BACK/ NEXT / INDEX



My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 2



博人の墓参りから帰った後、美幸は一睡もできない夜を過ごし、翌朝そのまま出社した。
眠れなかった理由、それはベッドに横たわると一年前にあの男性と過ごした一夜が甦り、慙愧の念に駆られたからだ。
道義的にとんでもないことをしてしまったという後悔と、あの男性に対する申し訳なさ、そして自分の衝動的な行為に対する羞恥心は、これから先も夫の命日のたびに思い出され、彼女の中で一生消えることがないのかもしれない。


午前中はふらふらになりながらも何とか業務をこなしていたが、さすがに睡眠不足からくる疲労は隠せなかったようで、見かねた萌が午後からの当番を代わると申し出てくれた。
「いいからここに座っててください。私、給湯室を片づけて、ついでに総務で今日の分の郵便を受け取ってきますから」
「ごめん、そうしてくれる?助かるわ」
「ホント、顔色悪いですよ、尾藤さん。早退しなくて大丈夫ですか?」
「あと数時間だから、もうちょっと頑張ってみるわ。ダメそうなら帰るから」
「そうしてくださいね。何か見てると今にも倒れそう、って感じです」
萌は心配そうに頷くと、席を立った。
「本当に大丈夫なの?」
その会話を聞いていたのか、向かいにいる六嶋主任も声を掛けてくれた。
「はい、何とか。ちょっと貧血っぽいのと、あとは寝不足で」
「そう、無理しないでね。きつかったら早く帰って寝た方がいいわよ。明日に回せる分は回して、あと、今日の分もできるだけこっちで引き受けるから」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」


心配する同僚たちに、終業と同時に追い払われるように職場から出された美幸は、やっとの思いで自宅に戻ってきた。
この都心からほど近い3LDKのマンションは、夫との短い結婚生活を送った部屋だ。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって発した声が、今日は一段と虚ろに聞こえる。

美幸と結婚すると同時にここを購入した博人は、このマンションを彼女に遺していった。
一緒に住む家を探し始めた当初、賃貸の部屋でも十分だと考えていた彼女は、博人がここを買うと言いだした時には反対した。支払いも大変だし、第一、若い二人には贅沢過ぎると思ったからだ。
『でも、もしこの先僕に何かあっても大丈夫なように、住むところくらいはちゃんと確保しておかないとね』
生前、彼が言った言葉そのままに、この部屋は今の彼女の生活を守ってくれている。
博人の突然の死で行き場を失いかけた美幸は、その時初めて彼の生命保険でこの家のローンの返済が全額免除になることを知った。
そして、そのままこの部屋を彼女が相続できるようになっていることも。
もちろん、その時点でここを売り払うこともできた。
だが、たった1年という短い間だったが、博人と過ごした思い出が一杯に詰まった部屋を手放すことなど、彼女には到底できなかった。
こうしてここに一人で住むようになってから、もう4年が経つ。

玄関を上がり、リビングのテーブルの上に取ってきた郵便物をどさりと置くと、中から一枚のハガキが滑り落ちる。
『石原美幸様』
銀行から届いたそれは、今の彼女の名前で送付されていた。

尾藤は博人の名字だった。美幸が正式にこの名前を名乗ったのは、彼と結婚していたわずか1年だけ。今も通称として使ってはいるが、籍を抜いて旧姓に戻っている彼女の本名は、石原美幸だ。
派遣会社の斡旋で今の会社に面接に行った際に、この件を聞かれたので話はしてある。だからその時同席していた佐東と、その上司の汐田部長は彼女の名字が通称なのを知っている。
生まれてから20年以上も使っていた石原という名前が嫌なわけではない。
ただ、そうすることで自分の中から博人の存在が完全に消えてしまうのが怖くて、彼女はどうしても尾藤という名前を変えられないだけだ。
今では病院や銀行で「石原様」と呼ばれても、すぐに自分だと反応できないことがある。そのくらい、この数年で彼女は自分が「尾藤美幸」という名前に馴染んでしまったのを感じていた。


