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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 7



「ついに来たかぁ……」
由紀乃はため息をつきながら、自分のスカートを見下ろした。
今は9月半ば、妊娠もすでに5か月を過ぎた。
とうとう今まで着ていたスーツのスカートやパンツのウエストが入らなくなってきた。何とか無理やりに太腿を通しても、お尻でファスナーが上がらず、ホックがはまらない。普通の妊婦に比べれば月数の割にお腹が小さい方だと思うが、それでも確実に彼女の身体は変化しつつあった。
すでに少し前からぴったりしたデニムは腰が入らなくなっていたし、ブラウスも胸のボタンが弾けて飛びそうになっていたから覚悟はしていたが、それでも段々と着る服に困ってくる。
これまで悪阻や何かで落ちた体重は少しずつ増えてきて、妊娠前より幾分軽い程度にまでは戻った。だが、体重はさほど変わらないのに、お腹や胸、お尻など、部分的にサイズが大きくなってしまい、仕事着も私服もことごとく合わなくなってきている。

「そろそろマタニティウエアに変えなくっちゃいけない頃ではあるのよね」
ただし、デザイン的に妊婦と一目瞭然のワンピースを堂々と着る勇気はまだなかった。
ただでさえ、もう一部の社員たちの間では、彼女の妊娠が噂になっていると聞く。幸いなことに営業部は男性が多いからか、まだそれほど根掘り葉掘り聞かれたことはなかったが、女性が大半を占める総務経理あたりではバレたら最後、こちらが言いたくないことまで探り出されるに違いない。
そのせいもあって、今までは人目を気にしてガードルでお腹を固定し、ベルトの一部にゴムが入った洋服を着て仕事に出かけていたけれど、それさえも全て入らなくなれば、もう好むと好まざるとにかかわらずマタニティのドレスに変えるしかないだろう。


「準備はできたのか?」
寝室の入口から汐田が顔をのぞかせる。
今日はクリニックの診察を受ける日だが、生憎と汐田は支店会議で付き添えない。その代り少し出社を遅らせて、行きがけに彼女を医者まで送って行くと言って譲らなかった。
「ええ。もう出かけられるわ」
午後から出勤するように半休しか取っていないので、由紀乃はいつも出勤時に着ているスーツ姿だ。ただし、スカートの後ろのファスナーは半分開いたまま上から安全ピンで留め、上からオーバーブラウスでそれを隠した。

「いろいろと、忘れずにちゃんと聞いてきてくれよ。食事のこととか、薬のこととかも」
運転しながら汐田が何度も繰り返す。
やっと悪阻の症状は治まったものの、いぜんとして体は疲れやすく、体調はすっきりしない。彼女も初めてのことだらけで、妊娠中はこんなものだと割り切ってしまうのは不安だった。
「それに、そろそろ部内でも話が広がり始めている。このことが公になる前に先に六嶋君あたりにはそれとなく話しておいた方がいいんじゃないかと思う」
「……そうね」
今のまま、彼女が産休と育休に入るとなると、誰か後任のあてを探しておかなくてはならない。そうなると一番とばっちりを食うのは、由紀乃のすぐ下にいる主任の早妃子だろう。

「それから、来期の新編成ことだが、業務グループを課に格上げするのはとりあえず延期になりそうだ」
「何ともならないの?」
「ああ。現状で、六嶋君を一足飛びに課長にまで押し上げてリーダーに据えるのは無理だ。それに春には平岩との結婚を控えているんだし、彼女には荷が重すぎるだろう。課長の人選も、業務に特化するにふさわしい力量を持った者が本社にはいないしな」
由紀乃は膝の上でぎゅっと手を握りしめた。

悔しい。

今まで自分たちが頑張ってきた、その積み重ねあっての課への昇格、自身の課長昇進となるはずだったのに。
そんな彼女の手に、汐田がそっと左手を重ねた。
「君たちの努力が帳消しになるというわけではない。人選や規模の面での見直しが入るだけだ」
「でも、もし……」
自分が復職できなかったら。
そう言いかけて、由紀乃ははっとして顔を背けた。
そんなことがあるはずはないし、あってはいけない。自分とお腹の中の子供が食べていくためには、何が何でも仕事にしがみ付いていかなくてはならないのに、今からそんな弱気になってどうするのかと、自分を戒める。
「大丈夫だ。今のところそれ自体を潰そうなんて勇気のある役員はいない。業務グループはそれだけの仕事をしていて、頼られているんだから。ほら、着いた。それじゃ。会社には気を付けて行くんだよ。何かあったら携帯に連絡を入れてくれ」
クリニックの前で車を降りた由紀乃は、走り去る車を見送ると受付に向かった。



「妊娠中に疲れやすくなるのは大概みんなそうなんだけど、佐東さんの場合ちょっと症状が重いかもしれないですね」
いつものように診察を終えた由紀乃は、いろいろな疑問を担当の医師に尋ねていた。
「あと、おりもの程度の微量でも出血らしきものがあったということなら、前置胎盤の可能性も捨てきれないわね。30週くらいまでに自然に胎盤の位置が上がって正常になることもあるので、要経過観察以外に今すぐどうこうということありません。ただ、これからも出血が疑われたらすぐに診察を受けてくださいね。それでそのように診断された場合は、入院が必要になる可能性があるから、できることなら今から少しずつお仕事をセーブしておいた方がいいかもしれないわ。前回一緒に来院されたパートナーの方の話では、かなりハードな仕事を任されているみただけど、それをもうちょっと軽減できないかしら」

