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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 5



翌日の土曜日。
体調が好転しない由紀乃にトーストと紅茶という簡単な朝食を食べさせると、汐田は自宅に戻って行った。
やっと一人でゆっくり寝られると思ったのも束の間、夕方になると彼は自家用車で由紀乃のマンションに戻ってきたのだ。それも大量の荷物を持って。

「一体何をする気?」
出迎えた彼女が目を剥くのも構わず何度か車と部屋を往復し、すぐに玄関は彼の私物で一杯になった。
「当分、ここから会社に通うつもりだ」
「ここからって、そんなこと……」
「こうでもしないと君の様子を常時確認できないだろう?」
「でも」
「こっちのマンションに連れて行こうとしたのに、君がそれを拒否したんだから仕方がない。素直に来れば俺だってこんなことはしなかったさ」
「だからって……」
「俺の荷物はこっちの部屋でいいか?」
当惑する彼女をよそに、汐田は強引に空いている和室に次々とダンボール箱やカバーの掛かったスーツを運び込んだ。
それらが粗方片付いた後で、汐田は彼女を呼ぶと、リビングのソファに座らせた。そして自分も向かいに腰を下ろして、封筒から1枚の用紙を取り出す。

「これにサインしてくれ」
テーブルの上に広げられたものを見た由紀乃は顔をこわばらせた。
「何?これ」
「見れば分かるだろう?婚姻届だ」
彼の記入欄にはすでに署名捺印がされていた。なんと手回し良く、証人の欄まで記名、捺印がされている。もちろん、彼女の方はすべて空欄になっているが、そこさえ埋めればすぐにでも届が出せる状態だ。
「いつの間にこんなものを」
「さっき役所に行ってもらってきた。休日でも対応してくれるからね」
当たり前だと言わんばかりの言いぐさで目の前に突き付けられた用紙を、由紀乃は彼の方に押し戻した。
「急にそんなこと言われても無理よ。大体こんなこと、無茶苦茶過ぎると思わない?」
「何でだ?生まれて来る子供のためにも、両親がそろっていた方がいいに決まっているじゃないか」
「だからって……両親として子供を一緒に育てるだけなら、何もこんな風に結婚する必要はないでしょう?」
彼女のその言葉に、汐田は苛立ちを抑えきれない様子で言い募った。
「いや、ある。その子は俺の子供だ。それが分かっているのに、なんで普通の子供と同じ環境を与えてやれないんだ?婚姻関係のある父親と母親の間に生まれて、同じ屋根の下で皆が一緒に暮らす。それが家族ってものじゃないのか?大体俺たちは互いに独身で、一緒になるのになんの不都合もない。それなのに子供ができて、この期に及んでなぜ結婚できないのか、俺にはその方が余程理解できない」

何となく嫌な予感はしていた。それは彼があまりにも淡々とこのことを受け止めたように見えたからだ。
彼女は汐田という男が、昔からどれほど責任感や義務感の強い、一本木な性質の男だったのかということを失念していた。
もっと驚くなり悩むなり怒るなり、否定的な反応があってしかるべしともいえる場面で、汐田は一切迷いを見せることなくお腹の中の子供の存在を認めた。しかし、それは単に冷静だったのではなく、彼の中の常識では相手が妊娠したら、結婚するのが当たり前で、由紀乃も当然それに従うだろうという図式が出来上がっていたからだ。
確かに無責任に「そんな子供は知らない」とか、「自分の子供じゃない」と言われるよりはマシかもしれない。だが、妊娠イコール結婚という単純な思考で押し切られることには抵抗があった。

「私は一人でこの子を産んで育てるつりよ」
「どういうことだ?未婚のままで母親になる気か?」
「そう。結婚なんてする気はないわ。私の母親のように、いつ裏切られるのかなんて考えて、びくびくしながら暮らしていくのは真っ平御免よ。男なんていつも身勝手で我侭で、自分のことしか考えない。あなただって身に覚えがあるでしょう?」
それを聞いて黙り込んだ汐田を見て、由紀乃ははっとして気まずそうに唇を噛んだ。
「ごめんなさい……言い過ぎたわ」

彼女の結婚に対する強い嫌悪感は今に始まったことではなく、自分の父親によって、幼いころから刷り込まれたものが大きい。
由紀乃にとっての父親は、母親を悲しませるだけの忌むべき存在だった。結婚というものがどういうものかを知る以前に、不仲な夫婦の間に生じる軋みを見ながら成長した彼女は、心のどこかで結婚そのものに対して懐疑的な考えを持っていた。
だが、彼女も一度は幸せを夢に見た時があった。
もしかしたら、自分は母親とは全く違う道を歩めるのではないか、そう考えたこともある。その相手が目の前の汐田だった。

