chapterW 「Sugar」 な彼女 10
「あの時、俺は絶対に君が一緒に……九州に来るものだと決めてかかっていた。だから行った先の家もファミリー向けの賃貸マンションを探してもらっていたんだ」 だが、結局由紀乃は来なかった。 汐田は気落ちしたが、思っていた以上に仕事が多忙を極め、次第にそれどころではなくなってきた。 「朝から晩まで仕事漬け。休みもほとんど取れなかったなぁ」 昼間の不摂生ばかりではなく、夜は夜で連夜の接待。東京にいた頃よりも格段に酒を飲む機会が増えた。 そんな状況が体に良いわけがなく、体調が悪い日が続いたがそれでも生活態度を改めようとはしなかった。 「少々ヤケを起こしかけていたんだな。もう自分には仕事しかないって思い込んで。ここに来たからには絶対に業績を伸ばしてやるっていう意地もあったし」 そんな時、以前付き合っていた女性が突然目の前に現れたのだ。 汐田のマンションまで押しかけてきた彼女は、なんだかんだと理由をつけてそこに居座り、そこから何となく奇妙な同棲生活が始まる。 それでも勿論最初は関係を持たなかったし、そんな気はまったくなかった。だが、仕事を終えて深夜に帰宅しても誰かが自分を迎えてくれる、そんな生活に段々と慣れてくると、安易な考えだがそれでもいいかという気になってきた。 彼だって疲れて帰った時に誰もいない真っ暗な家に入るのは嫌だったのだ。もっと言えば家族が待っている家に帰りたかった。特に知り合いがほとんどいない赴任地では、そんな思いが余計に強く感じられたのは事実だろう。 そんな彼の心の隙間に、彼女の存在が上手く入り込んだのかもしれない。 そうして追い払うこともできないまま、ずるずると同居を続けていたが、結局半年後に籍を入れた。もしかしたら彼女と正式に一緒になることで家庭を持てるのではないかという期待もあったし、そこには彼自身、一人でいることへの寂しさや物足りなさを結婚という形で補えるのならば、という打算も確かにあった。 今振り返ってみても、自分の気持ちの問題以外、元の妻の側に大きな落ち度はなかったと思う。 だが、仕事は増々忙しくなる一方で、月の半分は出張という生活が続いた。自宅には寝に帰るようなもので、ほとんど夫婦でゆっくり過ごすこともできなかった。 そんな状況では妻も子供をもつことに消極的で、とにかく東京に帰ってから考えようの一点張り。汐田としても自分が家にいられない後ろめたさもあって、それ以上無理強いはできなかった。 「おまけに最初は3年と言っていた任期が、どんどん延びて、4年5年となっていくにつれて、彼女は段々あっちでの生活を嫌がるようになった」 汐田も元妻も東京生まれの東京育ち。 九州には旅行に来たことがあるくらいで、ほとんど縁がない。仕事で交際範囲を広げていった汐田に対して、職を持たず、子供もいなかった元妻は家からほとんど出ることがなかったという。 寂しかったというのは確かだろう。彼自身もその気持ちは理解できた。だがどんなに元妻がそれを望んでも、こちらに仕事を持つ汐田にはどうすることもできなかった。 そういった些細なことでの諍いが頻繁になり、結局赴任地での生活に馴染めなかった妻とは結婚5年目で破局、離婚することになった。その時点でもまだ、汐田はいつ本社に帰れるという見通しは立っておらず、最後の数年はまた一人暮らしの生活に戻った。 ただ、赴任したての頃と違うのは、その時の彼は、かの地にしっかりと根を下ろしていたことだ。それに業績を右肩上がりにしてきたことに誇りを持ち、思う存分仕事だけに打ち込み、やればやるだけの結果が叩き出せることが何より面白かった。 その上、もう年齢も四十を過ぎて落ち着いていたし、むしろ一人の方が気楽に過ごせると思えるようにもなっていた。 