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My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 8



ダメ元で派遣会社に連絡してみたが、契約期間が満了するまでは何とか今の場所で仕事を続けて欲しいと言われた。それは美幸にも分かっていたことだ。
仮に自分が辞めたとして、次の要員に席を確保しておくためにも、派遣会社としては何とか契約の解除は避けたいところだろう。
美幸としても、業務チームが日々一杯一杯で回っていることを知っている手前、自分が放り出した仕事のしわ寄せがすべて同僚たちにいってしまうのは嫌だった。

どのみち、もう逃げられない……か。

家に帰ってからというもの、溜息交じりに何度も自分の携帯電話に榊の携帯番号を押してはクリアーを繰り返していた美幸だったが、遂に意を決して通話のボタンを押した。
『榊だ』
彼は2コール目で出た。
思ったよりも早く繋がったことで、どぎまぎした美幸は一瞬言葉に詰まる。
「あ、あの……」
『「いしはらみさち」さんですね』
「……はい」
榊の口調が明らかにほっとしたものに変わる。
『良かった。もう今夜は無理かと思った』
見れば、いつの間にか時計の針は11時半を回っている。
「あの、私……」
『君の傘を……ずっと預かっている傘を返したい』
「傘?」
『ああ。君があの時ホテルに忘れて行った傘だ』

美幸にも覚えがあった。あれは、自分が独身の時から使っていたお気に入りの折り畳み傘だ。いつもバッグに入れて持ち歩いていたが、気が付くと手元からなくなっていた。多分あの時、榊と過ごした部屋に置き忘れたのだとは思ったが、今さら取りに行けるはずもなく、もう返ってこないものだと諦めていたのだ。
「でしたら……」
「明日の夕方、君の仕事が終わる時間に、外で待っている。では、また明日」
「えっ、ちょっと待って……」
会社の受付にでも預けておいて欲しいと頼む前に、彼はそれだけ言うと一方的に電話を切ってしまった。
「もう、一体何なのよ」
美幸は必要以上に指に力を入れて通話を切ると、ソファーの上に携帯を投げ出した。
本音を言えば、まだ彼と正面から向かい合う決意ができていなかった。
博人を思わせる声をもう一度聞きたいという気持ちは強い。だが同時に、亡き夫に声は似ていても、まったく別人である榊という男性に接することが訳もなく怖かった。
もしもまた、彼を博人の身代わりにしてしまうようなことになったとしたら、果たして自分はその衝動を止めることができるだろうか。それを考えただけで憂鬱になってくる。
「明日の夕方、か」
予報では明日は一日曇り。夜から天気は崩れ、雨になるということだった。
思えば榊と出会った夜も雨だった。つくづく自分たちは雨に縁があるらしい。
―― 雨は嫌だな。
美幸は物憂げにそうに呟くと、リビングの窓から月の見えない淀んだ空を見上げた。


翌日、天気予報どおり、朝から曇り空で空気が肌寒く感じられた。
この様子では、夕方まで天気はもたないかもしれない。そう思いながらも、朝出掛ける時に彼女は傘を持たなかった。どうせ榊と会ってあの傘を返してもらえるのだから、帰りはそれを使えばよいと思ったからだ。

『外で待っている』という言葉に違わず、榊は会社の社員用通用口から少し離れた場所に車を止めて待っていた。
予想通り、雨はすでに降り始めている。
通用口で空を仰いで佇んでいた彼女を見つけると、彼が車をそこに寄せ、運転席から降りてきた。
「あの、傘を……」
「雨が降ってきた。とりあえず乗って」
少し強引に、美幸の腕を取ると助手席に押し込む。彼女が抗う間もなく、榊はすぐにその場から車を出した。
「どこに行くんですか?」
警戒するように身を固くしている彼女の様子を見た榊は、思わず苦笑いを浮かべる。
「心配しなくても、変なところには連れていかないさ。少し静かな場所で話がしたいだけだ」
彼はそれだけ言うと運転に集中するため前を向いてしまった。その顔を盗み見ながら、美幸は気持ちが沈んでいくのを感じる。

