところだ。何かあった時のためにも少しは休暇に余裕を持たせておきたいというのが正直なところだった。 「……由紀乃、もうそろそろ意地を張るのを止めた方がいいんじゃないのか?妊娠していることを公表するだけでも、周囲のフォロー受けやすくなる。体のことを考えたら、今のペースで仕事をこなしていくのはどうみても無理だろう」 確かに彼の言い分はもっともだ。だが、そのために彼女が受ける逆風はかなりのものになるに違いない。 これだけ離婚率が上がり、シングルマザーが増えているにもかかわらず、まだまだ未婚のままで子供を持つということに対しての世間の目は厳しい。 常識やモラルを振りかざされ、謂われない中傷に晒されるかもしれない。もっと言えば今まで築いてきたキャリアや信用をすべて失う可能性だって捨てきれない。 怖いのだ。 自分が縋って生きてきた世界が崩壊していくこと考えると恐ろしくて、いつかはしなければならないことと分かっていながらついつい先延ばしにしてしまう。 「まだ……今はダメよ。それに内々にちゃんと部内で業務を全部引き継いで、そういう体制ができればもっと楽になるわ」 「そういいながら、もう何か月が経つ?早ければ年明けにも産休に入ることになるというのに、君は自分の体が、お腹の子供が大事なんじゃないのか?」 「もちろん、子供が一番よ。でも、この子を育てていくためにも、私はこの仕事を失うわけにはいかないの。だから今からちゃんと復帰までの道筋をたてておかないと……」 「由紀乃。それは子供が無事生まれたらという前提だ。もしも、もしもだ。その子に何かあったら……君はそれでも今を、仕事を優先すると言うのか?」 「誰もそんなことは言ってない……」 由紀乃の反論がノックの音と共に途切れた。 汐田も言い過ぎたとばかりに額を擦りながらそれに応える。 「どうぞ」 「失礼します」 ドアが開き、入ってきたのは早妃子と美幸だった。 何となく室内に漂う気まずいムードを打ち消すように、汐田が二人を手招きして自分たちの前に座らせる。 「尾藤君、君に来てもらったのは他でもない、顧客の一人が……いや、もう単刀直入に言った方がいいな。ル・ジャルダンのオーナーシェフで、榊コーポレーション社長の榊大輔氏が、君らしき人を探しているそうだよ」 「榊大輔?」 「何か心当たりはない?あっちはかなりご執心なんだけど」 早妃子が昨日のことをかいつまんで話し始める。 話を聞いても美幸は本当に身に覚えがないのか、しきりに首を捻るばかりだ。 「何か仔細があるのなら、あえてそこまでは聞かないわ。でも、ウチに関わっている以上、彼と会う可能性もあるから、念のために伝えておくわね」 「はい。わかりました」 美幸はそういうと、早妃子と共に部長室を後にした。 ちょうどその時、昼休憩の終わりを告げるチャイムが流れ、それを機に由紀乃も汐田の部屋から退こうとした。 「とにかく、早めに何とか考えてくれ。でないと、俺もこのままでは動きようがない」 彼女にしてみれば、できることならずっとこのまま何もせず、動かずにいてくれた方がありがたいのだが、汐田の性格からしてそれは無理というものだろう。そんな思いを隠して、由紀乃は頷いたのだった。 それからすぐに美幸と榊の一件は片が付いた。 早妃子の話では、美幸は榊の名前を本当に知らなかったらしい。それで話をした時にも訝しそうな顔をしたのだろう。 これで一安心と思ったのも束の間、由紀乃の体調は日を追うごとに悪化の一途をたどった。悪阻の時とはまた違った、食欲不振と身体のだるさ、顔色も悪く、普通の生活を送るのさえ辛く感じ始めた。 数日後、残業で遅くなる汐田よりも早く帰宅した由紀乃は、強い嘔吐感を感じ、トイレに駆け込んだ。 その時は大したものは出なかったが、深夜になり、またもや軽い出血を起こした彼女は、急遽翌朝にもクリニックで診察を受けることに決めたのだ。 朝出勤する汐田にはそれを伝えず「急用で」と偽り、自分は彼よりも遅くに家を出る。急なことで予約の時間を挟んでもらうのにかなり手間取り、会社に着いたのはすでに午後の始業の直前だった。 「今日はお休みされるのかと思いましたぁ」 トイレで歯磨きをしていた萌と偶然会った由紀乃は、顔色の悪さを隠すために念入りに化粧を直した。 「そうそう休めないわよ」 「そうですね、忙しい時期ですからね。でも無理なさらないで下さいね。係長、ここのところずっと、ホントに顔色悪いですよ」 「ありがとう」 先にデスクに戻る萌を見送ると、由紀乃もトイレを出た。それからクリニックで出された薬を飲んでおこうと給湯室に向かった時、突然側のドアが開き、中から汐田が現れた。 「きゃっ」 「ああ、由紀乃。ちょうど良かった。ちょうど君を探しに行こうと思っていたところだ」 「探すって、何か御用でも?」 その言い方が気に食わなかったのか、汐田は険しい顔をすると彼女の腕を掴んだ。 「まだそんなことを言うのか?ちょっとこっちに来なさい。話がある」 ドアから引きずり込まれるようにして部長室の中に入った由紀乃は、よろけそうになって思わず側にいた彼のスーツに縋りついた。 「何なのよ?」 お腹まわりが重く、ただでさえ不安定な体型になりつつある今、ちょっとのことで転びそうになる彼女は、きっとした目で汐田を睨んだ。 「午前中、どこに行っていたんだ?本当は病院だったんだろう」 「それは……」 「おまけに、今日はこのまま自宅に帰って、休むように指示したと医者は言っていた」 「えっ?あなた一体……」 医師からは当分仕事を休んで安静にするように言われたのだが、今日の今日から数日の休みを取ることは難しかった。だから会社に行き、皆に頼んで段取りをつけてから休みをもらおうと考えて、無理をして来たのだ。 「昨日の夜から気になっていたから、念のために昼前にクリニックに電話をしてみた。その後君の携帯にはいくらかけても繋がらないし、それからマンションに電話してみたが、一向に出ないだろう?おかしいと思っていたら、会社に君の姿があったというわけだ」 そういえば、診察中は携帯電話の電源を切っていたので、そのまま入れるのを忘れていた。 「俺もいい加減、もう限界だ。君が何と思おうが、俺は言う」 それだけ言い置くと、汐田は部長室を出て行こうとした。由紀乃が慌てて彼を止めようとする。 「言うって、一体何を」 「決まっているだろう。君が妊娠していて経過が思わしくないこと。それに……その子供の父親が自分だってことも、俺の口からはっきりと皆に言うつもりだ」 HOME |