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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 番外編



年明け、由紀乃は汐田と入籍して、晴れて汐田由紀乃となった。
途中8年ほどのブランクはあるものの、由紀乃にしてみれば15年もの付き合いがあるのに今さら改まって、という感じが無きにしも非ずだったが、それでも彼女が汐田と戸籍上の関係を持つことに踏み切ったのにはそれなりの理由があった。

「立ち会いができない?」
7か月目に入った頃、由紀乃は検診で医師からその事実を聞かされた。
彼女が出産の予約を入れているクリニックは、希望すれば出産時に立ち合いが可能だ。だが、それは妊婦の配偶者と子供に限られるとのことだった。
「一応例外措置もあることはあるのよ」
しかしそれは出産時に付き添う親族、母親や姉妹がほとんどで、その場合は1人まで。それ以外の立ち会いは厳しく制限されていた。
どうやら過去に常識のない親族が大勢分娩室に押し掛けてきて、医師や助産師の動きの妨げになったことがあったらしい。そこで、やむなく今では入室できる人間を極力制限しているのだと聞かされた。
「一つ例外を認めるとどんどん線引きがうやむやになってしまうから、厳しいようだけどこういう決まりにしているの」

家に帰ってそのことを告げると、分娩に立ち会うつもりになっていた汐田は少しがっかりした顔をしたが、それでも仕方がないと言ってくれた。
だが、事態は思わぬ方向に動いた。
その後胎盤の位置が下がったまま動かなかった彼女は、経腟分娩ではかなりの出血が予想されるため、帝王切開での出産を勧められたのだ。
そうなると今度は同意書云々の問題が発生してくる。それは彼女自身、母親の手術時に何度も経験していたことだ。
特に由紀乃は近いところには親族がおらず、ここで頼りになるのは汐田だけだ。
だが、今のままでは彼は子供の父親であっても彼女の配偶者とは認められず、急を要することに対応できない可能性が出て来た。
それにもしも分娩中の由紀乃の何かあったら、彼女に関する判断ができる人間が誰も側にいない事態にもなりかねない。そして万が一にも、自分の身に不慮の出来事が起った時、子供は母親を失ったまま、宙ぶらりんの形で一人取り残されてしまうかもしれなかった。
もちろん、汐田はできるだけのことはしてくれるだろうし、その尽力を惜しむことは絶対にないだろう。しかしそれでもまだ大丈夫だと決めてかかるには絶対的な何かが足りなかった。
由紀乃は、今まで何でも自分のことは自分の裁量でやれば十分だと思ってきた。成果も懲罰も自分がしたことに対する結果の現れであり、それを甘んじて受けることを当然のことと考えていたからだ。
だが、殊子供のことに関しては、それだけでは済まないことが、徐々に実感として彼女にも理解できるようになってきた。
前回倒れた時のように、彼女の誤った行動が子供の命にかかわる問題に直結している可能性だってある。そう考えると自分本位で、一人ですべてを決めていくことがたまらなく恐ろしくなった。
それは自分の中にありながら自分ではない存在、子供という一人の人間に対する親としての責任の自覚でもあったかもしれない。

そこまで掘り下げて考えた時、結婚などする必要はないというちっぽけな意地を張り続けることに疑念を覚えるようになった。自分の立ち位置を守ろうとするあまり、もしもの時に身動きが取れなくなってしまったら、誰が彼女を、そして生まれて来る子供を守ってくれるというのか。
自分ひとりのことならば、彼女はこれほどまでに考え込むことはなかっただろう。しかし子供のことが絡んでくると、途端に迷いが大きくなる。結局、何かある前にできるだけのことをしておきたい、否、しておかなければならないという思いが彼女の逡巡を打ち負かした。

「君がそうしてもよいと言うのなら、俺としては異存はないよ。子供のためにも生まれる前どころか、できればすぐにでもそうしたいと思っていたんだから」
彼女の提案に、彼は一も二もなく賛成した。
それを聞いた由紀乃はほっとする反面、自分でも理解できない物足りなさを感じた。ここのところずっと、彼との話は常にお腹の中の子供のことが中心だ。このくらい妊娠月数が進み、出産が間近になってきた両親の間ではそれが普通なのだろうが、たまには男と女として、愛の言葉の一つも囁いてほしいという我侭な気持ちも心のどこかにあることは否めなかった。

