おひな様 ☆ らぶ 前編
『お寿司、食べたいなぁ』 唐突に萌は思った。 何といっても明日は3月3日ひな祭り。今まではずっと、毎年この日は母親がちらし寿司を作ってくれていた。あとは菜の花のおひたしや蛤のお吸い物。子供の頃にはお供えした桜餅やひなあられを後で頂くのが楽しくて仕方がなかった。よく近所に住む祖父母も招いて、皆で卓を囲んでささやかなお祝いをしたものだ。 先週家に帰ってみると、母親が萌のお雛様を出して飾ってくれていた。 お内裏様とお雛様と三人官女が入ったガラスのケースを思い浮かべながら、子供の頃は豪華な段飾りがいいと駄々をこねたりしたことを思いだした萌はくすりと笑った。 「どうした?」 今は昼休み、彼女は郷原と二人で近くのお店でランチを食べていた。 営業で日中はほとんど外に出ている彼と一緒に昼ご飯を食べる機会はほとんどない。それにいつもはお互いに平岩や早妃子や美幸の誰かと一緒にいることが多いので、二人きりでということは本当に珍しいのだ。 「ううん。何でもない」 萌は目の前のランチのハンバーグにお箸を入れながら答えた。 「さっきから一人でにたにた笑ってたんだぞ。不気味だ」 「ぶっ不気味って、その言い方何かすごく失礼ですぅ」 「だが、それ以外に言い表しようがない顔だった」 「もうっ」 萌はぷっとむくれて熱い大きなままの肉の塊を口の中に放り込んだ。 「きっとまた何か妙なことでも考えていたんだろう?それか、いつものごとく食べ物のこととか」 それを聞いた萌は図星を突かれて目を剥いたが、口が一杯でもごもごしていてすぐには何も言い返せない。ようやく口の中のものを飲み下した彼女はそれを流し込むようにごくりとお水を飲んだ。 「だ、だからぁ、明日はおひな様だなぁって思って。それで……」 「そうか、明日は3月3日か。あんまり男には縁も興味もない祭りだからピンとこなかった」 郷原は指先で顎を掻くと首を捻った。 「で?」 「あのぉ、お寿司……食べたいなぁって」 「ビンゴ。やっぱり食い物か」 妙に納得した顔をする郷原にデコピンを食らわそうとするが、ひょいと後ろにかわされる。 「食べたくないですか?お寿司と蛤のお吸い物。郷原さん、お寿司、すっごく好きじゃないですかぁ」 「寿司は大好物だ。そうか、なら明日は夕メシに寿司でも食いに行くか?」 「あ、簡単なもので良かったら、私作りますよ」 「メグが?」 「そんな顔しないで下さいって。大丈夫ですよぉ、家でも手伝いしていたんですから。酢飯はお寿司の素を使って、あとは上に貼るものを準備するだけでなんで簡単です」 「それじゃ、明日の夜はウチに来るか?何だったら平岩たちも誘って」 「いいですよ。今日帰りに材料を買って仕込んで、あとは飯切(はんぼう)の代わりになりそうなものを近所の100均で探してみます」 「あ、すし桶ならあるぞ。使ったことはないが」 「何で一人暮らしなのに、そんなもの持ってるんですかぁ?」 「景品で当たった。手巻き寿司セットとか言ってたな」 「あ、それ使えそうですね。それじゃぁお借りします」 ということで、翌日は平日ながら、郷原のアパートでひな祭り寿司パーティが開かれることとなった。生憎と平岩と早妃子、それに声を掛けた美幸は予定があり参加できなかったので、パーティといってもいるのは郷原と萌の二人だけ。いつもの週末の夕飯と同じだけれど。 翌日、定時で仕事を終えた萌は、まず自分のマンションに帰った。そこで服を着替え、寿司の下準備をして郷原が迎えに来るのを待つ。 7時前に郷原が車で下に着いたとの連絡が入り、彼女は自分のバッグと詰め込んだタッパーで破れそうに膨らんだ紙袋を下げて部屋を出た。 「ご飯は大丈夫ですか?」 「ああ、一応言われた通り、固めになるように水加減してきた。あとはここに来ている間にタイマーでスイッチが入るようにしておいたから」 「助かりますぅ。かなり時短できます」 「まぁ、これくらいはできるからな」 「大丈夫です。これ以上レベルの高いことは求めませんから、安心してください」 「……言うなぁ」 自炊歴10年を超える彼だが、確かに萌の料理の腕には敵わない。仕方なしにやっていた自分と違って、彼女は料理もお菓子作りも好きだからなのだろう。 恐らく彼女のレベルなら、大概の男が胃袋で釣れるのは間違いない。 郷原のアパートに着いてすぐ、寿司や副菜を作り始めた萌を残し、郷原は「ちょっと出てくる」と言って外出していった。 そしてしばらくして戻ってきた彼の手にあったのはなぜか ―― 「ケンタ?」 「ああ、醤ダレにしておいた。メグも食うだろう?」 「何でまた」 「食べたくなるんだよな、なぜか寿司を食っていると無性に唐揚げが」 「変ですぅ」 「そうか?」 「でも良い匂いでしますね。美味しそう」 「そっちはもうできたのか?」 