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My ☆ Sugar Babe

chapterV  「Petit Sweet」 な彼女 1



梅雨の季節。
美幸はこの雨が嫌いだ。
雨自体が嫌いなのではなく、この季節に降る雨と、そのどんよりとした湿っぽい、陰鬱な空気が嫌なのだ。

夫の博人が亡くなってからもう4年が過ぎようかというのに、どうしてもこの時期には憂鬱な気分に陥ってしまう。
彼の命日が近づくにつれて段々と気分が滅入り始め、時として自制心が利かなくなってしまうことさえあるくらいだ。

思えば昨年の博人の命日も雨だった。
一年前のあの日、墓参から帰った後でどうしても部屋に一人でいたくなくて、彼女は衝動的に家を飛び出し、夜の街をさまよった。
派手に着飾り濃厚な香水を漂わせ、目の下の隈と顔色の悪さを隠すためにケバケバしいほど濃い化粧をした彼女を見て、誰も地味で大人しい「尾藤美幸」だと気付く人はいなかっただろう。
駅のトイレでその姿を映した鏡を見た美幸は、思わず苦笑いを浮かべた。

酷い顔ね。まるでピエロみたい。

マスカラやアイラインなんて、入れたのは何年ぶりだろう。いつもは軽くファンデーションを塗り、眉を書いて頬紅と口紅を施すくらいでおしまいだ。誰に見せるでもないのに、気合を入れた化粧など、とてもする気にはなれないから。
鏡に映った自分の左手の薬指に、こんな化粧には似合わないシンプルなプラチナのリングが、鈍く光っているのを目にした美幸は、リングを外してポーチにしまった。
そうでもしないと、何だか今の自分の格好を、博人にもらったリングに諌められているように思えたからだ。


繁華街近くの駅で電車を降りた彼女は、当てもなくふらふらと歩いた。その時ふと目についたビルの地下にある店のドアを、思い付きで開けた。
初めて入ったそこは、カウンター席が5つほどと、奥に1つテーブル席があるだけの小ぢんまりとしたショットバーだった。
見たところ、その日の客はカウンターに1人と、テーブル席に数人がいただけ。
一見の客の美幸は、少し遠慮がちにカウンターに設えられたツールに腰を掛けるとカクテルをオーダーした。
「マルガリータをお願いします」
そんなにアルコールに強い方ではないから、こういうものは1杯か2杯が限度だ。普段は甘いお酒が好きなくせに、これだけはスノースタイルのグラスに入ったドライな飲み口が気に入っていて、以前は良く頼んだものだった。

そう、博人がいた頃には、夫婦で飲みに出かけたりもしたっけ。

カウンター席に座る男性と何か話をしながら、バーテンダーがシェイカーを振っている。そのリズミカルな動きを目で追っていた美幸は、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「どうぞ」
「ありがとう」
滑らせるように目の前に置かれたグラスを手に取った美幸に、一つ席を空けた向こうから先客の男性が声を掛けてきた。
「君も一人?」
高級そうなスーツを隙なく着こなしたその男性は、典型的なヤングエグゼクティブに見えた。
「ええ」
美幸は男性を見ないようにしながら、短くそう答える。
「そう」
それきり、会話は途絶えたが、彼女はその時あることに気付いた。

この人の声、博人の声に似ている……?

そんなことがあるわけないと分かっていても、目を閉じて彼とバーテンダーとのやり取りを聞いていると、まるで夫がすぐ側にいるような錯覚を覚えた。
昔、行きつけのお店で、互いの体温さえ感じるくらい、ぴったりと寄り添いながら語り合った夜。普段は寡黙な博人だが、お酒を飲むと驚くほど饒舌になった。
思い起こせば、彼にプロポーズをされたのもお酒を飲んでいたときだった。素面では恥ずかしくてとても言えないと、それでも暗がりで分かるほど顔を真っ赤にしていた博人。
もちろん、一緒にいた間にはいろいろなことがあった。言い争いや喧嘩もしたし、気持ちがすれ違ったこともある。だが、今になってみれば、思い出すのはどれも楽しかったことばかりだ。
昔の記憶は良いことだけを都合よく思い出せるものなのだな、と心の中で苦笑しながら美幸は静かにグラスを傾けていた。