こうして元妻と離婚してから数年後、汐田は九州支店の業績大躍進という土産を引っ提げて、晴れて東京に凱旋してきた。それも四十代前半での本社部長職抜擢という、かなりの大栄転だった。 「もうこっちに戻っても仕事があればいいとさえ思っていたんだ、最初はね。結婚も、一度でたくさんかなぁと」 だが、本社に戻ってきて、まだ独身のままの由紀乃を再び見た時、それは誤魔化しだと気付いた。どれだけ年を経ても、諦めきれない彼女への思いは汐田の心の中で燻ったまま、消えてしまうことはなかったのだと。 「しかし君はまったくそんな素振りはみせないし、これからも結婚をする気はまったくないと言い切った。結婚には夢を持たないとね。俺としては、そこまで言われるとどうしようもなかったさ。一度は君を手放したばかりか、他の女性と一緒になったんだから、そのことに弁解の余地はない」 そうしてまた、由紀乃と付き合うようになって数年。彼女を求めつつも、一緒にいられるならそれで我慢するしかないのかと、半ば諦めていた。取りつく島もないほど、由紀乃は頑なな態度を崩さなかったし、彼も自分に弱みがある以上強硬な手段に打って出ることに躊躇いがあったからだ。 「正直に言ってしまえば、もし子供ができなかったら、多分一生結婚を口にすることはなかっただろう。俺にはそんなことをする権利もないしな」 そう言って汐田は、枕でくしゃくしゃになった彼女の髪の毛を撫で付けると苦々しく笑った。 「だがこうなった以上、俺はもう君と子供の両方とも手放す気はない。だけど昔のように、ただすべてを俺の都合が良いように従わせようとは思わないし、また君もそんなことはさせてくれないだろう?だから……もし君がどうしても結婚を拒むというのであればそれを受け入れよう」 その言葉に、由紀乃は戸惑いの表情を浮かべて彼を見上げた。 「ただ、生まれて来る子供のために必要なこと、一番良いと思うことをしたいという気持ちは変わらない。だからお互いに、譲れるところは譲り合って一緒にその子を育てていければ、それ以上は望まない」 「でもそんなことをして、あなたの立場は……」 「事実婚とでもただの同棲とでも、言いたい奴には好きに言わせておけばいい。ただ、子供の名字の問題だけは、生まれる前に結論を出しておきたいところだけどね」 「この子のためにそんな……」 彼女の声に迷いを聞き取った汐田は、ふっと息を吐き出した。 「誤解しないでくれ、子供のためだけじゃない。これは君と俺のためでもあるんだよ。いかに君の希望を押さえつけることなく共に人生を歩んでいくか。それを大事にしようと思うと、自ずとそうなってくるだろう。 でも本音を言えば、君をちゃんとした戸籍上の、世間から認められる伴侶として迎えたいという気持ちは今も変わらないんだけどな」 ここまで彼が譲歩するとは思ってもみなかった由紀乃の気持ちは大きく揺れた。 「俺には君が良かった……いや、君でなければダメだったという方が正しいか。あれから15年が経ったけど、この気持ちは揺るがなかった。だから俺は待てる。君がいつか俺を伴侶と認めてくれるまで、このまま辛抱するよ」 「圭吾……」 「ただし、墓の中に入るまでには何とかしてくれ」 「もうそんな縁起でもない」 しかめっ面をした由紀乃に、汐田が微笑んだ。 「分かっているだろうけど、そんなに先のことじゃないんだぞ。俺はもう50前なんだ。よく生きても残りあと30年あるかどうかってところなんじゃないかな。ただ、せめてその子が大人になるまでは何としても頑張りたいと思っている」 「そうね、何せあなたのお兄さんのお孫さんと同い年になるんだから」 「それを言うなって。兄貴にも散々言われたんだから」 頭を掻きながら、汐田が小さく唸る。 「そうよ、できるだけ、子供の父親として長生きしてもらわないと。