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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 3



彼女と汐田が出会ったのはもう15年以上も前になる。
大学を卒業した由紀乃は、家からぎりぎり通える場所にあったこの会社に就職した。本当は関西の方にあった別の会社に行きたかったのだが、家庭の事情でやむなくここに入ったのだ。

入社してすぐに配属されたのは、営業部だった。
当時はまだ営業推進部はなく、一つの部で5つの課を擁する大所帯だった。その中の一課長だったのが汐田圭吾だ。
彼女は新人として指導員である汐田の下につき、営業の基本的な知識からノウハウを、それこそ名刺交換の仕方から、営業先での座る場所や立ち位置といったこまごまとしたことまで、徹底して基礎を教え込まれた。
その時汐田はすでに33歳。
大学を出たばかりの由紀乃の目には、彼が包容力のある、大人の男性と映ったのは確かだ。

社内外で行動を共にする機会が多かった二人は、いつしかプライベートでも恋人同士になっていった。最初にモーションを掛けてきたのは汐田の方で、異性慣れしていない由紀乃が、何となくうまく丸め込まれたような形で彼との交際が始まった。
由紀乃にとって、汐田は初めての男性だ。キスをしたのも、体を許したのも、彼が初めてだった。
社会に出たばかりの未熟な彼女にとって、汐田はすべてにおいて至上の存在であり、公私ともに頼りになる年上の恋人だった。
もしかしたら自分はこのまま彼と結婚することになるのかもしれない。その時、自分の幸せに舞い上がっていた彼女はそんなことさえ思っていた。

だが、彼には社内でいろいろな噂があった。
その一つが、彼より2年後輩の女性社員との交際話だった。
由紀乃にとって、その女性は8年も先輩になり、当時所属していた部も違ったことから直接何かをされたことはなかったが、それでも自分を牽制するような動きがあり、良くない噂も立ったことは事実だ。
そのことを汐田に直接問いただしたところ「彼女との付き合いは、もうすでに終わっている」とはっきり否定し、それを女性社員本人にも直接告げたことで、社内の噂は一時的に鎮静化したのだが……


彼女が入社して2年が経とうかという3月。
汐田に九州支社への転勤の話が持ち上がった。
支社長としての赴任。35歳と言う年齢からしても、前例がないほどの大抜擢で、栄転だった。

入社して半年が経った時点で、すでに由紀乃は汐田の下を離れ、営業として完全に独り立ちしていた。
彼は自分の持っていた顧客の半分を彼女に渡し、それからは新規の開拓を重点的に行うようになった。そしてまた、翌春には新たな新入社員の指導に当たる。
このサイクルで彼が叩き上げた新人たちは、由紀乃も含めてほぼ全員、間違いなく営業成績を上げ、結果を残していった。
その腕を見込まれた汐田が、成績の振るわない社員の育成と新たな販売ルートの拡充をすべく、不振に喘いでいた九州支社へと赴くことになったのだ。

「仕事を、会社を辞めて、一緒に九州に行ってくれないか」
内示が出た日、汐田に呼び出された由紀乃は彼からそう告げられた。
期待していたプロポーズのはすだった。だが、その時彼女は即答を避けた。
というのも、彼女の母親の病が悪化し、予断を許さない状況に陥っていたからだ。
元はと言えば、彼女が就職先に家から通えるこの会社を選んだのも、それが最大の理由だった。両親の離婚後、母親に引き取られた由紀乃は、女手一つでここまで育てられた。その母が癌の告知を受けたのは、彼女がまだ大学生だった時だ。母親自身がどれだけ拒もうとも、入退院を繰り返す彼女の世話をする人間が側についている必要がある。現に今も彼女の母親は都内の病院に入院していた。
そのことを、汐田も知ってはずだ。だが、それでもあえて彼は由紀乃に決断を迫ったのだ。

そして、
「ごめんなさい。私はあなたについていくことはできない」
それが、彼女が出した結論だった。

母親に話せば一緒に行けと言われるに決まっている。だが、彼女には母親の側を離れることを躊躇う気持ちの他に、自身が仕事を辞められない理由もあった。
それは、今まで母親に掛かった高額な医療費の問題だ。
度重なる入院や手術、それに伴う付帯費用で、当時の彼女は多額の負債を抱えていた。母親の入っていた保険は保障が薄く、とてもそれら全部をカバーできるものではなかったためだ。
もちろん、母親にはそのことは教えていない。
少なく見積もってもあと数年は自分が働かないと、それらの借金をすべて返済することはできなかった。