「あの、そろそろ……」
それからも暫し夫との思い出に浸っていた美幸は、バーテンダーに遠慮がちに声を掛けられて、ようやく閉店時間を過ぎていることに気が付いた。すでにテーブル席の客は帰った後で、残るはカウンター席にいた自分と隣の男性だけだ。
「あ、ごめんなさい。のんびりし過ぎたわね」
慌てて財布を取り出そうとして、止められた。
「くつろいでいただけたなら、何よりですよ。あ、もうあちら様からお代は頂いていますから」
「えっ?」
見れば、隣にいた男性も帰り支度をして、彼女の横を通り過ぎているところだった。美幸は慌てて彼を呼び止めると、自分の分を彼に返そうとした。
「あの、私の分のお金を」
「いえ、今夜は僕のおごりで」
確かに彼女はカクテル2杯しか注文していなかった。席代がなければ、金額にしても2千円とかからないくらいだろう。それでも見知らぬ他人にそれを払わせるのは気が引けた。
「でも……」
「そんなに飲まれていなかったでしょう?このくらいで『おごる』というのも烏滸がましいですが、ごちそうさせてください」
そう言われると意固地になって払うと言い張ることもできず、美幸は小さな声でお礼を言って、横の席に置いておいたバッグを掴んだ。
その間に、彼はさっと先に出てドアを開けて待っている。
「せっかくだから、そこまで一緒に出ましょう」
ごちそうになった手前彼の言葉を無下にもできず、美幸はバーテンダーに会釈をすると男性と一緒に店を出た。


「ああ、ひどく降っているんだな」
店の中にいると分からなかったが、ビルから出た途端、二人に容赦なく大粒の雨が降り注ぐ。どうやら店に入った頃よりも雨足が強くなっているようだ。
「それではここで」
そんな中を、彼は傘もささずに道に出ようとしている。こんな天気の日に、どうやら彼は雨具を持たずに来たらしい。
「あの……大通りまで、一緒に入って行かれませんか?」
美幸の言葉に、最初は驚いたような顔をした男性だったが、すぐに彼はその誘いに乗ってきた。
「そうさせてもらえるとありがたい。ここまで車で送ってもらったんだが、車中に傘を忘れてしまってね。ありがたくお言葉に甘えさせていただくよ」

空車を求めて大通りまで歩く間、美幸は耳元で聞こえる声に心を囚われていた。
彼は、自分が持つと言って美幸の手から傘を取り上げると、もう片方の手で彼女の肩を抱いていた。寄せ合った体からは、しみ込むようにあたたかな温もりが伝わってくる。その彼のスーツから、コロンに混じって微かに煙草の匂いがした。

そういえば、いつも博人もこんな香りがしたっけ。

雨に濡れて帰ってきた日には特にそれがよく分かった。煙草は嫌いな美幸だが、彼の体から漂うその香りは決していやではなかった。こうしていると、短いながらも夫の腕に抱かれ、至福の時間を過ごした日々が甦ってくる。
もっとしっかりとその香りを感じたくて、思わず彼女は男性のスーツの胸に頬を寄せた。
それを、誘っていると彼に受け取られたのかもしれない。
「一緒に来るか?」
彼に耳元で囁かれ、美幸は一瞬だけ躊躇したが、何も言わずにただ頷いた。
声の主は博人でないと分かっているのに、彼女はどうしてもその誘惑を振り払えなかった。
たとえ一夜限りでもよかった。
凍えそうな彼女の心と体を、彼が温めてくれるのなら。

その夜、誘われて入ったホテルの部屋で、美幸は名も知らぬ男性に抱かれた。
だが、ベッドに押し倒されてからは何度高みに押し上げられても、彼女は固く目を閉じたまま自分を抱く男の顔を見ようとはしなかった。
「僕を見て」
幾度となく彼にそう乞われたが、美幸は決して目を開けなかった。そうしたが最後、目の前にいるのが博人ではないという事実を思い知らされるからだ。
『博人』
口にできない名前を心の中で呼びながら、美幸は自分の中で果てた彼の頭を掻き抱く。
だが、記憶の中の夫よりも幾分筋肉質な体から発せられる肌の匂いは、当然のことながら博人のものではない。それが彼女に冷静さを取り戻させると同時に、博人はもうこの世にいないのだという現実を突きつける。そして何も知らない男性を成り行きで亡き夫の身代わりにしてしまったとことに対する罪の意識が彼女の心を苛んだ。

「少し眠るといい。明日の朝、送って行こう」
彼はそう言うと、足元に丸まっていた掛け布団を引っ張り上げ、背を向けた美幸と自分を包みこむ。
腰に回された腕の重みと背中から伝わる彼の体温に、切なさを感じると共に彼女の罪悪感がかきたてられた。

出会ったばかりの男性を、夫の身代わりに利用するような浅ましい私は、こんな風に優しくしてもらう価値などない女なのに……

美幸は彼が寝入るのを待ってからそっとベッドを抜け出した。そして結局最後まで、一度も正面から彼の顔を見ることなく、そのまま部屋を後にする。
人目につかないようにこっそりロビーから出ると、外はまだ暗かったが雨はすっかり上がっていた。
こんな時、何もかもを忘れるほど思い切り泣くことができたら、どんなにか良いだろう。だが、彼女は泣けなかった。苦しいのに、どうしてもそれを吐き出すことができない辛さが悲しみを助長する。

博人ごめんね。そしてあの男の人も……ごめんなさい。

美幸はとぼとぼと駅までの道のりを歩きながら、自分のしでかしてしまったことを心から悔いていた。




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