「あとちょっとです」 「それじゃ、向こうの準備でもしておくか」 「お願いしますっ」 他にも何か買い込んできた袋を冷蔵庫に入れると、彼はキッチンを出て居間代わりにしている隣の部屋へ行く。 その後、すべての料理が揃って二人がテーブルについたのは9時を少し回った頃だった。 「ちょっと急いだのでまだ少しお寿司が温かいし、それ以外は手抜きもしていますけど」 それでもテーブルの上にはお寿司とお吸い物、それにわけぎと蛤の酢味噌和えや茶碗蒸しが並んだ。ついでにケンタッキーもどんと盛り付けてある。 「いや、充分だ。あの短時間でこれだけのことができたらすごいよ」 それを聞いた萌は嬉しそうに笑った。 「そう言ってもらえてよかった。あとは味ですね。大丈夫かなぁ」 いただきますの言葉と同時に、箸を持った郷原が、料理に順番に手をつけていく。 「うん、美味いよ」 「ほっとしましたぁ」 よほど美味しかったのか、郷原は無言で食べ続け、それを見ながら萌も箸を進める。粗方テーブルの上が片付いたところで、お寿司の残りはタッパーに詰め直した。 「うーん満腹」 郷原は満足げに座椅子に凭れると、お腹を擦った。 「その格好、何かオッサンくさいですよ」 「いいんだ。もう僕もオッサンになりかかってるんだから」 そう言いつつも顔を顰めて居住まいを正す郷原に、萌が笑った。 「それじゃ私台所で片づけをしていますから、少し休んでいて下さい」 「なら僕は風呂の用意でもするかな。どうする?風呂に入って、ついでに泊まって行く?」 今日は彼も珍しくビールを飲んでいなかったので、彼女が帰ると言えば送って行くつもりだった。 「そうですね。明日会社に行く服もあることだし、今夜は泊めてもらっていいですか?」 何度か郷原のアパートに泊まるうちに、萌の私物も少しずつここに置かせてもらうようにしていた。だから下着やパジャマ、それにいざと言う時のために通勤用の服や靴までストックしてあるのだ。 「分かった」 二人はそれぞれキッチンと風呂場に分かれて仕事をこなす。 まだ少しかかるから先に行って下さいという萌の言葉に、郷原は風呂に湯を張ったついでに入浴も済ませた。 「お先に。メグも片付いたら行ってこいよ。まだ何かあるなら僕がやっておくからさ」 「はい。こっちももう済んだので大丈夫ですよ」 エプロンを外す萌を横目に見ながら、彼は冷蔵庫からコンビニの袋を取り出した。 「メグもいる?」 中から出てきたのは、コーラだった。 「へぇ〜コーラですか?」 「よく分からないんだが、子供のころから寿司を食べた日の夜にはこれが飲みたくなるんだ。理由は不明」 萌はどちらかといえばあまり炭酸系の飲み物は得意でない。だからアルコールもビールやチューハイが嫌いではないがたくさんは飲めなかった。 「郷原さんが飲んだあと、最後の一口下さい」 「そんなんでいいのか?もう1本あるぞ」 「いいんです」 さすがに一口とはいかず、彼は四分の一ほど残してペットボトルを彼女に渡した。 「これをこうして……っと」 萌は再度蓋を閉めると思い切りシャカシャカとボトルを振る。 「おい、そんなことしたら……」 「大丈夫ですよぉ、こうしたらちょっとだけ炭酸が抜けて飲みやすくなるんです。残りって言ってもこれだけですから」 郷原の心配をよそに、にっこり笑いながら、彼女はぐりっと蓋を捻った。 と、その時だった。 泡立ったコーラが見事に開いた口から溢れ出したのだ。 「きゃっ」 「おいおい」 彼が首にかけていたタオルを取る間もなく、噴き出した液体は萌の顔から下、主に上半身に飛び散り、そのまま流れ落ちた。 「だから言わんこっちゃない」 タオルで彼女の顔と髪の毛を拭きながら、郷原は笑いを堪える。 コーラの雨の洗礼を受けた彼女は、目を真ん丸にしたまま呆然としていたからだ。 「嘘っ。こんなこと初めて……」 「ついでに風呂に行って来いよ。ここは僕が片づけておくから」 「でも」 「そのままだとべたべただぞ。服もシミになるかもしれないし」 「そ、それは困りますぅ」 「そうと分かったら、ほら、早く行った行った」 「すみません、それではお言葉に甘えて」 すごすごとキッチンから風呂場に向かう萌を見送ると、郷原はキッチンペーパーと雑巾代わりのタオルで床に流れ落ちたコーラをふき取った。よく見れば食器棚のガラスや冷蔵庫の扉など、あちこちに飛沫が飛んでいる。 「アイツ、時々想定外のことをするよなぁ。そこが面白いと言えば面白いんだが」 郷原はコーラがしみ込んだタオルを持って洗面所に向かった。 このまま置いておくのもなんなので、今日の洗濯物と一緒に洗濯機を回そうと思ったからだ。 そこで何気なく、いつもと同じようにドアを開けた。 すると風呂に入ってるはずの萌がまだそこにいたのだ。 「キャーーーー、まだ入って来ちゃダメですぅ」 それも、なぜかパンティ1枚身に着けただけの姿で。 |