汐田に言えば、多分彼はそれを肩代わりしてくれると言い出すだろう。しかし、身内でもない彼に、自分の母親の医療費で作った借金を払わせることは、彼女にはできなかったのだ。


彼はぎりぎりまで由紀乃の返事が覆ることを期待していたようだが、彼女は最後まで、彼の誘いに頷くことはなかった。
こうして気まずい雰囲気のまま、いよいよ汐田が九州に向かう日が来てしまった。

同僚たちに餞の言葉を送られながら搭乗口に向かう汐田を、由紀乃は部下の一人として見送った。皆がいたその場では、泣くことさえできず、最後に汐田と握手した手の温もりが消えた時、彼女はこれで完全に彼との関係が切れたことを実感した。



それからひと月もしないうちに、件の先輩……例の汐田と付き合っていたと噂された女性社員が退職した。噂によると、彼女は仕事を辞めてまで、九州に行った汐田を追いかけたそうだ。
そしてしばらく後、汐田が追いかけてきた彼女とよりを戻し、結婚したと聞いた。
考えてみれば彼も36歳。単身での九州生活が長くなると見込んで早めに手を打ったのかもしれないが、由紀乃にはショックだった。
あれだけ強く否定していたのに、人の心はこんなに簡単に覆るものなのだということを見せつけられたようだった。
結局二人の進むべき道は違ったのだと、彼女は無理やり自分を納得させた。そして、自分はもう二度と男性に依存する生き方はしないと心に誓ったのだ。

由紀乃の母は、それから2年もしないうちに亡くなった。母親がいなくなった自宅を出て、通勤に便利なアパートで彼女が一人暮らしをし始めたのもその頃からだ。
そして6年前、それまでの借金をほぼ返済し終えた彼女は、実家を売却してこのマンションを手に入れた。一生ここで、一人で生活する覚悟で。

しかし運命は皮肉なもので、5年前、彼がこちらに戻ってきた。それも本社営業部長という栄転での転勤だった。
この時汐田は43歳、由紀乃は33歳になっていた。

驚いたことに、戻ってきた彼は妻と離婚していた。
どうしても折り合いが悪く、5年ほどで破局したのだと聞いた時には、本当に吃驚した。プライベートなことだからということで、本社の中でも扶養手当や健康保険の解除等、さまざまな手続きが必要になる総務以外には何も伝えていなかったからだ。

当時由紀乃は営業部の業務課主任で、係長に昇格後、来季に新設される業務グループのリーダーとなることが内示されていた。勤続10年を超える中堅のベテラン社員としての彼女は、社内では押しも押されもしないポジションに収まっていた。

営業部、及び営業推進部の統括部長となった汐田と、営業部業務グループの係長になった由紀乃。
再び上司と部下という間柄に戻った二人だが、すぐによりを戻したわけではない。
許す、許さないという種のものではないが、蟠るものがあったし、8年と言う年月はそれほど簡単に埋められるものではなかったからだ。
正直なところ、彼女の中にかなりの葛藤があったし、多分それは汐田も同じだっただろう。
それでもまだ、互いに思いあっていたことが伝わると、熾きになっていたはずの炭が炎を吹き返すように、二人の関係は再び燃え上がってしまった。
ただ、以前と違うところと言えば、彼女が彼を盲目的に崇拝するのを止めたことと、この付き合いに深入りしないように注意深くなったことだ。
だから彼女は自分の城の合鍵を決して彼には渡さなかった。
テリトリーを守り、もし何かあった時には後腐れなく関係を断てるように。

仕事があり家があれば、よほどのことでもない限りは一人でいても問題ない。だからこそ、汐田と別れたあとに付き合った幾人かの男性とも敢えてそういった話はしなかった。
束縛しない代わりに束縛されない。
それが彼女がこれまでの経験の中で、決めたスタンスだった。
それを踏まえて、たとえ相手がだれであっても、彼女はこの先結婚するつもりはなかったし、彼にもそれを伝えてあった。
汐田も一度由紀乃との別れを経験し、一時的とはいえ自分は他の女性と結婚もしていたという負い目があるのか、それ以上彼女に強く出ることはなく、体だけの関係がずるずると3年以上も続いている。
そして現在、二人は妊娠という退っ引きならない事態に陥ることになってしまったというわけだ。


「由紀乃、どうなんだ?何とか言ってくれないか」
焦れたように、汐田が再度返事を促す。
そんな彼の様子に、もはや言い逃れはできないと悟った彼女は、唇を噛みしめながら、小さく頷いた。
「ええ、妊娠しているわ……あなたの子供をね」




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