chapter? 「Bitter」 な彼女 2
早妃子は咄嗟に目についた男物の革靴を、慌てて下駄箱に隠した。 それからチェーンを掛けたままでドアを細く開け、外をうかがうようにのぞいた彼女に、扉の前に立つ女性が呆れたような顔をする。 「何か御用ですか?」 「御用って、早妃子さん、あなた今日が何の日だか忘れたの?」 「今日、今日って……ああーーーっ」 「その様子だと、完全に忘れていたみたいね」 彼女のその反応を見た女性は、諦めたような顔で深くため息をついた。 「今日はあなたのお見合いの日でしょう?」 完全に忘れていた。というよりも考えたくもなかったという方が正解だ。 両親に勧められた相手との見合い。今までならば即座に拒絶するところだが、友人の結婚にショックを受けた早妃子は、その場での即答を避けた。 それをよい兆しと受け取ったのか、父親はえらく乗り気で話を進め始めるし、今ここに来ている母親に至っては、当日何とか着物を着せようとさっさと美容院の予約までしてしまう始末だ。 もちろん、その後早妃子は見合いをしたくない旨の話をした。 だが、両親は「とにかく会ってみるだけでも」と今回はなかなかしぶとく諦めようとはしない。 確かに条件的にはなかなかの上物……(おっと失礼、表現がお下品でしたわね)であることは間違いない。 某有名私立大学の政経学部卒。現在はメガバンク系のフィナンシャルグループに勤務していて、将来は海外赴任も視野に入れているという。 だが、得てしてこの手のタイプの男は、妻が長時間外で働くことを好まない。ましてや、仕事を辞めてまで海外勤務に同行など、端から考えたこともない早妃子には、理想的な相手とはいえないだろう。 「だから、お父さん、先方とちゃんと話をしてくれたの?私が言った条件で良いって確認をとってくれた?」 「ええ、それは多分お父さんが……」 何とかドアを開けさせて、玄関に入った母親の言葉を濁す様子からして、おそらく父親は面倒なことは何も言っていないのだろう。 大体、見合い前にこちらが出した条件が、 一、結婚後も仕事を続ける。 二、子供が生まれたら、夫も必ず育休を取る。 三、家事、子育ては夫婦できっちり半分ずつ。 四、互いに転勤になった場合は、単身赴任をして、こちらに残る方が主に子供の養育をする。 である。 常識的な感覚の持ち主、ましてや家庭を守る妻を欲しがるタイプの男性ならば、これを聞いた時点で「この話はなかったことに」となるのが普通だろう。もちろん彼女自身、それを見越してかなり無謀な条件をわざと吹っかけたのだ。 「でも、先方も乗り気みたいなのよ。懐石のお店にお食事の予約だってしちゃってるし」 母親は、そう言って何とか早妃子を連れ出そうとする。 「それはお父さんと君江さんが行って来ればいいじゃない。何だったらあちらには本人急病とか言って断ってしまって」 目の前にいる母親の名は君江という。実は彼女は早妃子の本当の母親ではない。早妃子の父親が実母と離婚した後、後妻として六嶋家に入った女性だ。 幼いころから一緒に生活してきたし、小学校に上がるくらいまでは君江を本当の母親だと思ってきた早妃子は、もちろん彼女を嫌う気持ちはまったくない。 だが、彼女の「女の幸せは結婚すること。女は家を守るのが務めであり仕事」という超がつくほど保守的な考え方には正直ついていけないところがある。 早妃子には、君江と父親の間に生まれた二人の腹違いの弟がいて、二人とも既に結婚をしているが、この姑相手では弟の妻たちはさぞ苦労し、辟易していることだろうと、ひそかに同情してしまうくらいだ。 大体、男尊女卑の考えに凝り固まっていて、いまだに男子厨房に入らずを地でいく父親とは似たもの夫婦でちょうど良いのだろうが、それを子供にまで押し付けるのはどうかと思う。 大人になって、当時の事情を知る親戚筋から聞いた話では、早妃子の母親が家を出て行ったのも、どうやらそれが原因らしい。 まぁ、頭の固い父親にしてみれば、子供の中で一番年上の、それも女の早妃子が三十を過ぎてもまだ嫁に行かないことは、さぞ体裁が悪く、歯がゆい思いをしているのだろう。 「とにかく、私は行かないわよ」 「そんな、あなたを連れて行かないと、お父さんに何て言われるか……」 そう言って、君江は取り出したハンカチでわざとらしく目頭を押さえる。 「あなたなら『煩い、黙らっしゃい』の一喝でおしまいじゃない?ちょっと、君江さん?涙、全然出てないし」 「あ、やっぱりバレてる?」 悪びれずに笑いながら、暑い暑いとハンカチで顔を仰ぐ君江には、早妃子も苦笑いするしかない。 この人のこういうところは憎めない。何といっても、一応育ての母ではあるし。 「もう、あのクソ親父に私に構うなって言っておいて。自分の結婚相手くらい自分で探すから」 「そうは言ってもねぇ……」 君江の深いため息が意味するものを考えると、こっちも一緒に落ち込みたくなる。なぜこんなに婚期が遅れてしまったのか、その理由は自分でもよく分かっているのだから。 「もう今までみたいに高望みしないから。でも、最低限譲れない条件は飲んでもらいたいのよね」 「でもねぇ、早妃ちゃん」 昔のように呼ばれて、ちょっとどきっとした。 