医師はそう言うと、カルテを捲る。それを見ながら由紀乃は気持ちが落ち込むのを感じていた。
前の検診時、汐田は強引に病院に付いてきた。そしていろいろと、彼女が言わなかったことまで医師に相談したことから、後で喧嘩になったくらいだ。その後、彼は来期の仕事のスケジュールを大幅に変更し、事実上彼女をそのポジションから外した。その際に由紀乃は怒りにまかせて彼に噛みついたのだが、今聞いた状態では、彼の心配と配慮はあながち的外れではなかったのだと再認識させられた。
そんな彼女の気持ちを察してか、医師は努めて明るく診察をこう締めくくる。
「あなたの場合、高齢出産になるので、妊娠期間中はできるだけリスクの高いことは避るに越したことはないの。途中で切迫流産なんかを起こしたら大変よ。せっかく授かった赤ちゃんなのだから、無理をしないで、できるだけ周囲の方にも協力してもらって、無事出産を迎えましょう」


会社に着くと、昼休憩の少し前だった。
由紀乃はちょうどデスクにいた早妃子を呼ぶと、彼女を昼食に誘う。近くのお店でランチを頼んだ二人は、互いに話を切り出す機会を探っていた。
「あなたも聞いているみたいね」
先に口火を切ったのは、由紀乃だった。
「ええ、まぁ。こういうことは結構伝わるのが早いですから。特に女子更衣室、あそこは噂話の巣窟ですからね」
早妃子は苦笑いしながら答えた。
以前、彼女が婚約騒ぎを起こした時に、何度かロッカーで平岩のファンだった女性社員たちに詰め寄られたことがあったからだ。
「やっぱり本当なんですか?妊娠しているって」
早妃子の問いかけに、由紀乃はため息まじりに答えた。
「ええ。本当よ」
「あの、聞いてもいいですか。相手はもしかしたら……汐田部長?」
由紀乃は小さく笑うと、頷いた。
「そう。よく分かったわね」
やっぱりそうかという顔をした早妃子を見た由紀乃が苦笑いを浮かべる。
「あ、すみません。そんなつもりじゃなくて。実は私、ずっと前……と言うか、入社してすぐくらいだったかな、聞いたことがあるんです。係長と部長のこと」
「そんなことを知っている人がまだいたなんて、驚きだわ」
「佐東係長の同期に柳井さんって先輩がおられましたよね。彼女、私の指導員だったんです」
「柳井千明?……そっか、あなた、入社した時は海外事業部だったものね」
その部署は、今では営業部に吸収されている。その際に早妃子も含めて全部員が営業に移って来たのだ。
「そうです。で、当時付き合っていた係長と汐田部長をめぐって他の女性社員がトラブルを起こしたことがあるって、柳井先輩が。それで部長がこちらに戻って来られた時に、お二人が撚りを戻されたのが何となくわかったから、私てっきり……」
あの時のことは、汐田本人と相手の女性、その友人、それに由紀乃の同期の女性社員の合わせて数人が知るだけだ。そんなに大事にならなかったお蔭で、社内の噂にならなくて済んだし、その時は相手の女性も納得してすぐに引いてくれたからだ。

だが、結果としてみれば、汐田を勝ち取ったのは自分ではなかった。
その後二人がどういういきさつで結婚してなぜ離婚したのか、未だ汐田の口から語られたことはない。

「でも係長、まだご結婚されないんですか?赤ちゃんが生まれる前に何とかしないと」
「今のところその予定はないの。このまま一人で産んで育てるつもりよ」
「えっ、そうなんですか?てっきり私部長と……」
「周囲からいろいろ言われることは覚悟しているわ。でも私にはその気がないの。だからあなたにも、しばらくこのことは黙っていて欲しいのよ」
「でもいつかはバレちゃいますよ。ましてや相手があの汐田部長だなんて。隠し通せるものではないと思います」
「それも覚悟の上よ」
「そうですか、分かりました。でも無理はしないでくださいね。できる限り私もフォローには回りますけど、100%は難しいかもしれないです。何といっても今はまだメグのお守りに手が取られるし」
「ああ、加藤さんね。でも彼女頑張っているじゃない」
「やる気だけは人の2倍も3倍もありますね。ちょっとその気合いが空回りしている感は否めませんが」
そう言って笑う早妃子に、由紀乃は頭を下げた。
「これからいろいろと負担をかけることになるのは分かっているの。ごめんなさいね、あなたもこれから結婚に向けて忙しくなるというのに」
「その点は大丈夫ですよ。そういうところ、平岩君は小回りが利くし、私よりよく気がつく人ですから」
「あら、のろけ?」
「いえ、そんな……もうそんなにやにやしないでください、係長」

幸せそうに頬を染める早妃子の様子を見ていると、嬉しくなる反面羨ましくもある。意地を張らずこんな風に素直に気持ちを表すことができたなら、もっと違う道もあったかもしれないと思わずにはいられない。
そんな自分に欠けているものを感じつつ、由紀乃はそっとテーブルの下でお腹に手を添えたのだった。




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