chapterW 「Sugar」 な彼女 6
8月に入り、汐田との同居を始めてからひと月が過ぎた。 妊娠も4か月目に入ったところでようやく安定してきたようで、ありがたいことに、何とか少しずつ味や匂いのあるものを口にできるようになった。 だが、元々中肉中背だった彼女の体重は、この2ヶ月ほどの間に8キロ近くも落ちてしまい、その憔悴ぶりは、もはや洋服や化粧では誤魔化しきれなくなっていた。 悪阻と貧血で何日か会社を休まざるをえなかったことで、周囲も少しずつ状態を訝しんでいるのが聞こえてきたが、彼女はこのことを一切誰にも話さなかった。 汐田も由紀乃が強く口止めしているせいか外で話してはいない様子だが、それとなくハードな遠方への出張を他の同僚に振り替えたり、直帰という名目で彼女を早めに帰宅させたりという配慮をしてくれたのがありがたかった。 「えっ?明日?」 翌日からお盆の休暇に入ろうという日、汐田は夕食の席であることを由紀乃に打診してきた。 「ああ、急で悪いけど、一度挨拶だけはしておきたいって、ウチのお袋が煩くてね」 汐田の両親は健在だ。父親は定年後、都内にあったマンションを彼の兄弟に譲り、実家のある神奈川に移り住んだ。現在はそこで悠々自適の生活を送っている。 彼女の妊娠が分かってすぐに、汐田は自分の親にそれを報告していた。 ちょうど同じ時期に、彼の兄の息子にも子供ができたと聞き、訳もなくちょっと恥ずかしく思えたことがある。 「お兄さんのお孫さんとあなたの子供が同級生なんてね。同じ父親なのに、子と孫ほども年が違うって何だかねぇ」 そう言って苦笑いする由紀乃に、汐田は真顔で反論した。 「年は関係ない。子供を授かった時が親になる時だ。それが、俺はたまたまこの年齢だったってだけさ」 考えてみれば汐田は15年前に一度結婚をしている。 その時すでに彼は30代半ばで、決して早い結婚ではなかったのだ。すぐに子供に恵まれていれば、その子はもう中学生くらいになっていてもおかしくない。 それは彼女にも言えることで、もしもあの時彼のプロポーズを受けていたとしたら、今頃は自分にそのくらいの子供がいたかもしれないのだ。 そう思うと由紀乃は複雑な気持ちになった。 ほんの少しのすれ違いで、自分の手から零れ落ちたものたち。 15年前のあの場面で彼について行ったからといって、必ずしも幸せになれたかどうかは分からない。ただ、『もしあの時こうしていたなら……』という後悔にも似た苦い思いは、このまま一生彼女の中で残っていくことになるのだろう。 「親父も会いたがってたけど、君の体調が落ち着くまで待たせていたんだ。こっちに呼んでもよかったが、何せ二人とも年だからね。その上、ここは君のマンションだし。だから俺たちがあっちに行くって言っておいたから」 一応、このマンションは由紀乃のものということを考慮してくれたらしい。 それに50に手が届く年齢の汐田の両親ともなると、恐らく70代の半ばは越えているだろう。そんな彼らにわざわざ自分に会うためだけに、ここまで出かけて来てほしいなどとはとても言えない。 由紀乃は汐田との結婚を躊躇してはいるが、お腹の中の子供から祖父母を取り上げることまではしたくない。ましてや、彼の両親の方が久しぶりの孫の誕生を楽しみに待っていると聞かされてからは、できることなら子供のためにも彼らと良い関係を築いていきたいと考えるようになっていた。 「でも、ご両親がこのことを何て思われているか不安だわ」 未婚のままで子供を産みたいという彼女の考えは汐田が伝えているはずだ。だからこそ、彼らは自分がどんな女なのかを見定めるために会いたがっているのではないかと、邪推してしまう。 「そのあたりは大丈夫だ。ま、いろいろとあったってこともちゃんと伝えてある」 それを聞いた彼女は、もう抗う理由を見つけられなかった。 「わかったわ」 「無理はするなよ。ちょっとしたドライブになるからな。調子が悪ければちゃんと言ってくれ。今は体が第一だから」 そう言うと、汐田は二人分の食器を持ってキッチンへと入って行った。 ここに一緒に住むようになってからというもの、彼は率先して家事を引き受けている。掃除洗濯、買い物からゴミ出しに至るまで、昔に比べても驚くほど手際よくこなしていた。 「一人暮らしが長いんだから、このくらいできて当たり前だ」 そう言いながらも、料理だけは今一つ気が進まないようだが、それでもしばらく何も食べられなかった彼女のために、雑誌のレシピを片手に奮闘していた。 お腹の子供に対しても、育児書や情報誌を買ってきては熱心に読み、胎教も良いと聞けば即実践している。 