はっきりいつからという記憶はないが、中学生になった頃から、早妃子は君江のことを「お母さん」と呼ばなくなった。多分その頃の自分は反抗期だったのかもしれないが、以来ずっと、母親を名前で呼んでいる。同じように、君江も彼女のことを「早妃子さん」と呼ぶようになったが、小さいころは「早妃ちゃん」と呼んでいた。 もう遠い昔のことだ。 こう見えて、この人もきっと苦労したんだろうなぁ、あの頑固オヤジに加えて、こんなひねくれた、なさぬ仲の子までいる家に、若くしてお嫁に来たんだから。 そんな感慨に浸っている早妃子だが、君江はなかなか容赦がない。 「あなたももういい年なんだし、出会いって、どこにどういうきっかけがあるか分からないものなのよ。だったら、できるだけチャンスを活かさなきゃ。ほら、早く出かける用意をして。美容院、予約は9時だから」 「だから、自力で何とかするから、今日のお見合いは……」 「早妃子?」 その時、奥の方から彼女を呼ぶ声が聞こえた。 あんのバカがぁ、何しに出てきたのよ、こんなタイミングで。 「誰かいるの?」 その声を聞きつけた君江は、覗くのに邪魔な彼女を押しのけるように伸びあがって奥をうかがう。一方早妃子は、それを抑え込みながら躍起になって視界を遮ろうとする。 二人の動きはまるでコントか掛け合い漫才のようだ。 早く奥に引っ込め、このすかたん野郎〜〜〜! 自分の焦りをよそに、玄関に姿を現した直毅を見た早妃子は、思わず目を剥いた。 「ちょ、ちょっと、平岩君」 彼は上半身裸で、スラックスを引っかけただけの状態でこちらに近づいてきた。 さっきベッドで向き合った時には気が動転していて、そんなところまで気が付かなかったが、改めて目にした平岩の体躯は思った以上に筋肉質で男らしいものだった。 ただし髪は寝乱れてくちゃくちゃ、顔には薄らとひげが浮かんでいる。いつものきっちりとしたイケメンスタイルからは想像もできないくらい、ワイルドな男くささを漂わせていて、その上どう見ても寝起きにしか見えない。 あら、なかなかいい体してるじゃない。 一瞬彼の体に見とれた早妃子だが、今はそんなことを悠長に考えている場合でははない。 こんな時間にこの格好で女性の部屋にいるということは、親密な付き合いをしていると誤解されても仕方がないだろう。現に、君江は不審な目で彼女と平岩の顔を交互にちらちらと見ている。 「早妃子さん、この方は?」 「あ、この人は会社の同僚で……」 「平岩と申します。早妃子さんにはいつもお世話になっております、公私ともに」 こらぁ、ちょっと待てぇい。 何てこと言うのよ。この口先男が。 彼女の説明を遮り、おまけに最後にいつもの罪作りな笑顔でつけ加えた一言を聞いて、早妃子は非難がましい目を彼に向けた。 「もう、嫌だわ、早妃子さんったら。こんな格好いい彼氏を隠しておくなんて」 彼の笑顔に一瞬で悩殺された君江は、年甲斐もなく頬を赤く染めながら、早妃子に向き直った。 「か、彼氏って、別にこの男は……」 「そうなんですよ。彼女、どこに行ってもなかなか彼氏だと<紹介してくれなくて。やっぱり年下って、頼りなく見えるものなんでしょうかね」 「まぁ、あなた、この子より年下なの?」 「ええ、5才ばかり」 「まぁ、5つも。でも大丈夫よ、愛があれば年の差なんて」 何かちょっと言葉の引用の仕方を間違っているぞ、と思いながら、早妃子は妙に嬉しそうに納得している君江に向かってそれを否定しようとした。 「だから、違うって……」 平岩は背後から早妃子の肩を抱くと、再度極上の……フェロモン垂れ流しの笑みを君江に向けた。 「ですから、今日の見合いの話は……なかったことにしていただけませんか」 「ええ、そういうことなら仕方がありませんわ。今日はこのまま帰ります。お父さんにも聞き分けてもらえる理由ができたし。先方さんにもちゃんとお断りしておきますからね」 君江は最後に「次のお休みには、家の方に彼氏を連れていらっしゃい」と言い残して帰っていった。時計を見ると、今は8時20分。いつもの休日ならまだベッドでごろごろしている時間だ。 怒涛の30分を乗り切った早妃子は、やっと肩の力を抜いてほっと一息ついたが、とりあえず今日の見合いは流れたということに安堵した反面、新たな悩みを背負い込んだことに気が付いた。 この分だと、近いうちに自分の両親が要らぬお節介を焼き始めることは想像に難くない。その時に、この嘘をどう誤魔化すかを今から考えておいた方がよいかもしれない。 口から出まかせに調子のよいことを言った平岩だが、彼の言葉で当面の危機が回避されたことを思うと、一方的に非難することもできなかった。 「まぁ、とにかく助かったわ。ありがとう平岩君」 「いえ、どういたしまして。でしたらお礼は目覚めのチューで」 「まだ言うか、この半裸人」 上半身裸のままで自分に迫ってくる平岩の鳩尾に一発、拳を打ち込むと、彼はその場にしゃがみ込んで唸った。 「うがっ、酷いなぁ、早妃ちゃん」 「誰が『早妃ちゃん』ですって?ほら、バカなこと言ってないで、シャワーでも浴びてきて。その間に朝ごはんの用意をしておくから」 「どうせなら早妃ちゃんもご一緒に」 「アホ」 そんな平岩を冷たい目で見おろしながら、早妃子はさっさと奥のリビングに引き上げて行ったのだった。 HOME |