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My ☆ Sugar Babe

chapterW  「Sugar」 な彼女 1



自分はもう38歳。
若い女性に比べて年齢的な受胎能力を考えても、そんなに簡単に妊娠するとは思っていなかった。それに時期的に、安全な時期との際どいタイミングだったが多分大丈夫だろうと勝手に思い込んでしまったのだ。

たった一度の交渉でも、子供ができないという保証などどこにもないのに。

その上、相手が40代後半というのも「妊娠する確率は低い」という根拠のない慢心の一因だった。
冷静に考えてみたら分かったはずだ。
昔から男性は、50歳、60歳になっても性交渉が可能なら子供を持つことはできた。昨今では医学の進歩もあって、男性だけでなく女性も高齢出産……たとえば40代に入ってから子供を産むことが、昔ほど難しいことではなくなった。
それを鑑みると、自分の年齢を受胎適齢期のピークを過ぎたなどと安易に考えてはいけなかったのだ。

自分は、何て無責任なことをしてしまったのか。

由紀乃はのろのろと立ち上がると、リビングへと向かった。
煌々と照らす明かりが、頭痛がする今は目に痛い。
照明を少し落として、ソファに沈み込んだ彼女は、こめかみを擦りながら深いため息をついた。
帰宅した時のままにカバンと上着が投げ出された食卓。見る気もないのに、習慣でつけたテレビ。それらすべてが昨日と変わらないのに、僅か一日ですべてが変わってしまったように思える。
好みに合うように誂えた自分の城は、もはや彼女に安らぎをもたらしてくれる場所にはならなかった。

6年前、由紀乃は新築だったこのマンションを購入した。母が亡くなって以来、空き家になっていた自分の実家を処分したお金を元手にして買ったものだ。多分この先一生結婚することはないだろうと思っていたし、今の仕事を定年まで続けていくつもりで、30年という長いローンを組んだ。

だが、仮に彼女がシングルマザーになる決意をしたとして、とてもではないが、彼と毎日顔を合わせる職場にはいられない。周囲の目もあるだろうし、何より彼がどういう態度に出てくるか、それが分からないのは不安だった。
「どうしよう……」
よもやその時に、数年後、仕事を続けられるかどうかの事態に陥るとは思ってもいなかった。
もちろん、彼女が勤める会社には法に基いた規定で産休や育休の制度がある。
ただ、問題なのは周りからの反応だった。
未婚のまま子供を産めば、今まで苦労して培ってきた仕事に対する評判や自身に対する評価が下がるのは間違いないだろう。それに運よく周囲の協力を取り付け、育休や産休が認められたとして、その間の収入の保障は期待できないし、長期の休職後に果たして同じ条件で職場復帰できるのかさえも分からない。もし生まれた子供の預け先が見つからず、退職などということに追い込まれれば、忽ち生活状況は悪化する。
このマンションにしても、今のところの月々の払いはそんなに大変な額ではないが、それでも仕事を辞め、収入がなくなるとなると支払うのは難しくなる。
ローンはあと24年以上残っている。今すぐに売りに出しても買い手がつくかどうか分からないし、売れたとしてもこのご時世、残債が残る可能性だってあるのだ。

「ごめん、自分勝手なことばかり考えて」
由紀乃はお腹に置いた手をぎゅっと握りしめた。
子供を産むことに対して、マイナスの要素ばかりを探してしまう自分に嫌気がさす。
この子だって本当はもっと普通の恵まれた母親から生まれたかったに違いない。
平凡な家庭でよい。両親がいて、望まれてこの世に生まれてくることができるだけで、きっとその子供は幸せだろう。

「とにかく、一度産婦人科に行って、それから考えないとね」
今の時点では産むとも産まないとも決められなかった。ただ、自分の中に、彼の子供がいることだけは紛れもない事実だった。
本来ならば、彼に話をして一緒に考えるべきなのかもしれない。
だが、由紀乃にはどうしてもそれができなかった。

15年前の、あの一件さえなかったら……



その週末の土曜日。
彼女は自宅から少し離れたウイメンズクリニックを受診した。
いろいろと情報を探して、できるだけ評判の良い医師がいる病院をと考えたからだ。
もしも産まない選択をするならば、できるだけ早くその決断をしなければならないし、産むとなれば出産までかかれる病院を見つけておかなければならない。
今まではまったく縁のなかった情報を拾っていくにつれて、考えていた以上に、特に自分のような高齢で初産の女性の妊娠出産というのは難事なのだということに改めて気づかされた。


受付でもらった初診票に病歴やアレルギーの有無にチェックを入れ、最後に最終月経を書き込む。
待合で名前を呼ばれた後、採尿を済ませ、廊下で待たされている間、由紀乃は見るともなく壁に貼られたポスターや写真を眺めていた。
まだこんな感じなんだろうなぁ。
自分で計算してみた週数を当てはめて、胎児の大きさを測る。それが少しずつ大きくなって、何となくそれらしい形になって、最後に人としてこの世に生まれる。
神秘的だと思う反面、自分の意思一つでそれを無に帰することが可能であるという現実が恐ろしくもあった。

「佐東さん、中へどうぞ」
看護師に呼ばれて診察室に入る。
中にいたのは自分とあまり変わらないくらいの年齢と思われる女性の医師だった。
まず最初に検査の結果を伝えられる。
「妊娠反応が出ていますね。おめでたですよ」
それから隣りの部屋で初めて妊婦として内診を受けた。今までも健康診断で子宮がん検診の際に内診台に乗ったことはあったが、今回はそれとは少し感じが違った。時間もかかったし、丁寧に診察されたように思う。
その後、採血や他の検査も終わり、診察室で再び医師と向き合う。
「今、6週目から7週目くらいですね。出産予定日は2月の20日前後。ただ貧血が出ているので注意してください」
黙って頷く由紀乃の様子を見ていた医師は、最後にこう付け加えた。
「一応念のために伺います。出産の意思はありますか?」
その一言に、彼女はびくりと体を震わせた。
「失礼だとは思うけど、これは未婚既婚にかかわらずうかがっているの。特に未婚女性の場合、難しい選択を迫られることも多いのよ。せっかく授かったのにと言うのは簡単だけど、現実の問題として子供は産んだら責任を持って育てていかなければならないのだから」

「……少し考えさせてください」
そう答えるのが精一杯だった。
言われた通りに受付で次回の診察の予約を入れた由紀乃は、併設の調剤薬局に寄って処方された鉄剤や漢方薬を受け取ると帰りのバスに乗り込んだ。
次のバス停から乗ってきたお腹の大きな女性に席を譲ろうとして、ふと思った。
そういえば、自分も妊婦なのだと。
躊躇している間に他の人が立ち上がり、代わりにその女性を手招きするのが見えた。女性は大事そうにお腹に手を添えてゆっくり前に歩み寄ると、ふっくらとした顔に柔らかな笑みを浮かべて頭を下げた。座ってからも手でお腹を撫でながら、席を譲ってくれた女性となにやら話をしている。
その幸せそうな表情を見た由紀乃は、思わずその光景から目を逸らした。

私にもいつか、あんな風に大きくなったお腹をさすりながら笑える日が来るのだろうか。

窓の外を流れる風景を見つめながら、由紀乃はぼんやりとそんなことを考えていた。




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