それに私のパートナーとしても……ね」 翌日には退院した由紀乃は、それからしばらく自宅で養生した後に再び職場に戻ってきた。その後は周囲の協力もあって無事に勤めきり、12月の末から、有給を加算して少し早目の産前休暇に入った。 予定通り、彼女の仕事の大半は早妃子が、そして早妃子の仕事は萌と美幸が折半して引き受けるよう予め流れを組み替えてあった。そして来春にも新たに業務の人員を増やすことが、社内の上層部で了承されている。 「しばらくは大変だと思うけど、お願いね」 9ヶ月目に入ろうかという大きなお腹を抱えた由紀乃が、仕事納めを終えた早妃子たちに見送られながら会社を後にする。 このまま産前産後、そして育児休暇に入る彼女はしばらくの間このビルともお別れだ。 「係長、元気な赤ちゃんを産んでくださいね。戻って来られるのをみんなで待ってますから」 萌にそう言われた由紀乃は、にっこり笑うと大きく頷いた。 「ありがとう。きっと帰ってくるから、それまでよろしくね」 「はい。お任せ下さいっ」 「……ってメグ、そのくらい仕事も気合入れて頑張って欲しいものだわね」 「うへぇ先輩、その言い方ヒドイですぅ」 そのいつも通りの掛け合いに、由紀乃も後ろにいた美幸にも思わず笑みがこぼれる。 「みんな、頼んだわよ」 「はい。お戻りをお待ちしています、係長」 「それじゃぁ、そろそろ行こうか」 後から追いついてきた汐田と一緒にビルを出る由紀乃に、皆が手を振る。 「良いお年を」 「みんなもね」 「あーあ、行っちゃった、係長。何か急に寂しくなった気がしますぅ」 萌は後姿が消えた方をいつまでも名残惜しそうに見ている。 早妃子はそんな彼女の背中をばしっと叩くと豪快に笑った。 「そんなにしょぼくれなくても、係長は絶対戻って来られるって。それよりあなた、年明けからもっと忙しくなるんだから覚悟しときなさいよ」 「ふぇえ、これ以上ですか?勘弁してくださいよぉ」 本気で涙目になり、早妃子の腕に縋りながら萌が懇願する。 「甘いっ!」 「まぁまぁ、そう言わなくても。ところで係長のお祝い、皆さんどうされます?」 美幸の言葉に、じゃれ合っていた二人が同時に振り返る。 「そうねぇ、早めにしないとすぐに出産祝いが来ちゃうわよねぇ」 「もういっそのこと、入籍祝いと出産祝い一緒にまとめてしちゃったらどうでしょう?紙おむつ1年分とか」 「メグ、それじゃ何かの優勝賞品みたいじゃない」 「そうですかぁ?良い案だと思うんですけど」 「却下」 「ええーっ」 不満そうな萌を宥めつつ、美幸が提案する。 「まぁ、2月の出産までに一度、お祝いがてら遊びに行かせてもらってもよいか、汐田部長にうかがってみましょうか。それまでに何かみんなで考えたらいいと思いますけど」 「そうね、『汐田家』に突撃して、あの部長のデレデレのダンナっぷりを拝見するのもいいかもね」 「ちょっと楽しみですぅ」 「はっくしょん」 大きなくしゃみをした汐田は、「風邪かなぁ」と言いつつ、首にマフラーを巻きなおした。 「気を付けてね。今寝込むと大変よ」 「ああ、君にうつすといけないしな」 由紀乃は急に立ち止まると今一度、通ってきた道を感慨深げに振り返った。 「もう当分ここを歩くこともないわね」 入社以来、通い慣れた道だったが、こことも暫しのお別れだ。そして次に自分がここを歩くとき、彼女は「佐東由紀乃」から「汐田由紀乃」になっているはずだ。 「年明けに、一緒に婚姻届を出しに行こう。それが来年の事始めになるな。それから再来月には出生届も出しに行くだろうし、何度か役所に通うことになりそうだ。さて、これから忙しくなるぞ」 「その前に、今年の大掃除はよろしくね」 「ああ、任せておけ」 「本当に?」 「……多分な」 そんな他愛もない会話をしながら並んで歩く二人の指には、互いのために買って交換した真新しいマリッジリングが光っていた。 HOME |