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My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 7



いつもと同じように更衣室で着替えをし、同僚たちに挨拶しながらいつもと同じ階段を下り、いつもと同じ社員用通用口のドアを出た……つもりだった。
「掴まえた」
「えっ?」
突然後ろから伸びてきた手に二の腕を掴まれた美幸は、思わず立ち止まり、振り返った。
「やっと見つけたぞ」
そこにいたのは、彼女が今一番会いたくないと思っている人物だった。
一年余り前、寂しさのあまり勢いで一夜を共にした、そしてつい数日前に街でばったり再会してしまった男だ。
だが、今では彼女も、名も知らなかった行きずりの男性が「ル・ジャルダン」のオーナーシェフ、榊大輔だということを知っている。
美幸は内心の動揺を隠して、平静を装った。
「放してください」
「嫌だね。君を見つけるために、どれだけ苦労したと思っているんだ」
「ひ、人違いです。私はあなたなんて……」
榊は腕を振りほどこうともがく彼女を引き寄せると、耳元で囁く。
「知らないと言い切るのか?あんな夜を過ごしておいて」
「そ、それは」
美幸は頬が赤くなるのを感じながらも、なお抵抗を続けていた。そんな彼女の右手を目の前に引き出すと、手のひらを上に向けて薄い印に口づける。
「ほら、これが証拠だ」
「や、止めてください。こんな人前で」
言い争う二人の様子を、側を通る人たちが奇異な目見ている。
「だったら君が逃げようとしなければいい。そうすればこっちも余計な手間を掛けずに済むからね」
そう言ってなお、榊は彼女の手を離そうとしない。
「いい加減にしてください。警備の人を呼びますよ」
「できるものならやればいい。なんだったらここで僕が二人の関係を叫んでもいいんだよ」
「……」
それでも無言で抵抗を続ける美幸は、自由になる左手で密着した体を引き剥がそうと彼の胸を突いた。
「この指輪は?君はもしかして……」
彼女の左手の薬指に光る細いリングを見た榊の表情が一瞬険しくなる。
その時だった。
「ちょっと待った〜」
二人の目が、開いたままのドアの向こう、廊下のはるか遠くから怒涛の勢いでこちらに向かってくる女性の姿を捉えた。それも一人ではなく、二人だ。
「尾藤さーん」
彼女の名前を叫びながら、早妃子を追い越しそうになっているのは、萌だ。
「尾藤?」
榊がえっという顔をしながら萌たちを見る。その一瞬の隙を衝いて美幸が彼の腕から自分の手を引き抜き、同僚たちの方に向かって駆け込んできた。
咄嗟に早妃子は彼女を背中に庇うと、ドアのところで榊の前に立ちふさがった。
「一体、こんなところで何をしているんですか?」
不信感も露わに、早妃子は榊に厳しい一瞥をくれる。
「君たちには関係ない。これは僕たちの問題だ」
「でも、彼女、明らかに嫌がっているじゃなの」
「関係?あります〜、大いにアリアリです。尾藤さんは同僚で友人なんですから、カリスマ不審者に拉致られたら大変ですっ」
早妃子の隣りに立った萌が、アヒル口で顎を突き出し、胸を張って主張する。
本人、至極真面目でかなり本気なのだが、見ている分にはどうにも笑えるポーズだ。
「メグ、カリスマ不審者って、それ……何よ?」
皆の注意が萌の方に逸れた瞬間、
「尾藤さん、逃げて」
早妃子が美幸を外へと押し出した。小さな声で「すみません」と呟くように言うと、彼女は一目散に歩道を走り去る。