自分が結婚を否定し、ここまでずるずる引き伸ばしてきたというのに、それでも彼が「子供のために」というのを聞くと心がざわつくなんて、なんて身勝手なんだろう、私……

そんな思いが表情に出たのを見られてしまったのか、突然汐田は彼女を抱き寄せると自分の膝の上に座らせた。驚いた由紀乃は思わずバランスを崩しそうになり、彼の肩にしがみつく。
こんなことをされるのは、妊娠が判明して以来初めてかもしれない。今では眠る時さえ別々で、汐田は彼女のベッドの側に折りたためるクッションタイプのウレタンベッドを持ち込んでいるくらいなのだ。
「誤解するなよ」
彼は、お腹が邪魔をしてうまく寄り添うことができない彼女の体を支えて横向きにする。何とか彼の膝の上に落ち着いた由紀乃だが、妊娠前よりかなりどっしりと大きくなった自分のお尻や突き出したお腹が何となく気恥ずかしく、彼の顔を見ることができなかった。
「もちろん今は子供のことが大事だ。それは君も同じだろう?だから同意した、違うかい?」
由紀乃は俯いたまま、小さく頷いた。
「そうだな、たとえ紙切れ一枚のことでも、これがあるのとないのとではすべてが違ってくる。例えば、あまり考えたくないことだが、もし俺が突然死んだりしたら……」
「もう、そんなこと言わないでよ」
「だから例えば、だよ。君たちに残せるものは今よりもずっと多くなるはずだ。これから先どうしたら君を……君たちを守ることができるのか、最近はそんなことを考えることが増えたよ。一人の時にはそんなことを思うこともなかったけどね」
彼は由紀乃のお腹に手を乗せると、緩やかな小山をそっと撫でた。
「でも結婚したいと思うのは子供のためだけじゃない。前にも言ったことだが、君と一生一緒にいたいからだ。だからそれを誓う何か特別な絆が欲しいんだよ」
そう言うと、汐田は彼女をゆっくりとその場に下ろし、自分も立ち上がった。
「由紀乃、結婚してくれ。これからもずっと、側にいて欲しい。愛してるんだ君のことを」
彼女が見上げた汐田の目は少し潤んでいて、顔もちょっぴり赤く染まっていた。
「な、何?改まって」
「一度きちんとプロポーズしておきたかったんだ。馴れ合いとか、成り行きじゃなくて、ちゃんと自分が望んで得たものだっていう意思表示を、ね」
「急にそんなこと言われると、びっくりしちゃうじゃない……の」
そう言って笑おうとした由紀乃だが上手く笑顔が作れなかった。その代わりにぽろぽろと涙が零れてくる。
「返事をくれるかい?」
汐田の指先で頬を拭われた彼女は、口元をわななかせると小さく鼻をすすった。
「はい」
そう一言だけ告げると、由紀乃は彼の胸に顔を埋めてわっと泣き始めた。
「ほらほら、そんなに泣くなよ」
汐田は困ったような顔をして腕の中でゆっくりと彼女を揺らす。
「しっ、仕方がない、でしょう?に、妊娠中は、ホルモンの関係で、涙もろくなることがあるって、雑誌にも書いて……」
「分かった分かった、ホルモンのせいだな」
しゃくりあげながらもムキになって答える由紀乃を宥めるように彼が背中をぽんぽんと叩いた。
「本当に意地っ張りだな、君は。まぁいいさ。今は何でもみんな妊娠のせいにしておけよ」
「う、嘘じゃないって。本当に雑誌に」
「はいはい」
「その言い方、し、失礼だわ」
「そうか?」
むくれて腕から逃れようともがく由紀乃に向かって笑うと、汐田は一層強く彼女を抱きすくめる。するとお腹の中から蹴られた振動が彼にも伝わってきた。
「ほら赤ちゃんも同じことを思ってるのよ」
「そうか?俺には『自分のせいにするな』って抗議しているみたいに感じるんだが」
「そんなことありません」
「ふーん」
「もうっ、知らない」



その週末、二人は一緒に指輪を買いに出かけた。
彼女とお揃いならば自分もマリッジリングをつけると彼が言い出したからだ。
そして週明けに二人そろって会社に妊娠と入籍の予定を報告し、晴れて子供の父親と母親という関係を公にした。
もちろん、それまでも周囲は彼女の妊娠に気づいていたし、父親が誰なのかもおおよその見当はついていた。だが、由紀乃自身が頑なにそれを言わなかったため、部下たちはもとより社内の誰も、彼女に祝福の言葉を掛けることができなかったのだ。
「係長、おめでとうございますぅ」
萌はなぜか目に涙を浮かべてお祝いを述べていた。まるで自分が妊娠したかのような感激ぶりに、早妃子が苦笑いしている。
「良かったです。係長が産休に入られるまでに、みんなにちゃんと伝えることができて」
早くから事実を知っていた早妃子はほっとした様子だし、美幸はやはりと納得していた。
聞けば、由紀乃が最初にクリニックを受診した時、すでにその姿を美幸に見られていたのだそうだ。


こうして12月に入り時々休みを取りながらぎりぎりまで勤めを続けた由紀乃は、年末をもって産前休暇に入った。
調子は悪くないが、やはり出産は帝王切開をすることに決まり、年明けから大事を取って入院、経過観察をすることになった。
そして由紀乃は2月4日に女の子を出産し、その後母子一緒に無事退院することができた。
折しもその日はバレンタイン。
会社ではきっとチョコレートが飛び交っていることだろうが、もちろん汐田は休みを取り妻子を迎えに行っていた。

「ごめんなさい、今年はチョコレートの用意ができなかったわ」
ひと月以上の入院で、それどころではなかった由紀乃は、自宅に戻ると汐田に詫びた。
「いいよ、別に。それよりも君からはもっといいものをもらったからね」
まだ何となくおっかなびっくりという手つきで子供を抱きながら、汐田が言う。
「これ以上甘くてかわいくて、嬉しいものはないさ。ありがとう、最高のプレゼントだ」
少し横になるという由紀乃に微笑むと彼はそのまま子供を連れてリビングの方へと向かう。その後ろ姿を見送る彼女もまた、心からの微笑みを浮かべていたのだった。



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