chapterV 「Petit Sweet」 な彼女 5
翌日、会社に一本の電話が入った。 受けたのは総務の女性社員だったので、美幸はそのことを知る由もなかったが、用件は会社の名前の入った封筒を拾ったので取りに来てほしいとのことだった。 ちょうどその時外を回っていた平岩が会社から連絡を受け、指示された場所に行ってみると、なぜかそのまま応接に通された。 「何かえらく仰々しいな」 平岩は出されたコーヒーを見ながら首をかしげる。 拾った郵便物を返すだけならば受付にでも預けておけば済むものを、わざわざ来客扱いでこんなところに招き入れるなんて、普通では考えられないことだ。 しかも、来て驚いたが、この会社はあの有名なフレンチのシェフ、榊大輔のオフィスだ。平岩も何度か彼の店に食事に行ったことがあるが、そこはかなりの人気店で、前もって予約を取っておかないと入れないという話だった。確か本店は今でも2、3ヶ月待ちは当たり前のはずだ。 「お待たせしました」 しばらくするとドアが開き、スーツ姿の男性が現れた。平岩は座っていたソファーから立ち上がると、軽く会釈で迎える。 うっわ〜驚いたぜ。本物の榊大輔だ。 目の前に立っているのは、お馴染みの「あの顔」だ。 なまじイケメンであるが故にテレビなどにも引っ張りだこのようだが、いつもクールに構えた彼は愛想笑いの一つもしないので有名だ。そこがまた媚びなくて良いと女性のファンがついているようだが、平岩には単に彼が嫌々ながらに人前に出ているように思えてならなかった。 「社長の榊と申します。わざわざご足労願い、恐縮です」 よくある営業的な名刺の交換をした後で、促されて再び腰を下ろす。 「いえ、こちらこそ、当社の者がお手数をお掛けしたようで、申し訳ありません」 そして差し出された封筒を受け取ると、一応確認してからそれをブリーフケースにしまった。 「ところで、御社は外国メーカーの工作機械の輸入代理店もなさっておられるようですが……」 榊は自分の前に置かれたコーヒーカップを手に取ると、徐に平岩に話しかけた。 「はい。海外の数社とライセンス契約をしておりますので」 「その中に厨房機器などは取り扱いがありますか?」 「はい。○○社製のものでしたら」 落し物を引き取るだけだと思っていたのに、突然の商談の気配に面くらった平岩は、内心の驚きを隠してそう答えた。 「実は現在新店舗の開店準備中なんですが、なかなかキッチンの手配がつきませんでね。仮に御社にお願いするとなると、どのくらいな金額で、最短納期はいつになるか、その試算をしていただきたく思いまして」 聞けば、オープンは年明けだという。 さすがに即答は避けたが、設置工事が必要なだけに、時間的に無理があるように思えた。 「かしこまりました。一度社に戻って至急見積もりを出させます。ただ、金額的にはある程度勉強させていただきますが、納期の点で、ちょっと難しいかなというところですので、それだけは……」 「分かりました。では、よろしくお願いします」 榊はそう言うと、事務の人間を呼んで仕様等の詳細を準備するように指示を出す。 渡された資料の入った封筒を手に、平岩が辞去しようとした時、不意に榊に呼び止められた。 「御社に……女性の社員さんで『石原』という方はおられませんか?」 唐突な質問に、平岩は思わず聞き返した。 「石原ですか?女性で?」 うーんと首を捻る平岩に、榊が畳み掛ける。 「ええ。『いしはらみゆき』という名前だと思うのですが」 「すみません、思い当る者に女性で石原という名字の者はいませんね。男なら50代の管理職に一人おりますが……」 「そうですか。いえ、突然こんなことをうかがって、失礼しました」 榊の少し落胆したような様子が気にかかったが、平岩はそのまま彼のオフィスを後にして会社に戻ってきた。 至急の案件だったので営業に振るのを止め、自分で資料を揃えて業務の早妃子に直接依頼に行く。 「早妃ちゃん」 「平岩君、会社でその呼び方止めなさいって何度も言っているでしょう。それで、何か用?」 「もう冷たいなぁ、早妃ちゃんってば。それじゃ用件を。これを至急でお願い。でき次第データをもらえる?紙を持って行く前に、こっちで先に送信するから」 「うーん、このメーカーだとアメリカだわね。下手をすれば試算だけで2、3時間はかかるかもよ。問い合わせしても時差があるし」 「了解。なるべく急いで」 「わかったわ」 早妃子に資料が入った封筒を渡した平岩は、そのまま営推に戻ろうとしてふと足を止めた。 「ねぇ、早妃ちゃん」 「だーかーらー、それ、止めろって言ってるでしょう」 半ば呆れた口調の早妃子は、資料から目を上げることもしない。 「早妃ちゃんはうちに『石原』って女の社員がいたって聞いたことがある?」 「石原?」 