しかしあの時は、彼女が自らその幸せを手放した。
そして彼はその後すぐに別の女性と結婚する道を選んだ。それも、彼女には「終わった」「過去のことだ」とはっきり言っていた相手とよりを戻すという形で。
自分から別れを切り出した以上、それを責めることはでいきないと分かっている。だが、見ず知らずの人ならまだしも、由紀乃と別れてすぐに彼が選んだのが元カノだと知った時の衝撃は大きかった。
結局汐田にとって自分との付き合いはその程度の重みしかなかったのだと思い知らされた。文字通り、身も心も捧げた相手から受けた仕打ちは彼女の男性に対する信頼をことごとく打ち崩してしまったのだ。

男なんて、所詮そんなもの。

だから由紀乃は今まで結婚をしようとは思わなかった。
付き合った男性からいくらそれを仄めかされても、軽く受け流し続けたし、それでもしつこく言い寄ってくる相手はすぐにこちらから切り捨てた。
これからも、そのスタンスを変えずに生きていくつもりだったのに、汐田の子供を身ごもったことで、こんな退っ引きならない事態に追い込まれるとは。

「だが、どうやって子供を養って行く気だ?」
険しい表情のまま、彼がこちらを見ている。
「もちろん私が働くわ。家だって、こうしてここにあるんだし」
「会社には?どう言うつもりだ?」
それが一番の問題かもしれない。
子供の父親の名前を伏せることは可能かもしれないが、人の口に戸は鎖せない以上、どこからかそのことが漏れてしまう可能性は捨てきれない。そうなった場合、立場的に、女の自分の方が分が悪くなることは間違いないだろう。
「隠せるなら隠し通すわ。もしバレたら……その時はその時よ」
「そんなことできるわけがないだろう。第一、俺はその子を扶養する義務があるんだ。名前だって自分の名字を名乗らせたい。それで君の子供が『汐田』ってことになれば、すぐに周囲に知れてしまうにきまっているだろう」
「だから名前は私のものを名乗らせます。そうしたら少なくとも母親と子供が別姓という事態は避けられるのよ」
「俺は絶対にそんなことは認めないからな」
頑なな由紀乃の様子に、汐田もいつもの冷静さを失いかけている。
「とにかく、この用紙はお返しします。同意できませんから。それと、会社には言わないで、絶対に」
最後にそう釘を刺した由紀乃は、婚姻届を元のように畳むと汐田に返した。

「仕方がない。君が落ち着くまではしばらく待つことにしよう」
彼は大きなため息をつくと、渋々それを受け取り再び封筒にしまった。

しばらくではなく、これからもそれに署名することはないだろう。
そんな複雑な思いで、由紀乃はそれを見つめていた。



汐田が彼女のマンションに転がり込んで2週間が過ぎた。
由紀乃の悪阻はまだ重いままだが、それでも何とか自分が食べられそうなものを選んで口に入れるように心掛けていた。
その日も、昼に食べようとヨーグルトと野菜ジュースを持って来ていた彼女は、社内の休憩スペースで同じ部署の同僚たちと一緒にテーブルを囲んでいた。

「係長、お昼ごはん、それだけですか?」
六嶋の愚痴を聞きながらそれらを少しずつ口に運んでいた由紀乃を、萌が不思議そうに見ていた。
「あ、ええ。ちょっと体調が悪くてね。あまり食べたくないのよ」
そう答えながら、無理やりもう一口とスプーンですくったヨーグルトを口に入れた。
「そういえば係長、あのビアガーデンの日も、貧血で倒れそうになったんですよね。長引いているみたいですけど、大丈夫ですか?」
尾藤に心配そうに聞かれ、彼女は少し無理をして笑って見せた。
「夏バテかもしれないわね。雨が多くて、ちょっと蒸し暑かったから。さすがにアラフォーの体には堪えるわ」
そうだ、自分はもうアラフォーなのだと思うと、自分で言いながらちょっとへこんだ。
この年になって初めて悪阻の洗礼を受けた由紀乃の体重はどんどん減り続け、ついに医者に栄養指導の指示を受けてしまった。
いくら気を付けても、こればかりは自分の努力ではどうにもならないことだ。

「でも、汐田部長、本当にこんな突拍子もない話を信じているんですかねぇ?」
早妃子のちょっと信じられないという口調に、思わず苦笑いする。実際の汐田と仕事中の彼はかなり印象が違うのだから無理もない。
「まぁ、あの人ならそう思うかもしれないわね。男の責任とかに煩いし、あれで結構古風な考えの持ち主なのよ。それにあの年でも結婚に憧れているというか、幸せな家族に憧れているというか」
「へぇ〜汐田部長がですか?何かちょっとイメージが違うかも」
萌のような若い子から見れば、彼はお気楽な独身主義者のように映っているらしい。
「でもだったらどうして結婚……というか再婚なさらないんでしょうね。私的には、魅力的ないい人だと思うんですが」
早妃子のように、結婚に憧れを持っている女性ならば、素直にそう考えられるのだろうか。
そんなひねくれた自分の心が痛くて苦しい。

「さてね……どうしてかしらね」

独り言のようにそう呟いた由紀乃を気遣わしげに見ていた美幸が、この時すでに妊娠に気づいていたのだと聞かされたのは、のちに彼女がトラブルに見舞われた時だった。




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