chapterU 「Bitter」 な彼女 5
「早妃ちゃん、もう帰れる?」 「もちょっとかかりそうなの。先に帰っていいわよ」 そんな会話を何気なくしているかに見えた二人だが、実は机の下では平岩が彼女に思い切り足を踏まれていた。 「いたたた、酷いなぁ、早妃ちゃん」 「もう、その呼び方はしないでって言ってるでしょう」 声を潜めてこそこそやっていると、傍からは何とも仲睦まじく、らぶらぶなカップルに見えてしまうのが恐ろしいところだ。 衝撃的な『婚約』が露見してからひと月あまりが経った。 その間に紆余曲折はあったものの、今では社内でも二人が付き合っていることは概ね既成の事実として認められていた。 もちろん、当初は早妃子も同性の同僚たちからかなりのやっかみを受けた。 もしこれが自分に対してだったら、とても耐えきれなかっただろうと、あの天然の萌でさえ言ったくらいだ。 だが相手は口八丁手八丁でベテランやり手の早妃子だ。若い女性社員の大半は、どう頑張っても彼女には歯が立たない。陰で噂をすることはあっても、なかなか面と向かって来ることはなく、身の程知らずにも彼女に食って掛かった者は、「欲しいんだったらあげるわよ、どうそご自由に持っていって」と余裕しゃくしゃくで軽く往なされてしまう始末だ。 おまけに当の平岩は、見るからに早妃子にべったり、社内でも「早妃ちゃん」と呼びかける為体(ていたらく)ぶりで、どこから見ても二人は結婚目前の恋人同士のようだった。 「平岩君、最近ちょっとキャラが違わない?」 結局仕事が終わるまで待っていた平岩と一緒に帰ることになった早妃子は、隣を歩く長身の彼をちらりと見上げた。 「そう?俺は普通にしているつもりだけどな。それより、今日は何を食べようか?」 普通の恋人たちとは違い、終業後や休日に特に出かけるわけでもない二人にとって、会社を出てから駅までの徒歩10分と、たまにその道沿いにあるお店で一緒にとる夕食は貴重なデートタイムだ。 「ねぇ、今度の休みにどこか行こうか」 「どこかって?」 あぶりホタテの皿を取った早妃子の横で、平岩がマグロの赤身を頬張っている。 今日の夕食は、一皿100円の回転寿司。 色気がないといえばそれまでだが、彼女たちも普通の会社員である以上、月々の給料は決まっている。毎回豪勢なディナーばかりを食べているわけにはいかないのだから仕方がない。 平岩と回転寿司。 花を背負って歩きそうな伊達男と、ターンテーブルをくるくる回る寿司とは、何ともミスマッチなイメージだが、現実には思ったほどの違和感はない。 実際のところ、平岩は見た目ほど浮ついたキャラクターではなく、世間一般並みの堅実さは持ちあわせている。だからちゃんと弁えるべきところは弁えて行動するし、その場限りで適当に物事を決めてしまうような無責任なこともしなかった。 付き合って……はないから、もとい、恋人のふりをして彼と一緒に過ごす時間が増えてから、少しずつ分かってきたこともある。 平岩はわざと「軽い男」演じている。 その上、いつも側に郷原という硬派なイメージの男がいるせいで、余計に彼が遊んでいるように見えてしまうことにも気が付いた。 本当は、郷原君の方が女性関係は派手だったんじゃないかしら。 あろうことかあの天然萌にしっかりホールドされ、すっかり振り回されている郷原に今はそんな余裕もないだろうが、彼らはずっと互いの存在を使って自分のイメージをカムフラージュしていたのではないか、と早妃子は感じていた。 「映画を見てもいいし、ドライブもいいな。海かプールで泳ぐのも悪くない」 そういえば、今年はお盆が過ぎても暑さが引かなかったせいか、都内のプールはまだまだ人で賑わっていると、昨日のニュースで言っていたっけ。 「あ、私パス。水着持ってないから」 「えー残念。俺、早妃ちゃんのビキニ姿を見たかったのに」 「そんなもの、見なくていい」 「今さら恥ずかしがらなくても。同じような下着姿ならとっくに……」 早妃子は咄嗟に横に座る男にヘッドロックをかました。 