「おいっ」
榊が後を追いかけようとするが、一瞬早く萌と早妃子にがっちりガードされ、両脇にぶら下がられた上、無理やりドアの内側へと引きずり込まれてしまった。

「さてと。説明していただきましょうかね、この状況を」



「忘れ物の、傘を……返そうとしただけだ」
女性二人に両脇を固められ、体育館の裏よろしくビルの非常階段の踊り場まで連れて来られた榊は、ぼそりと言った。
「傘を返すだけなら、そんなにしつこく迫らなくてもいいんじゃないですか?誰かに頼んでもいいんだし」
萌の言葉に彼はむっとした表情を浮かべながら、顔を背ける。
「石原という名の女など誰も知らないというから、直接本人に会って確かめたかった。それに聞きたいこともあったしね」
「石原?」
「尾藤さんの本名よ」
「えっ?尾藤さんって、偽名だったんですかぁ?」
「偽名なんて、人聞きの悪い。通称よ、通称。ご主人の名字が尾藤さんだったらしいわ」
「ご主人の名字が尾藤?って。それがなんで本名が石原さん?うーん、分からない」
萌はこんがらがった頭を指先でぐりぐりしながら呟いた。
「それは僕も聞きたいところだ」
すっかり二人のペースに巻き込まれ、半ば放置されかけて、苛立ちながら立っていた榊も口を挟んできた。
「尾藤さん、かなり前にご主人を亡くされているらしいのよ。だから戸籍上は旧姓の石原さんになっているけど、表向きの名前は尾藤を使い続けているんですって」
「ええー、尾藤さんって、あの若さで未亡人さんなんですか?」
「そのようね」
「あの儚そうな雰囲気も、優しいけどどこか陰のある寂しそうな表情も、亡き夫を一人忍んで過ごしているからなんでしょうか?」
「メグ……あなたどこでそんな昼メロみたいなフレーズ拾い集めて来たのよ?」
早妃子は呆れた顔で萌の額をぴしゃりと叩いた。
「いったーい。これ以上叩きすぎてデコが広くなったらどうするんですかぁ」
「このくらいじゃそんな心配ないって。それともデコが広がるくらいデコピンしてほしいとか」
「いえ。それは絶対ないです」
「あのな……」
二人のやり取りを側で聞いていた榊は、苛立ちと諦めが混じったため息をついた。
「漫才ならよそでやってくれ」
「これは漫才じゃないです。私の額の将来がかかった、かなり真剣な話し合いです」
早妃子はともかく、萌は本気らしい。
「とにかく、その手を離してくれないか。こっちはこれから彼女を追いかけないといけないんだ」
「このまま追いかけても、また逃げられるだけでしょう。家だって知らないでしょうし」
「だからと言って、せっかく見つけた彼女をみすみす逃すわけにはいかない」
「もしかして、もしかすると、あなた彼女のこと、好きなの?」
「……」
「ただ、傘を返したいという理由の割には、随分熱心だわね」
「あ、カリスマが赤くなった」
萌の指摘通り、榊の頬のあたりが赤く染まっているのを見た早妃子は、にんまりと笑った。
「ふーん、そっか。それならそうと早く言ってくれればいいのに。尾藤さん、今は一人だし、無茶な話ではないんだから。
分かったわ。一度だけチャンスを作ってあげる。ただし、彼女が本当に嫌だって言ったら、その時はすっぱり諦めてよ。しつこいのは一切なし。もちろん、無理やりなんて絶対ダメだからね。それでどう?」
榊は疑わしそうな目をしながら、何も言わずに提案する早妃子を見ている。
「とにかく、今日はこのままお引き取りください。ちゃんと彼女には話をしてみるから。心配しなくてもちゃんと本人から連絡させるわ。あなたがこんなことを続けるつもりなら、このまま放置しておくわけにはいかないでしょう?人の目もあるし」
確かにここはオフィス街で、人通りも多い。
こんな場所で、ただでさえ世間に顔の知られた「カリスマ」が女性と揉めているのを知られたら、ことが大きくなるだけだ。
「お分かりになったら連絡先を教えてくださる?会社ではなく、直接あなたに連絡が着くように」
「……分かった」
渋々と言った感じで内ポケットから名刺入れを取り出すと、彼は抜き出した一枚の裏にペンで何か書きつけている。
「これがプライベート用の携帯だ」
渡された名刺を自分のポケットに入れると、早妃子は萌を促して会社に戻ろうとする。
「明日の夜まで時間を頂くわ。連絡を待っていて」
そう言い残して一度は踵を返した早妃子だが、何かを思いついたように一人で引き返してきた。
「そうそう、それから一つ、大事なことを教えて差し上げます。尾藤さん……石原さんの名前は『みさち』よ。みゆきじゃないから、呼ぶときに間違えないよう気を付けてね」
「みさち?」
「そう。女性の名前を間違えるなんて、男としてサイアクだからね。それだけは忘れないで」
「みさち、いしはらみさち……か?」
それを聞いた早妃子は、肩を竦めてみせると、待っていた萌と共にビルの中に消えて行く。その後ろ姿を榊はただその場で見送る他なかった。



翌日、出社早々美幸は早妃子に休憩室に呼び出された。
「用件は大体見当がついていると思うけど」
早妃子はそう言うと、美幸に名刺を差し出した。
「これ、例のカリスマの携帯番号よ。今日中にあなたから直接連絡するって言ってあるから」
「でも、そんな私……」
「そうしないと、また待ち伏せされて、追いかけられるわよ。たまたま昨日は私たちが気付いたから良かったけど、誰も助けてくれなかったら、あなたどうするつもり?」
早妃子の言うことは尤もだ。
「一度、ちゃんと彼と話をしてみたら?互いに納得できればそれに越したことはないし。彼との間に何があったかは私は聞かない。でも、あの『カリスマ』が傘一本返すためだけに、あなたを待ち伏せしたなんて、考えられないわ」
そう言うと、早妃子は先に椅子から立ち上がった。
「何か心の中にもやもやがあるなら、彼に向き合って、さっさと吐き出してしまいなさい。でないと、前に向かって進めないでしょう?人生まだまだ先は長いんだから、ね」
美幸の肩をポンと叩くと、早妃子は休憩室を後にした。

正直なところ、早妃子も自分がしたお節介が本当に美幸のためになるかどうかは分からない。ただ、彼女が人との間に無意識に築いている壁を榊が崩そうとしているなら、彼にそのチャンスをあげても良いように思えた。
「なかなか難しいわね」
だが、自分の時のように、誰かがちょっとだけ力を貸してくれたら、それだけで初めの一歩を踏み出せることもある。
今はただ、美幸がそうしてくれることを願うばかりだった。




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