ああ、病院といえば……
そろそろ次の数か月分のピルをもらいに行かなくてはならない。

去年のあの出来事の後、美幸は嘗てないほど生理が遅れた。今までも不順気味で1か月くらいずれることはよくあったが、さすがに2か月近くも遅れたのは初めてだった。市販の検査薬では何度テストしても陰性としか出てこないのに、それでも一向に生理が来る気配はなく、彼女は自分の妊娠を疑った。その時、美幸は改めて自分のしたことの重大さを思い知らされたのだ。

確かあの時、彼は避妊してくれたはずだ、とは思ったが、確証はなかった。なぜなら、彼女は彼と体を重ねている間中、ずっと目を閉じたままだったのだ。わかることと言えば、あの後家に帰ってシャワーを浴びた時に、自分の体の中からは何も出てこなかったような気がする、という曖昧な記憶が精々だ。

もし、赤ちゃんができていたら……私はどうしたいんだろう。

最初、美幸は悩んだ。
果たして名前も分からない、行きずりの男性の子供を産んで、一人で育てていくことができるのだろうか。そう考えると彼女にはその自信がなかった。
しかし、せっかく宿ったかもしれない命を、自分の勝手で消してしまうこともまたできそうにない。
思いあぐねた末に、とにかく一度産婦人科を受診しようと決断した矢先に、やっと遅れていた生理が来たのだった。
妊娠していないことが分かった時、ほっとした反面どこか残念な思いをしたことは否めない。いろいろと考えていくうちに、もし妊娠していたら、勢い、産んで育てていこうという方向に少しずつ気持ちが傾いていたからだ。

だが、後で冷静になってみると、もしかしたら自分は子供を持つことで、自らの孤独を癒そうとしていたのではないか、ということに思い至った時、自己満足のためだけにそんなことをしようと考えた自分が空恐ろしくなった。
生まれてくる赤ちゃんは親を選べない。それなのに、そんな身勝手な理由で子供を欲しいと思うなんて、傲慢以外の何物でもないというのに。

それ以来、美幸はピルを使い始めたのだ。
もちろん表向きの理由は生理の周期を調整するためだが、本心では、心が弱くなったとき、自分が再び過ちを犯さないという確信が持てない以上、もう二度と同じ失敗を繰り返したくはないというところにあった。
「今週末に、行ってこようかな。土曜日の午前中ならお医者さんもやっているし」
美幸は忘れないようにカレンダーに印を付けると、重い体を引きずりながら寝室に行き、そのままベッドに倒れこむようにして眠りに落ちたのだった。



そしてその週末。
美幸は予定通り産婦人科を受診した。
彼女が通うウイメンズクリニックは、入口を入ると診療棟が大きく2つに分かれている。

一つは女性特有の病気等の治療のための婦人科、もう一つは妊産婦のケアと出産を専門とする産科。

ピルの処方箋をもらうのが目的の美幸は、いつも受付を済ませるとそのまま婦人科に向かうのだが、その日は急にトイレに行きたくなり、受付横の化粧室に寄った。
用を足しそこから出てきた時に、ふと見上げた視線の先を、知った顔が横切っていく。

佐東係長?

彼女は美幸に気付くことなく、産科の入口の方に向かって歩いていった。
この病院には入院、出産設備もあるので、見舞客が訪れることも珍しくはない。だが、美幸が見たとき、佐東の手に初診時に受付で渡されるバインダーがあるのがはっきりと見て取れた。

何で佐東係長がここに?それに、あっちは……

佐東が向かったのは産科だ。
そこは、妊娠でもしない限り、普段は用のない場所のはずだ。
それに、確か以前に聞いた話では、佐東は独身だったはずなのだが。

美幸はしばらくその場に立ち尽くしたまま、訝しむような目で佐東の背中を見送っていたのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME