BACK/ NEXT / INDEX



My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 4



その日、あの場所に行ったのは偶然だった。
彼が訪れようとしていたのは、あのビルの5階にある商社だった。そこで外国製の厨房機器一式を発注していたものの、納期が大幅に遅れていて、新店舗のオープンに間に合わない恐れがでてきた。
仮に設置工事が期間内にできなければ、予定しているオープニングイベントがすべて白紙になってしまう。担当は何とかしますの一点張りで、なぜ納品が遅れているのかをはっきりとは教えない。
もしもの場合、その損害がかなりのものになることを危惧した彼は、社長として自ら相手先に足を運び、担当の上司に直談判をするために来たのだった。


彼、榊大輔は、シェフとして本場仕込みのフレンチを自ら料理をするかたわら、都内に数店舗を展開するレストランのオーナーでもある。
会社の代表という形で店の経営を行ってはいるが、彼自身はどちらかといえば現場に重きを置く人間で、店の売り上げの推移以外の数字に関しては、専ら自社の社員と税理士、それに会計士にお任せといった感がある。
そんな榊が満を持して自分から出向いてくるからには、それなりの答えを要求されるのは間違いなく、相手の商社はさぞ戦々恐々だったことだろう。



ビルの外で車を降りた榊は、書類が入った封筒を手に、入口へと向かった。
ここ数週間というもの、打ち合わせに次ぐ打ち合わせで、碌に休みも取れない日が続いている。
「本当なら、こんなことに時間を取られている場合じゃないんだけどな」
榊は凝った首筋をかくかくと動かしながら苛立たしげにぼやいた。
時計を見ながら立て込んでいるスケジュールを頭の中で整理する。
その時だった。
開いた自動ドアから出てきた女性と正面からぶつかってしまったのだ。
「きゃっ」
咄嗟に女性の肘を支え、何とか倒れるのは阻止したものの、辺りには彼女が持っていたと思われる封筒が散らばっていた。
「す、すみません」
ぺこりと頭を下げると、女性は方々に飛んで行った封筒を拾い始める。
榊も自分の足元に落ちていた封筒を拾うと、まだ屈んでいる彼女にそれを手渡そうとした。
「ありがとうございます」
差し出された女性の手のひら。
それを見た彼は、思わず彼女の手を掴んで目の前に引き寄せた。
「君、もしかして、この手のひらの痣は……」
はっとして見上げた女性の顔に、ある女の面影が重なる。


あれはもう1年以上も前のことだ。
雨の夜、行きつけのバーで一人飲んでいた時に、偶然女と隣り合わせに座った。
化粧が濃く、一見夜の勤めをしているようにも見えたが、よく見れば彼女は明らかにそれとは雰囲気が違う。
何から逃れたいのかは分からないが、現実から目を背けるように、彼女はただぼんやりとグラスを眺めている。そんな女の哀しそうで儚げな表情が彼を引きつけたのは確かだ。

バーの閉店時間を過ぎ、一緒に店を出た時、外はどしゃぶりの雨になっていた。
先に返した車の中に傘を置いてきた榊は、タクシーの拾える大通りまで、彼女の傘に乗せてもらうことにした。
彼に下心がなかったとは言わない。あわよくば、と思ったのも事実だ。
だが、彼女もまた、彼に誘われるままにホテルについてきたのだから同罪だろう。

部屋に入った途端、二人はシャワーを使う余裕もなくベッドになだれ込んだ。
貪るように口づけをかわしながら、忙しなく互いの衣服を剥ぎ取り、肌を合わせる。
彼女の髪の毛から立ち上る雨の匂いが彼の劣情を誘い、ほっそりとした首筋に吸い付けば、吐息混じりの喘ぎが漏れる。その切なげな表情に、高ぶった彼は、いつものような念入りな前戯もなく、気が付けば我を忘れて女の細い体を組み敷いていた。

音のない部屋に、二人の荒い息遣いと体を打ち付けあう音だけが淫らに響く。
だが、しばらくして気付いてみると、彼女は何度達してもずっと目を閉じたまま、彼を見ようとはしなかった。
「僕を見て」
促してはみたものの、榊が与える快楽だけを体に受け入れ、後はすべてを拒絶するかのように、その瞳は決して開かれることはなかったのだ。

精根尽き果てるまで互いを貪り続けた二人が眠りに落ちたのは、明け方近くだっただろうか。
腕に抱いていた女の顔は、激しい交わりのせいで化粧が剥げ落ち、驚くほど印象が変わっていた。
涼やかな目元に少し上を向く鼻。穏やかな笑みを浮かべる唇はふっくらとしていて、まるで彼を誘うようにピンクに色づいている。どちらかと言えば大人しめな、清楚とも思えるような顔形。
恐らくは、これが彼女の本当の顔なのだろうと思った。

榊は背中から抱いていた女性の手を引き寄せると、彼女の肩ごしにそこに口づけを落とす。
「へぇ、こんなところに痣があるんだな」
彼が見つけたのは、手のひらの真ん中にある、小豆粒より少し大きいくらいの薄い痣だった。
「子供の頃はよく言われたわ。星を掴んで生まれてきたって」
「きっと、君は幸運な女性ってことだな」
「……」
その時彼女がどんな表情をしていたのかは分からない、だが女はそれに答えることなく、ただ黙って自分の手のひらを見つめていたようだった。



次に目が覚めた時、ベッドには彼だけが残されていた。
一瞬彼の頭の中を嫌な思いが過り、すぐに持ち物を確認したが、カードも現金も、なくなっているものはなにもない。ただ、彼女の姿だけが忽然と消え失せていただけだった。

慌てて見に行った洗面所やシャワーにも使った痕跡はなかった。タオルもバスローブも新しいままそこに置かれていて、ベッドに昨夜の情交の名残がなければ、彼女の存在は夢か幻ではなかったのかと思えるくらいだ。
本当に何も残されていなかった。その髪の毛の1本さえも。

そんな中でただ一つ、入口のクローゼットの側に立てかけたまま置き忘れていった雨粒のついた傘だけが、彼女がここにいたことを証明するものだった。手に取って見ると、傘の柄に付けられたネームプレートには、名前と電話番号が書かれている。
「石原美幸、か」
無論彼はすぐにそこに電話をしてみた。だが、その番号はすでに使われておらず、名前からも探し当てることはできなかった。

手掛かりは途切れたが、それからも、榊は女を探し続けた。
もちろん傘を返すため、というわけではない。
彼はどうしても聞いてみたかったのだ。

なぜ、最後まで彼女は自分を見ようとしなかったのか、と。



榊の声を聞いた途端、女性は彼に掴まれていた手を振り払うようにして外に駈け出して行った。もちろん彼は追いかけたが、途中で信号につかまり、その姿を見失った。

またもや消えてしまったあの夜の女。
だが、彼の手にはあるものが残された。それは、とある会社のものと思われる、1通の封筒だ。
同じものを幾つか持っていた様子から、彼女がこの会社に関わっている可能性が高いだろう。

まだ彼女を捕まえた時の感触が残る自分の手を見つめながら、榊はやっと得た手がかりを失くさないように内ポケットにしまい込むと、目的の場所へと向かったのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME