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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 4



流し台に身体を預けて俯いたまま、ぐったりした様子の由紀乃を見下ろしていた汐田は、側にあったテ−ブルの下から椅子を引き出すと、床に座り込んだ彼女を掛けさせた。

「病院には?」
彼女は頷いた。
「行ったわ。検査もしてもらった。そこで間違いなく妊娠しているって」
「それで、予定日は?」
「2月の20日頃」
「そうか……」

それだけ聞くと、汐田は屈みこんで視線を合わせてきた。
「その様子だと今夜は何も食べていないんだろう?何か食べられそうなものはあるのか?簡単なものなら作るけど」
由紀乃は椅子の背にもたれながら首を振った。
「いらない。食べたらすぐに吐きそう」
「でも、何か胃に入れておかないと、酷くなるんじゃないのか?悪阻って」
「そんなこと、良く知ってるのね。雑誌とかを読むとそうみたい。でも、実際になった人を間近で見たことがないから」
同僚や友人たちの中にも、妊娠中は悪阻がひどくて大変だった人がいたという話は聞いた。ただ、その症状まで詳しく聞くことはなかったし、大体自分には一生関係ないと思っていたのだから、そんなものなのかと軽く聞き流してしまったのは仕方がないだろう。
子供を宿すということが、これほど急激に体力を奪うものだとは。わが身に降りかかって初めて実感した辛さだった。

「20年近く前になるかな、妹が妊娠中、悪阻が重くてね。動けなくなってうちの家に……実家に戻ってきたんだけど、もう具合が悪いなんてもんじゃなかった。見ていた俺まで一緒につられ吐きしたほどだった」
思い出すのも苦しそうに、彼は身震いした。
「その時おふくろが妹に食べさせていたんだ。ビスケットとかカステラみたいなものとか、薄く切った食パンとか。そんなものは買い置きしてないのか?」
「あ、クラッカーとゼリーなら帰りがけにコンビニで……」
「ああ、玄関にあった袋の中だな。ちょっと待っていなさい、すぐに取ってくるから」
そう言うと、彼女を残したまま、汐田はドアの向こうへと消えた。

「はぁ……」
由紀乃は椅子の背に顎を載せて、ため息をついた。こういう形で彼に知られてしまったことは想定外だが、思っていた以上に冷静な汐田の反応にちょっと拍子抜けしたくらいだ。
彼のことだから後々責任を取るとは言い出すだろうが、この調子だと考えていたよりも楽な結論が導き出せるかもしれない。
そう思うと彼女は安堵の表情を浮かべた。

由紀乃は汐田が生まれてくる子供の親権を争うと言い出すのではないかと怯えていた。
彼も現在は独身で妻子はいない。だからそちらの方と揉めて話がややこしくなる可能性はないが、その分彼自身が自分の子供を手元に置きたがるのではないかと心配していたのだ。
自分が働きながら育てていくから養育費は必要ない。だが、子供の将来のために認知だけはしてほしい。
勝手な願いだが、彼女とて、出生届の父親の欄を空白にしておきたくはない。ただでさえシングルの母親から生まれてくるというハンデがあるのに、その上父親が誰だか分からないなどということになれば、子供に対して一生それを負い目に感じながら生きていかなければならないだろう。


「由紀乃?ほら、これだろう」
戻ってきた彼の手に、コンビニの袋が下げられていた。
「でもこれはちょっと、すぐには食べられないんじゃないのか?」
帰宅時に玄関に放り出したまま放置されていたゼリーは、この暑さで溶けてどろどろになっていた。
「まだこっちのプリンの方がましかな……いや、こっちも無理だ」
大して変わらないくらい形の亡くなったプリンの容器を持ち上げて揺らす。
「クラッカーならあるが」
「今は乾いたものを口に入れたくないわ」
吐いたばかりで口から喉にかけての違和感が大きく、これ以上水分を吸い取られそうなものは危険な気がした。
「他に何か食べられそうなものはないか」
独り言を呟きながら、彼が冷蔵庫の扉を上から順に開けて中を確かめている。
「ここのところあんまり食べていないのか?」
空に近い庫内を見た汐田が振り返って彼女を見た。
「食べたくても食べられなくて。ううん、食べたいと思っても、いざそれを見ると食欲がなくなるって言う方が正解かも。買い物に行っても、お惣菜や魚みたいに匂いがある場所には近づけないし」
「うーん、そうか。おっ、これなんか食べられるんじゃないか?」
彼が取り出したのは、かなり前に買ってきて野菜室に入れたまま忘れてたりんごだった。皮を剥いてそのまま渡されるのかと思っていたが、予想に反して彼はそのりんごをすりおろしてペースト状にしてから彼女に差し出した。
「これだと食べやすいだろう。消化もいいし。もし吐きたくなっても、出すのが楽だと思うよ」

恐る恐る口に運んだスプーンから、喉に落ちる果汁がおいしく感じた。
何かを味わいながら飲み込むことがこんなに贅沢なことだとは、妊娠するまで思ってもみなかった。
「どうだ?」
「うん、多分大丈夫そう。ありがとう」
お礼の言葉が素直に口から出て来たのに自分でも驚いた。
「あんまり無理はしないことだ。もう自分だけの体ではないんだから」
そう言われて、改めて自分が二人分の命に責任を負っていることを実感する。
「俺もできる限りフォローはする。だから体には充分気を付けてくれよ」



それから汐田に促されるまま、彼女は軽くシャワーを浴びてからベッドに入った。帰宅した時に掛けたままのエアコンが効きすぎて、少し肌寒いくらいだったが、それでも胃が落ち着いたのと汗や汚れを流せたことで気分は良くなっていた。
今夜は彼もここに泊まるつもりのようで、置いてある下着やパジャマを持って浴室に向かった。
ただ、同じベッドに寝るのは由紀乃の睡眠に差し支えるということで、隣に来客用の布団を敷き、そこで休むという。

ここ数日の疲れがたまっていたこともあって、うとうとし始めた頃、寝室の戸が開き、彼が入ってきたのがおぼろげな記憶の中にある。その時彼がこちらに向かって何かを言ったことは分かったが、それが何だったのか、彼女は覚えていない。
ただ、眠りに落ちながらもこうして誰かがそばにいてくれることの心強さとありがたさを感じるとともに、これに甘えて一人になった時に困らないように、自分を戒めることは忘れなかった。




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