chapterV 「Petit Sweet」 な彼女 9
「……似ていたんです」 暫しの沈黙の後、美幸は重い口を開いた。 「あなたの声が……亡くなった夫の声にそっくりだった」 「ご主人の?」 「はい」 美幸は小さく答えると、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。 「あなたと出会ったあの雨の日は……主人の命日でした」 美幸の夫であった博人が亡くなったのは、今から4年前のことだ。死因はくも膜下出血。倒れて僅か3日後、薬石の効なくこの世を去った。 まだ28歳という若さだった。 二人の出会いは、彼が勤める会計事務所に美幸が入社したのがきっかけだった。家庭の事情で大学進学を断念して、アルバイトをしながら専門学校を卒業した彼女は、入社後すぐに博人のアシスタントとして彼の下に配属された。 一方博人はその前年に公認会計士の試験に合格したばかり。事務所の若手の中でもやり手と目され、その所以でますます多忙を極めていた。 担当する会社の監査が集中する時期は毎日残業が当たり前、下手をすれば午前様になる日もあったが、それでも新人の彼女が何とか乗り切れたのは、博人のフォローがあったからに他ならない。今思えば、自分よりも5歳年上の、頼りになる上司に彼女が惹かれていくのに、そう大して時間はかからなかった。 知り合って一年ちょっと、付き合うようになって半年ほどで二人は籍を入れ、一緒に暮らし始めた。 実家と疎遠な美幸と、早くに両親を亡くしていて近しい親族は兄がひとりだけという博人。家庭的に恵まれず、若くして自立する他なかった二人は、互いに身を寄せ合うようにして新たな生活をスタートさせたのだ。 さすがに夫婦で同じ職場には居辛くて、美幸はそれを機に、派遣会社に登録して派遣の仕事をするようになった。いずれ、子供ができたらすぐに仕事を辞めようと思いつつ、そこで短期の派遣を幾つか渡り歩いた。 だが、一年も経たないうちに博人が亡くなり、彼女はまた一人ぼっちになってしまった。母親の再婚相手と折り合いがよくない美幸は実家に戻ることもできず、以来ずっと夫が遺してくれたマンションで一人暮らしている。 「博人は……夫は私にとって唯一の『家(ホーム)』だったんです。どんなに辛いことがあっても、いつも彼は『大丈夫だよ』って、勇気づけてくれたし『よく頑張ったね』って励ましてくれた。主人を失った後も、記憶の中の彼の声があったから私は今まで生きることができたんです」 そんな博人の声とよく似た声を偶然聞いたのだ。それも彼の命日の夜に。 嘘でもよかった。偽りでも構わないと思った。博人にもう一度抱かれる喜びを感じ、再びあの温もりを我が物にできるのなら、その行いがどんなに卑しいものであろうとも、チャンスから目を背けることができなかったのだ。 「だからあなたを……あなたの声を彼の身代わりにした。自分の前にいるのが博人でないと分かっていたのに、どうしても私はそれを認めたくなかったんです。目を開けて、そこに誰がいるのかを知ることが怖かった。だって、一度でもあなたを見てしまえば、博人はもうどこにもいないんだって、認めてしまうことになるから」 「だから君は、僕に抱かれている間中、ずっと目を閉じたままだったというのか」 美幸は目を閉じて項垂れた。博人によく似た声と静かな口調で責められるのは大声で罵倒されるよりも辛い。 「でも、どんなに心を偽ってみても、あなたはあなたで彼とはまったく別の人だった。だから……」 「だからあの時部屋から姿を消したのか?」 彼女は俯いたまま小さく頷いた。 「何も言わずに、逃げるようにして?」 「怖かったんです。あなたが目を覚まして、私のことをどんな目で見るのかと思うと居た堪れなかった。それに、主人に似た声で私がしたことを蔑まれるのかと思うと、とても耐えられなかった」 その時ドアをノックする音が聞こえてきた。 榊はそちらに歩み寄るとトレーを受け取り、再びドアを閉める。 「あの部屋に傘を忘れたことに気付いたのはそれから少し経ってからのことでした。