側で二人のやり取りを聞いていた美幸はびくりと体を震わせた。突然出てきたのが、自分の本名と同じだったからだ。 「さぁ、知らないわね。少なくとも、ここ10年の間にはいなかったと思うわよ。何?それがどうかしたの?」 「いや、それが今日行った先で……今早妃ちゃんが持っている資料の会社なんだけどね。そこで聞かれたんだ。そういう名前の女性社員がいないかって」 「ふうん、そう。でも多分勘違いね」 「やっぱり?じゃぁ、よろしく頼むわ」 「了解」 去っていく平岩を見送った美幸は、思わず早妃子に聞いてしまった。 「あの、それどこの会社ですか?」 「ああ、これ?うーん、やだっ、これ代表が榊って、あのカリスマシェフの榊大輔のところじゃない?ふーん、さすがに調理機材は高価なもの使っているのね」 それを聞いて、美幸はほっと胸をなでおろした。 シェフというなら、多分あの男の人ではないだろう。彼はどう見てもビジネスマンのようだった。 「あ、それじゃ、私ちょっと今日の分の郵便を取りに行ってきますね」 美幸が席を外すのと入れ替わりに、まだごほごほと咳をしている萌がお手洗いから戻ってきた。 「もう、こんなの苦しいから取ってもいいかなぁ。でも鼻水が止まらないし」 ちらりと外したマスクの下で、両方の鼻の穴にティッシュを詰めているのが見えた。 「メグ、悪いこと言わないから、そのままマスクをしておきなさい。その恰好、オトメの姿とは到底思えないから」 少々かわいそうだと思いながらも、早妃子は笑いを堪えきれない。 「ひどいですぅ、先輩。本当に息ができないんですよ」 陸上げされた魚のように、口をぱくぱくさせて空気を取り込んでいる姿に余計に笑いがこみ上げてくる。 「ほら、口で息をしていたら余分なことをしゃべらなくて済むでしょう?仕事が捗っていいんじゃない?」 「せんぱーい、ひどーい」 風邪のせいで目をうるうるさせた萌は、がっくり項垂れながらも早妃子の言うとおり仕事に励んだのだった。 翌週、やっと風邪もよくなった萌は、仕事を終えて一人会社を出ようとしていた。本当なら郷原と一緒に帰りたいところだが、予定がずれ込んだ彼はまだ会社に戻ってきていなかったからだ。 「君」 入口で男性に呼び止められた萌は、驚いた顔で立ち止まった。 「私ですか?」 「ああ。ちょっと聞きたいことがあるんが」 よく見ると、それは今日営業部に客として来ていた男性だった。確か「イケメンシェフが来た」とか言って、みんなが騒いでいた、あの人だ。 お茶当番だった萌は応接で彼に会ったが、「ふぅん」と思っただけで別段何もなかったのだが。 「この会社に『石原』という名前の女性がいるはずなんだが、知らないかい?」 「石原ですか?」 入社半年の萌は本社の中の人間ならばおおよそ見当がついたが、支店の社員となるとからっきし分からない。 「多分、いないと思いますよ。地方の支店なら分からないですけど。どのくらいのお年の方ですか?」 「大体20代半ばから30歳くらいまでの間かな」 「うーん、すみません。私もまだこの会社に入って半年しか経っていないんで、支店の社員には会ったことがない人もいるんです。それに一度会ったくらいではなかなか顔も覚えられないし。何か特徴的なものでもあれば、記憶に残っているかもしれませんけど」 「細身で色が白くて……後は他に特徴といえば、右手の手のひらに小豆粒くらいな痣があるんだが……」 「手のひらに?」 「加藤?」 その時、声を掛けられた萌は、思わず後ろを振り返った。 「あ、郷原さん」 そこにいたのは、営業先から帰社してきた郷原だった。 「どうした?」 「あ、こちら、平岩さんのお客さんなんですけど……」 萌を庇うように立つ郷原を、榊が探るような目で見た。 「失礼しました。営業推進部の郷原と申します。うちの加藤が何か?」 「いえ、ちょっとお尋ねしたいことがあったので」 「人を探していらっしゃるんですって。あ、郷原さんなら知っているかも。この会社に『石原さん』っていう女の人がいる?20代から30代くらいの」 「石原?」 郷原は考え込むような顔で榊の方をうかがった。 「『うち』には石原というものはおりませんね」 「そうですか」 「ええ、ご期待に添えなくて申し訳ありませんが。加藤、ちょっと来てくれ。明日の朝一の書類を渡しておきたいんだ。では、失礼します」 そう言うと郷原は軽く会釈をして萌の腕を掴み、さっき彼女が降りてきたばかりの階段の方へ向かって歩き出した。 「ちょちょっと、郷原さんってば、何?あ、すみません、失礼します」 萌も榊に向かってぺこりと頭を下げると、半ば引きずられるようにして彼の後ろに従う。 ここに関係があるのは間違いないのに、なぜ誰も彼女のことを知らないのだろうか。 二人を見送る榊の顔には、納得できないという表情が浮かんでいたのだった。 HOME |