「こんなところでなんてこと言うのよ。変な誤解されるじゃない」 夕食時、回転寿司屋のカウンターは満席だった。もちろん、平岩と早妃子の両横も人で埋まっている。 「ぐふっ、そんな堅いこと言わなくても。自他ともに認める『婚約者』だっていうのに」 何とか早妃子の腕から自由になった平岩が、咽ながらお茶に手を伸ばす。 「誰が『自他ともに認める』ですって?」 それを横目に睨み付けながら、彼女は半ばヤケ気味に自分の皿に残っていた卵焼きを口に放り込んだ。 恋人と週末デートか。 そういえば、ここ数年、そんなこともとんとご無沙汰だった。 最後にデートらしきことをしたのがいつだったか、もうはっきりと思い出せないくらいだ。 もちろん、嫌々ながらのお見合いのあとの、豪華な食事は何度もした。だが、それは互いの腹を探り合うビジネスランチみたいなもので、条件が合わないと分かると二度と会うこともない。 だが、好きな相手との食事なら、レストランの格もメニューも、周囲の雑然とした煩さも問題にならない。たとえそれが100円ちょっとのハンバーガーであっても、恋する二人には、立派なデートなるのだから。 そんなことを考えながら、早妃子は隣りの平岩をちらりと伺った。 こんなイケメン、一緒に連れて歩くだけでもウキウキしそうなものなのに、どうしてか今の彼女にはその喜びが湧いてこなかった。 何か女も三十過ぎると色気も干からびて、殺伐としちゃうのかなぁ。 やはり自分の方が5つも年上の同僚で、しかも役職が上だということが、どこか頭の中に引っかかっているのだろうか。 正直なところ、父親とのいざこざで、彼が早妃子に同情してくれていることは分かっているから、それに負い目を感じないと言えば嘘になる。 だが、この件で平岩が思っていた以上に思慮深い、気配りのある男だと分かってから、早妃子は彼を後輩としてではなく、一人の男性として見るようにもなっていた。 上辺の良さだけでなく、中身もなかなかジェントルなのよね、彼って。 だからこそ、お情けで恋人のふりをしてもらっていることが、どうにも申し訳なく思えてしまう。 彼が優しくしてくれればくれるほど、その演技に心を動かされてしまう自分が惨めだった。 その気持ちの裏返しで、いつもこんな風に彼に対して邪険に接してしまい、後で一人になってから、自分の言動に自己嫌悪を繰り返すのだ。 何で彼の好意を素直に受け取れないんだろう。 理由は分かっている。彼が紛い物の恋人だからだ。 どんなに彼が欲しくても、絶対に手に入らない存在。なぜなら、彼は義務感で一緒にいてくれるだけで、決して早妃子自身を愛しているわけではないのだから。 「早妃ちゃん?」 気が付けば、横で平岩が呼んでいた。 「どうかした?心ここに非ずって感じだけど。どこか具合でも悪いのか?」 その心配そうな表情を見た早妃子は、突然どうしようもなく切ない気持ちになった。 この人が本当の恋人だったら……自分のことを本当に好きになってくれた人なら、どんなにかいいのに。 そう考えると、涙が出てしまいそうだ。 早妃子は何とかそれを抑え込むと、無理をして作り笑いを浮かべた。 「ううん。なんでもない。それより、もうおあいそしてもいい?」 「あ、ああ。いいけど……」 何か言いたそうな平岩から目を背けると、彼女は備え付けの呼び出しボタンに指を掛ける。そして俯いたままで、バッグから財布を取り出した。 「今日は私に払わせて」 「いや、いいよ。俺が」 「いいから。先に出ていてくれる?私、会計の後でお手洗いに寄って行くから」 そう言って、渋る平岩を無理やり席から押し出した早妃子は、彼に気付かれないように紙おしぼりで押さえた鼻をくすんとすする。 もうこれ以上彼に気を遣わせてはいけない。 私は年上の先輩なんだから、もっとしっかりしなきゃ。 早妃子は心の中で自分にそう言い聞かせると席を立ち、何事もなかったかのように、平然とレジに向かったのだった。 HOME |