やっぱり彼は博人じゃない。まったく別の人。

もちろん、頭では理解していた。だが、彼女にしてみれば、夫によく似た声の持ち主が博人ではないという事実をこうして突きつけられることが、こんなに辛く切ないものだとは、改めて側で彼の声を聞くまで思わなかった。
「何か?」
自分をじっと見つめる視線に気づいた榊は、信号待ちで彼女に問いかけた。
「いえ……」
美幸は膝に置いたトートバッグに目を落とし、首を振る。榊はそんな彼女の様子をちらりと訝しげに見たが、それ以上何も言わなかった。

そうしている間に、車はある洒落た建物の駐車場に滑り込む。
「ここは?」
「僕の店だ」
車から降りると、その目の前に彼の店「ル・ジャルダン」があった。
榊に促され、一緒に店に入ると、二人はすぐに一番奥の個室になっているスペースに通される。
美幸は恐縮した。仕事帰りの彼女の格好は、ジャケットの下にセーター、下は着古したデニムのスカート、靴なんて、雨の日用の合皮のローファーだ。極め付けは肩から下げているトートバッグで、雑誌の付録についていたものだったりする。
そんな服装でこのような高級店に足を踏み入れた自分が、どう見ても場違いとしか思えなかった。
「どうぞ」
案内してきた店員に椅子を引かれ、彼女がおずおずとそこに座ると、榊はその向かいの席に着いた。
「何か飲み物を。シャンパンかワインがいいかな?」
「あの、私アルコールはあまり……」
「ならコーヒーでいい?私はエスプレッソを。君は?」
「あの、でしたら、カフェオレがあればそれを」
「かしこまりました」

店員が一礼して個室から出ていくと、榊は側にあったブリーフケースから彼女の傘を取り出した。
「あ、ありがとうございました」
美幸は差し出されたそれを受け取ろうとした。
「『いしはらみゆき』最初はそう読んだ」
榊は傘についたネームプレートを摘まむと、裏返っていたそれをひっくり返した。
「ほとんどの方はそう読まれます。もう慣れっこです」
彼女は微かに笑うと、手元に戻った傘を大事そうに自分のトートにしまう。
「だが、君は本当は『いしはらみさち』でも今も『びとうみさち』……ご主人亡きあとも、そのままなんだそうだね。彼が亡くなってから、もうかなり経つのか?」
彼は美幸の左手を取ると、まだマリッジリングがはまったままの薬指を見つめた。
「……ご存知なんですか」
「知らなかった。だからずっと『石原美幸』という女性を探していた。あの会社にいるだろうという目星をつけてからも。でも、誰も君のことを知らないというし」
「主人は……四年ほど前に。それからも仕事場ではずっと『尾藤』で通していましたから」
彼に取られた手を引こうとして、逆に指を絡め取られた美幸は思わずぴくりと体を震わせた。
「でも、なぜ、どうして私なんかを探そうとしたんですか?あんな行きずりのような……」
その後の言葉を上手く探せず、美幸は俯いた。
確かに二人は一夜を共にした。だが、互いに名も知らせず欲望のままに体を重ねただけのことを「出会い」というのも何か烏滸がましい。そう思うと、あまりに衝動的だったあの時の自分の行いを思い出して恥ずかしくなり、美幸はできることなら今すぐにでもここから逃げ出したい衝動に駆られる。
まるでそんな彼女の心を読むかのように、榊は繋いでいた手を離して席を立つと美幸のすぐ側まで歩み寄ってきた。
「そうだな、何でだろうな。強いて言うなら、どうしても君に聞きたいことがあったからか」
「聞きたいこと?」
頷く榊に、美幸は思わず身構えた。これ以上、彼は一体何を自分から聞き出そうというのだろうか。
そんな彼女の様子に気づきながらも、榊は躊躇うことなく問いかけてくる。

「一つ聞きたい。あの夜、なぜ君は最後まで、僕を一度も見ようとしなかったんだ?」




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