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My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 3



7月に入ると暑さが本格化してきた。
まだ梅雨の鬱陶しさは残るが、晴れると途端にぎらぎらとした日差しが照りつける。

派遣社員の美幸には関係ないことだが、7月の初旬にボーナスが出たらしく、懐が潤った同僚たちに誘われて週末にビアガーデンに繰り出した。
その時自分は一次会で帰ってしまったのだが、その飲み会がきっかけで、なんと同僚の萌が同じ職場の郷原という男性と付き合い始めたのだという。
世間ずれしていない萌を見ていると何となく危なっかしくて、まだ子供のように思えるが、よくよく考えてみれば自分は彼女の年齢の時にはすでに結婚していたのだから、そういう話があってもおかしくはないはずだと気付く。
驚いたことに、その余波をもろに被り、一時は偽装婚約までさせられそうになった六嶋と平岩も、縁があったのか本当に結婚を決めた様子だった。

あちらこちらで明るい話題が出てきたためか、グループの中が俄かに華やいだ雰囲気になったのは確かだ。そのせいで、何となく佐東の件を持ち出しにくくなり、結局何も聞けないまま、気が付けば季節は夏を過ぎ秋の気配を感じるようになっていた。



「ごめん、尾藤さん。本当なら派遣さんにこんなことを頼んじゃいけないんだけど……」
申し訳なさそうに書類の入った封筒を差し出す六嶋に、美幸は首を振った。
「いえ、大丈夫ですよ。1時間ほど早く上がらせてもらえば、帰りに寄って行きますから」
「タイムカードは定時でいいから、それで申告して」
「え、でも……」
「大丈夫、佐東係長にも了解を取ってあるの。私か係長が行けばいいんだけど、二人とも今日はどうしても都合がつかなくて、あなたに無理を言ってお願いしたんだから」

外出中の営業から、急遽見積もり内容の修正と再計算が必要になったと連絡があったのは午後一番のことだ。
その日、遠方に出ていた営業マンは本社に戻る時間が取れないらしく、先方に出向く際に現地で落ち合って新たな書類を渡すことになった。だが、こんな時に限って営業部はもぬけの殻で誰も社内におらず、頼める者がいない。
こうなると、いつもならば萌が使いに出されるのだが、今日は彼女も体調不良で休んでいた。
六嶋は新居の受け渡しのために3時で早退の予定になっているし、佐東は会議で地方の支店に出張中で、消去法でいっても、自由に動けるのは美幸しかいなかった。

「分かりました。では、そうさせてもらいます」
「助かるわ、本当に。これが行先の住所。地下鉄の乗り継ぎなんかはこのメモに分かるように書いておいたから。かかった交通費は覚えておいて、明日にでも清算して」
「はい。それじゃ、書類をお預かりします」
「よろしくお願いするわね」



「お手数をおかけしました」
取引先の会社が入っているビルのロビーで、待っていた営業に深々と頭を下げられた美幸は恐縮した。
「え、そんなことないですよ」
「でも、六嶋主任からきつく言われていますので……」
どうやら目の前の若い営業の男性は、電話で六嶋にかなり絞られたらしい。

仕事に関しては、六嶋主任、容赦がないからなぁ……

少し同情の念もわいたが、それを億尾にも出さず、美幸は営業の泣き言をさらりとかわした。
「何とか間に合ったのですから、きっと大丈夫ですよ。では、私はこれで失礼します。お仕事、頑張ってくださいね」



ロビーで営業マンと別れた美幸は、手に提げていた紙袋の口を大きく開けて、中の封筒を確認した。
「さてと」
彼女が会社を出ると、業務グループには誰もいなくなってしまうため、今日発送しなければならない郵便物を投函しようと持って出た。しかし生憎と途中には郵便局もポストも見当たらず、結局ここまで持ってきてしまったのだ。
このビルに入る前、道路の反対側に大型のポストがあるのを見つけた彼女は、帰りにそこに寄って郵便を落とすつもりだった。

ビルの正面入口の自動ドアまで来た時、バッグの中で急に鳴り出した携帯に気を取られた美幸は、前から入ってきた男性の胸に思い切りぶつかってしまう。
「きゃっ」
男性は、よろめいた彼女を咄嗟に支えてくれたが、その反動で持っていた紙袋が逆さまに弾かれ、中にあった郵便物が飛び出してしまった。
「す、すみません」
慌てて謝り、その場にしゃがんで床に散らばった封筒を拾う彼女に、男性はそのうちの一通を拾って渡そうとした。
「ありがとうございます」
それを受け取ろうと差し出した手のひらを見た男性は、突然彼女の手を掴むと自分の目の前に引き寄せた。
「君、もしかして、この手のひらの痣は……」
それを聞いた美幸はその場に凍りついた。

まさか、この声……

亡き夫を思い出させる声に誘われ、見知らぬ男性と一夜を共にしたのは、一年以上も前のことだ。もう顔もよく思い出せないが、声は……博人にそっくりな声の特徴だけは、今もはっきりと耳に残っていた。
美幸は顔を上げることなく自分の手を掴む彼を振り払うと、そのまま逃げるように外へ飛び出した。
「あ、ちょっと君、待ちたまえ」
背後で呼び止める声が聞こえたが、彼女はそれを振り切り、人波を縫うようにしてその場から走り去った。迷わないように駅から来た道をそのまま帰ることも、ポストのことも頭になく、ただあの声から逃れるためだけに、無我夢中で走り続けた。
途中で息が切れて走れなくなり、とぼとぼと歩きだしてから、どのくらい経っただろうか。
通りで運よく見つけた案内板に書かれていたのは、彼女が降りた場所の一つ前の駅名だった。どうやら闇雲に走っていたせいで、地下鉄の駅一つ分徒歩で戻ってしまったらしい。
こうして何とか地下鉄までたどり着いた美幸は、改札を抜けるとホームのベンチに崩れるように座り込んだ。

あの男性に会うなんて。こんなところでまた会ってしまうなんて。

お互いが同じ街にいるのだということは、もちろん分かっていた。
だがこの大都会で、彼と再び出会う確率など、ゼロに等しいと思っていたのに。
美幸は無意識に、左手の薬指にはまる指輪をくるくると回した。
声を聞いたショックで、何も考えずにあの場から逃げ出してしまったが、男性は何か言いたそうな口ぶりだったように思えた。
それに、どんなに否定しても、博人にそっくりな声を聞きたいという思いを断ち切ることはできない。

今ならあの場所に戻れば、もしかしたらまたあの男性に会えるかもしれない。
彼女はそんな浅はかな考えを起こす自分を、厳しく叱りつけた。
「バカね。そんなことできるわけないでしょう?」
もう二度とあんな過ちを繰り返してはいけないのだ。博人のためにも、あの男性のためにも、そして自分自身のためにも。

美幸はそう自分を戒めながら、通り過ぎる地下鉄を何本も、ただぼんやりと見送っていたのだった。




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