chapterW 「Sugar」 な彼女 2
クリニックで処方された薬を服用しても、なかなか体調は良くならなかった。 それどころか早くも悪阻のような症状が出始めたせいで、むしろ受診前より具合が悪くなったように感じられるくらいだった。 貧血も相変わらず続いていて素早い動きがし辛くなったため、急に気分が悪くなってもトイレに駆け込むタイミングがぎりぎりでやっと間に合うという体たらくだ。 悪阻は、話には聞いていたが、とにかくありとあらゆる匂いがダメになった。 タバコの煙や部屋にこもった匂いを始めとして、化粧品や香水、芳香剤、果ては香りつきの消臭剤まで受け付けなくなってしまった。 食べ物では、お肉を焼くに匂いや揚げ物の油の匂い。ご飯が炊けるときの蒸気も気分が悪くなるし、コーヒーやココアも香りのせいで口にできなくなった。そんなこんなで食べられるものが極端に少なくなってしまい、しまいには、スーパーの広告に載っている赤っぽいお肉や、ギラギラしたひかりもののお魚を見ただけでも吐き気をもよおすような始末で、何度かクリニックで栄養剤の点滴のお世話になってしまったほどだ。 7月の初旬、社内でボーナスが出たこともあり、社員会主催でビアガーデンに繰り出すことになったらしいが、自分には気分的にも体力的にとてもそんな余裕はなかった。 「ええ?係長は、参加されないんですかぁ?」 今年入社したばかりの新入社員である萌が出欠を聞いて回っていたが、もちろん欠席を告げた。 「ええ、ごめんなさいね。ちょっとここのところ胃の調子が悪くて」 何人かの同僚に聞かれた際に使った言い訳をここでも言う。 それはそうだろう、気分が悪そうに口を押えながらトイレに駆け込むなんて、考えてみれば普通の健康状態ではないことは明らかだ。 もっと若い子なら「妊娠?」と噂されるところかもしれないが、幸か不幸か皆、由紀乃にはそういったことは起こりえないと思っているらしい。 本当に胃炎くらいだったら、何も悩むことはないんだけど。 そう思いながら、何とかその日一日をやり過ごした彼女は、これからビアガーデンに繰り出すという同僚たちに別れを告げると、そのまま自宅に戻った。 「う、あ、また……来た」 帰りのバスに乗っている間は何とか我慢していた吐き気が、玄関のドアを開けた途端にこみ上げてきた。 靴を脱ぐのもそこそこに、廊下に駆け上がると、由紀乃は一直線に目指したトイレに飛び込む。 これで本当に吐いてしまえたら楽になるはずなのに、ここ数日満足に食事をとっていない彼女の胃には吐くものさえ残っていないようだった。 トイレの床にしゃがみこみ、胃液が出るまで空嘔吐きして、ようやく少し気分の悪さが収まった。滲んだ涙をトイレットペーパーで拭き、やっとの思いで立ち上がった彼女は、ふらふらしながら洗面所に向かい、顔を洗って口を濯いだ。 「こんなこと、いつまで続くのかしら」 キッチンでコップに注いだ水を飲み干すと、彼女はため息をつく。 先日、クリニックを受診した時に、子供を産む決意を医師に伝えた。ずっと迷い、悩み続けた末に出した答えだ。 ただ、彼に伝えることについてはまだ保留にしたまま、決心がつかなかった。会社に残るにしても、辞めるにしても、いずれは話さなければならない時期が来るだろう。だが、今はまだ、自分自身の考えが整理できておらず、話をどう切り出したらよいのかも分からない。 やっと胃が落ち着いたところでふらつきながら寝室に向かい、ベッドに倒れ込む。 その途中で玄関に放り出してあったカバンと白いビニール袋が目に入ったが、そこまで行って片づける気力さえなかった。バスに乗る前に、悪阻を抑えようとコンビニで買っておいたクラッカーやゼリー、それにプリンなどが袋からはみ出しているのが見えたが、とてもではないが今は何も食べられそうにない。 「今夜はもう寝よう」 妊娠を周囲に告げていない今の状況では、よほど体調が悪くならない限り、仕事を休むことは難しい。それなのに、栄養を取れない体は疲弊しやすく、日に日に体力を奪われていくのを感じるが、自分ではどうすることもできない。 何だか疲れた。。。 スーツを着替えることもせず、電気を消すのも億劫に感じた彼女は、そのまま上掛けに潜り込むと、泥のように眠ったのだった。 「由紀乃」 誰かが自分の肩を揺さぶっている。 誰? 私疲れているの。もう少し眠りたいのに、起こさないでよ。 そんなことを思いながら肩を掴む手を振り払おうとした彼女は、はっとして目を覚ました。 目の前の時計はまだ12時を少し過ぎたところだ。 こんな真夜中に、彼女の元を訪れるような男性はただ一人。 「……圭吾?」 ベッドに横たわる彼女を心配そうに見下ろしていたのは、営業部の上司、汐田圭吾だった。 「こんな時間にどうしたの?どうやって中に……」 「『どうしたの』じゃないだろう?飲み会には参加していないし、何かあったのかと何度も携帯に連絡を入れたのにまったく出ないし。心配になって来てみたら、玄関の鍵が開いていて、上り口に荷物が散乱していた。これでは慌てない方が嘘だろう」 そういえば帰ってきた時は気分が悪くてトイレに飛び込むのが精いっぱいで、ドアに鍵を掛けた覚えがない。だから彼は勝手に中に入ってくることができたのか。 彼にはこのマンションの合鍵を渡していない。汐田がくれるといった彼の部屋の鍵もいらないと受け取らなかった。 二人は互いの住居を行き来する関係でありながら、相手の部屋の合鍵をもっていないのだ。 「風邪かな。熱はないみたいだが。念のため薬を飲んでおくか?」 彼女の額に手を当てた汐田が、首をかしげる。 「大丈夫。ちょっと具合が悪かっただけよ」 「それにしてはちょっと様子が……」 その時、顔に近づいてきた彼のスーツから漂う、あの飲み屋独特の酒とたばこと油っぽさが入り混じった饐えた匂いが彼女の鼻を突いた。 「ぐっ」 ベッドの側に膝立ちになっていた彼の体を押し退けると、由紀乃は口を押えて廊下に飛び出す。 「由紀乃?」 トイレの戸を開けるのさえ間に合いそうになく、彼女はキッチンのシンクに屈みこんでそのまま嘔吐し続けた。 途中から、汐田が背中を擦ってくれていたが、それさえも鬱陶しく感じてしまう。こんな姿を人目に晒すことは屈辱以外のなにものでもない。とにかく今は誰の助けも要らないから、一人にしてほしかった。 一通り水分と胃液を吐き出し、楽になった由紀乃は、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。 汐田が差し出してくれたコップから水を一口二口飲むと、そのまま流し台に体を預けるようにもたれかかる。 そんな彼女を見下ろしながら、汐田が思い詰めたような顔をしていた。 「由紀乃、隠さずに本当のことを言ってくれ。もしかして君……」 HOME |