もしかしたら、ホテルのフロントに預けてあるかもしれないとは思ったのですが、問い合わせる勇気が出なくて」 目の前に置かれたカフェオレのボウルから立ち昇る湯気をぼんやりと見ながら、美幸は囁くように話し続けた。 「まさか貴方が傘を返すためだけに私を探しているなんて、思いもよらなかったし」 「いや、それはちょっと違う」 榊は自分のデミタスカップをテーブルに置くと、トレーを脇に退けた。 「傘は君を探し出すための手がかりに過ぎない。あの時君はこれ以外、何も残しては行かなかったからな」 「でも、あなた、傘を返したいからって……」 それを聞いた榊が苦笑いを浮かべる。 「口実に決まっているだろう。大の大人が本気でそんなことをすると思っているのか?」 「でも、だったらなぜ」 「君が欲しいと思ったから。それ以外に理由なんてない」 榊はこの厳しい業界で生き抜いていくために己の実力と直感のみを信じ、ここまで伸し上がってきた。その勘が、あの夜の女を探せと彼を駆り立てたのだ。 星を掴んで生まれてきたという女を、手中に収めるのは自分だと。 そう確信したからこそ、彼は一夜を共にした女の面影を探し続けた。 一年が過ぎても、ただ一つの手がかりである傘を手放さず、大事に持ち続けていたのは、いつか彼女に会えるという思いがあったからに他ならない。 「何で私なんかを?」 その言葉に、美幸は戸惑う。 名前と違って、人目を引くほど美しくもなければ、他人に幸せを分かてるほど良運を持ち合わせているわけでもない。そんな自分が彼のような人にそこまで求められる理由が、彼女には理解できなかった。 「強運の下に生まれたという君ならきっと、常に僕を幸運に導いてくれるからだ」 「そんなこと、唐突に言われても。それに買い被りが過ぎます。私は夫一人さえ、幸せにすることができなかったのに」 「彼は……亡くなった君のご主人はそんなに不幸だったのか?」 「だって」 「若くして命を落としたことは、確かに不運としか言いようがないかもしれない。だが、彼は君という伴侶を得て貴重な時間を一緒に過ごし、最後の瞬間までその女性を愛し愛されていた。それを不幸なんて言葉で簡単にくくってしまうのは、君に愛情を注いでいたご主人に対して失礼じゃないのか」 美幸ははっとしたような表情で彼の顔を見上げた。 「僕ならば、もし自分に何かあったとして、酷い言い方だけど、その時に恋人が悲しむことは吝かではないし、むしろ嬉しく思うかもしれない。僕にも男としてのプライドもあるし、それなりの束縛も厭わない性質だからね。 何かの拍子に二人で過ごした日々を懐かしむことだって悪いことじゃないとは思う。 だけど、自分が死んだあと、その女性が外に目を向けようとせず、いつまでも固い殻に閉じこもっているのを見たいとは思わない。ましてやそれが、自分のせいだと思うと、余計にそう感じるのではないか?」 「でも、私はもう……」 それでもなお躊躇いを見せる美幸に、榊は彼女の後ろに立って、両手で彼女の目を塞いだ。 「えっ?」 「なら、ちょっとだけ、こうしておこう。僕の声は君のご主人によく似ているそうだから」 目隠しされた美幸からは見えなかったが、彼は微笑を浮かべながら彼女の耳元に唇を寄せた。 「美幸、君が心から人と交わることを止めてしまったのを見るのは辛い。これから先、今までの何倍もの時間をこのまま一人ぼっちで生きていくつもりなのか?」 今自分の耳元で囁いているのは榊だ。分かっているのに、美幸は鳥肌がたっていた。 ずっと前から頭では理解していた博人の死。だが心はいつまでもそれを受けいれようとせず、その狭間で彼女はずっともがき、苦しんでいた。 毎月月命日にお墓に参り、墓石を撫でて彼の死を確かめておきながら、その場所に彼の存在を求めてしまう。他人が聞いたらばかばかしいと思うかもしれないが、そこに行けば彼に会っているように感じられた。だからこそ、暑くても寒くても、雨の日や雪の日だって、彼に会いに行っていたのだから。 『もうそろそろ前に進む頃合いだ。君にはまだやらなくてはならないことがあるだろう?』 不思議なことに、視界が閉ざされ真っ暗な世界の中で、榊の言葉が頭の中で少しずつ博人の声へと変わっていく。 