chapterU 「Bitter」 な彼女 8
「はぁ、あのお父さんがそんなことをねぇ」 結納と正式な両家の顔合わせを兼ねた会食の直前、平岩は早妃子の準備が整うのを待っている君江と、会場のホテルのロビーでばったり出会った。 今日は嫌がる早妃子を何とか説き伏せて、用意した振袖を着せたのだという。 「そうなのよ。あの人ったら、ずいぶん前から準備していたから」 今日初めて袖を通すというそれは、少し若向きな黒と赤の地に、これまた派手な御所車の絵柄で、どう見ても成人式の時に着るのにぴったりな感じだそうだ。 「彼女、その時その振袖を着なかったんですか?」 君江がちょっと悲しそうな顔で頷いた。 「ええ。早妃子は大学に入学と同時に家を出てしまったの。それまでもいろいろとあってね。成人式の時も、地味なスーツで行ったみたいで、式の帰りにちょっと顔を見せに家に寄っただけですぐに帰ってしまったから」 成人式の前から、父親は君江に頼んで彼女が着る振袖を誂えていた。だが、それを早妃子に伝えることができないままに、時期を逸してしまったのだ。 以来、着られることのなかったその振袖は、帯や小物一式と一緒に実家の箪笥の奥に眠ったままになっていた。 それを今日の晴れの日に、と引っ張り出してきたのだという。 「でも、お父さん、何で早くに彼女を結婚させたがっていたんですかね?」 巷でよく耳にする話では、男親は娘の結婚を渋るものだそうだ。だが、早妃子の言い分だと、彼女の父親はまるで娘を投げ売りするかのように、嫁に行くのを急かしていたように聞こえる。 「うーん、本心はどうか分からないけど、確かに煩くは言っていたわね。でも、あの人、早妃子の本当の母親に約束していたみたいなのよ。娘はちゃんと自分が立派に育ててウチから嫁に出すって」 離婚した時、どちらが早妃子の親権を取り育てるかが問題になり、父親は迷わず自分が手を挙げた。その際に母親とのやり取りの中で、そういう話が出てきたのだそうだ。 「まぁ、見ての通り、あの人は頭の固い昔人間だから、娘は嫁にやるまでは自分の責任だと思っているのよ。でも、内心はいつ若い男の人が『お嬢さんをください』って来るかとひやひやしていたんじゃないかしら。だってね……」 君江は何かを思い出したように笑った。 「何だかんだ言っても、早妃子が一番かわいいんだから。だって私と再婚する時の一番の条件が、『娘を大事にしてくれる人』だったのよ。私も自分の産んだ子供が男ばかりだったから、あの子のことをずっと本当の娘のように思っていたし」 だが、いつまでも手元に置いておきたいと思いつつも、適齢期を過ぎていく娘に焦りを感じていたのだろう。父親は早妃子に口煩く結婚を急かした。 それに反発する彼女との溝が広がるのが分かっていたのに、どうすることもできなかった男親の複雑な気持ちは、平岩にも何となく理解できる。 「それにね、あの子の結婚が決まったら決まったで、またそれも寂しいらしくて、ここのところお酒の量が増えちゃってね。困ったものだわ」 「父娘共々、素直じゃないですね」 「まぁ、親子して、不器用なことだけは確かよ。あなたもこれから一生あの二人に付き合っていかなくっちゃいけないんだから、お願いするわね」 そう言ってからからと笑う君江に平岩が頭を下げる。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 「さて、そろそろ準備もできた頃かしら?ちょっと主人を呼びに行ってくるわ。あの子はすぐ向こうの美容室にいるから、よかったらのぞいて声を掛けてやって。それじゃまた後で会いましょうね」 君江の後ろ姿を見送った平岩は、目的の場所に向かう途中で目についたドアを開き、中にいた店員に声を掛けた。 その後、君江に言われた通りに美容室をのぞき、ちょうど仕上げに着物の袖や袷を直してもらっている早妃子を見つけて近づいていく。 「うん、早妃ちゃん、よく似合ってるよ」 「ひ、平岩君」 驚いて顔を上げた早妃子が、少し照れたように赤くなった。確かに少々色遣いは若向きだが、早妃子にはよく似合っていた。 「ちょっと派手すぎない?三十路の女には」 「ううん。良い感じだよ。ね、写真屋で、記念に写真を撮ろうよ」 「えぇ、嫌よ」 「何で?」 「だって、この年で振袖なんて恥ずかしいし」 「そんなことないって」 結婚してしまえばもう彼女がこの振袖を着る機会はないだろうから、今日の姿を記念に残しておこうと思い立った彼は、ここに来る途中で写真スタジオに寄り、撮影を頼んでみた。すると今の時間ならば予約が空いているということでOKが取れたのだ。 「ほら、急いで。みんなが来る前に撮り終えなきゃ」 渋る早妃子を連れてスタジオに入った平岩は、まず一枚彼女と並んで写真を撮る。 その後、彼女を一人カメラの前に立たせると、自分はカメラマンの後ろに回った。 「ちょっと、平岩君」 「いいから。記念に一枚、ね」 何となく納得いかない様子ながらも、カメラマンに促された早妃子は笑顔で自分ひとりだけの写真に納まった。 「さぁ、行こうか。そろそろみんな集まっている頃だよ。じゃ、後は打ち合わせ通りにお願いします」 平岩は受付にいた女性に軽く会釈すると、早妃子の手を取りスタジオを出た。 「打ち合わせなんて、何のこと?」 「ん?記念写真の焼き増しのことさ」 「焼き増しって……」 「ほら、いいから。また出来上がったら一緒に見よう。楽しみだな、早妃ちゃんの振袖姿。みんなに見せびらかしちゃおう」 「うわーそれだけは勘弁して。ここで着てるだけでも恥ずかしいんだから」 「嫌だね。絶対見せちゃう」 「それだけは止めて、お願い〜」 後日、早妃子の両親のもとに平岩から荷物が送られてきた。 「何だこれは?」 訝しみながらも開けてみると、中から出てきたのは立派な台紙に入った記念写真だった。 そこには両親の用意した振袖を着た早妃子が、幸せそうな笑顔で写真に納まっている。それを見た君江が思わず目を潤ませた。 「あなた、良かったわね」 「あ、ああそうだな」 泣いている姿を妻に見られたくないのか、頑固親父はすっと席を立ち、そのままどこかに雲隠れだ。 君江はその気配を背中に感じながら、そっと写真に話しかけていた。 「良かったね、早妃ちゃん。良いだんな様が見つかって」 こうしてトップ営業マンの平岩は、プライベートでも持ち前の気配りを見事に発揮し、早妃子の両親にいたく気に入られることとなった。 もちろん、当分は早妃子には、このことは内緒である。 HOME |