よく、母親は自分の胎内で子供を育てている間に母性を育むが、父親は生まれるまで実感がわかないというが、その例は彼には当てはまらないようだ。 段々と、着実に父親らしくなっていく汐田を見るにつけ、彼女は自分の意地だけでずるずるとこの問題を引きずってしまっていることに、迷いを感じ初めていた。 最初は子供のために結婚をするという提案に反発した。だが結局のところ、世間の厳しい目から子供を守っていくには、彼の言うとおりにするしか道はないようにも思える。 確かによんどころない事情で、シングルマザーとして子供を育てている女性は大勢いる。ただ、自分の場合すぐ側に問題のない、否むしろ理想に近いとも言える子供の父親がいて、彼が一緒に子育てをしたいと熱心に意思表示をしているのだ。これを贅沢と言わずしてなんと言うか。 しかし、それを受け入れれば彼女が頑なに持ち続けてきたものが根こそぎ失われてしまうように思えて、由紀乃はどうしても素直に頷けなかった。 そんな時、自分の了見の狭さが情けなくなる。 彼女には分かっていた。 結婚を渋る原因の一つに、15年前のことに対する蟠りがあるのは間違いない。ただ、それはあくまで数多の理由のなかの一つに過ぎない。 本当は、自分は一人でいたいわけではない。臆病で、相手に裏切られるのを恐れるあまりに、彼の胸に飛び込んで行くことができないだけなのだと。 汐田の実家は彼女のマンションから車で2時間ほどのところにあった。 そこでは両親と、お盆で帰省していた彼の妹家族が二人を迎えてくれた。昼過ぎに着いたため、すぐに食事となり、あれよあれよと言う間に酒盛りが始まる。かなり飲まされた様子の汐田は、夜までひと寝入りしたが、それでもハンドルを握れるような状態ではなかった。 「それじゃぁ。私が運転して帰りますから」 そろそろ夜の11時を回ろうかという時間になって、由紀乃は暇を告げようとした。 だが、彼女の言葉に、汐田と父親が異議を唱える。 「こんな時間に、ましてや妊娠中の女性に夜道を運転させるわけにはいかんだろう」 「そうだな。由紀乃、今夜は一晩ここに泊まろう。妹たちは離れを使うって言ってたから、こっちの客間は空いてるんだし」 「そんなご迷惑をお掛けしては……」 「大丈夫だって。親父やお袋だって、夜中に無事帰ったかどうかを苛々しながら心配する方がよっぽど堪えるんだから」 「でも、何も持って来ていないですし」 「家にあるものを遠慮なく使ってちょうだい。下着も私ので良かったら買い置きがあるから」 汐田の母親にそこまで言われると、彼女もそれ以上嫌だと突っぱねられなくなり、二人して一晩ご厄介になることに決めた。 「どうだった?別にどうってことなかっただろう?」 彼女が風呂から出て部屋に引き上げると、先に布団に入っていた汐田が話しかけてきた。 彼の母親は、由紀乃が風呂に行っている間に客間に布団を敷いてくれていた。もちろん、シングルを2組だ。 「ええ。でもちょっと……」 何も聞かれなかったことはありがたかったが、逆にそれが彼女には居心地悪く感じられた。多分汐田からいろいろと聞かされているはずだが、彼女を責めることも諌めることもなかった彼の家族の気遣いに対して申し訳なく思ったのだ。 「なぁ、由紀乃。君が家庭的に……家族に恵まれなかったことは知っている。でも、だからと言って俺たちの子供にその考えをそのまま背負わせる必要はないんじゃないのか」 今日ここに来て感じたこと。 それは、汐田の家庭がごくごく普通の家族だったということだ。 由紀乃にとって、友人の家で垣間見た家族団らんの光景は、一種の憧れだった。その理想を具現化したような彼の家族たち。 これが汐田の「家族」に対する考えの根本にあるのだということが理解できたような気がする。しかし、その中に自分がすんなり入れるかと聞かれれば、彼女には自信がなかった。 「もう少し待って」 「だが、赤ん坊が生まれるのは待ってくれないんだぞ。できるだけ早くに決めないと」 「わかってるわ。でもまだ決心がつかないの」 そう言った由紀乃の方に、隣の布団から腕が伸びてくる。 「即断即決の得意な君にしては時間がかかるな。まぁいい。俺は君の心が決まるのを待つしかないんだから」 頬を撫でる彼の手に彼女が自分の手を重ねる。 「ねぇ、そっちに……行ってもいい?」 汐田は小さく笑うと、自分の布団を捲って敷布団をぽんぽんと叩いた。 「どうぞ」 おずおずと隣に移った由紀乃の体に、彼の腕がそっと回される。 「あと半年か。待ち遠しいな」 眠りに落ちる刹那、耳元で囁いた彼の声は彼女を優しく夢の中へと誘っていったのだった。 HOME |