「やらなくてはならないこと?」 『そう。これからの人生を、再び誰かと分かち合い、愛情ある家庭を作るんだ。まだ時間はたっぷりあるのだから』 「でも、そんなことをしたら、博人、あなたが消えてしまう……」 『過去を忘れ去る必要はない。心の中でいつでも思い出して懐かしむのもいい。ただ、過去に捕らわれて、そこで立ち止まってはいけないんだ。これから先も君にはまだ、長い人生が待っているんだから』 目を覆っていた手が外され、視界に再び明るさが戻ってくる。 だが、彼女の開いた目に映し出された風景は、なぜか緩やかに歪んで滲んでいた。 「私、泣いてるの?」 「ああ、そのようだな」 榊の指先が頬を撫で、零れた涙を拭った。 「泣けなかった……博人が死んでから、ずっと泣けなかったの。辛くても、悲しくても、どうしようもなく寂しくても、どうしてか、涙なんて出てこなかったのに」 「それはきっと、君がご主人の死というものを、本当の意味で納得していなかったからだろう」 だが、現実を受け入れた時、彼女は博人を悼むことを自分に許した。 それが今、頬を流れる涙となって彼女の中から溢れだしたのだ。 「きっとご主人も、残してきた君のことを心配しているんだよ。だからわざと自分の命日に、僕らを引き合わせたのかもしれない」 まったく都合の良い解釈だと笑おうとしたが、美幸はそのまま表情を崩し、その場で泣き崩れた。 そんな彼女をしっかり抱きとめた榊は、小さく息を吐き出すと心の中で呟いた。 そこにいるんでしょう?まったく、クサイ台詞を一杯吐いて恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。 でも、どうぞご心配なく。あなたの奥さんは……彼女は僕が引き受けますよ。ええ、それはもう、僕が毎日愛情をたっぷり注いで、寂しいなんて二度と言わせませんから。 その時彼の目には、テーブルの上に灯されていたキャンドルの炎が、少しだけ揺らいだように見えた。 数日後。 お昼休みに美幸が早妃子と萌に、何かを手渡していた。 「これは?」 「きゃー!これって」 二人が手にしたのは、なかなか手に入らないという「ル・ジャルダン」のクリスマス・ディナーのチケットだった。 「まだ少し早いけれど、榊さんが、お二人にって。それぞれペアだから、彼氏と一緒にどうぞ」 「こんなこと、気をつかわなくてもいいのに」 遠慮がちに言う早妃子と、 「嬉しいですぅ。カリスマ、見直しちゃいました」 すっかり舞い上がった萌。 「ということは、上手くいっているのね、彼と」 美幸ははにかむように微笑むと、しっかりと頷いた。 「まだ気持ちの整理がついていないから、お付き合いとかそういうのではないですが。少しずつ、ゆっくりと彼を知っていけたら良いなと思っています」 この前の日、美幸は月命日に、榊と一緒に博人の墓参りに行った。 美幸の後に墓石の前で手を合わせた榊が、長いこと博人に何かを話していたように思えたが、彼女は敢えて何も聞かなかったし、彼も何も言わなかった。 そして帰り際、いつもよりも優しい気持ちで博人に「また来る」と言えたことが、何より彼女には嬉しく感じられたのだった。 「あ、それじゃぁ佐東係長にも渡して来るから」 美幸は最後の一通を持って、佐東のところへ行こうとした。 「あ、佐東かか……」 呼びかけようとして、前を歩いていた佐東が引きずられるように開いていたドアの中に連れ込まれたのを見た美幸は、思わず息をのんだ。 というのもそれをしたのは、温厚で有名な 「汐田部長?」 あの部長がそんなことをするなんて信じられない。美幸は慌ててドアに駆け寄ったが、その向こうから何も物音は聞こえてこない。 どうしようかと迷った美幸だが、ここは会社だし、何より佐東も汐田も分別ある大人なのだから大丈夫だろうと、その場を立ち去ろうとした。 だがその時、ふと以前に目撃した「あの」ことが彼女の頭を過った。 もしかして、佐東係長って、汐田部長と……? 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