chapterT 「Sweet」 な彼女 7
そして週が開けて月曜日。 休憩室の隅にある飲食スペースで、いつものようにお弁当持参の萌と、コンビニでおにぎりとサンドイッチを買ってきた六嶋、それに今日は派遣社員の尾藤も一緒にテーブルを囲んでいた。 お昼時、周囲には誰もいない。というよりも、男性陣はいつものごとく炸裂する赤裸々なガールズトークに恐れをなし、ここにはあまり近づいて来ないのだ。 「うわー、そんなことがあったなんて、電話では全然言わなかったじゃない」 金曜の夜から土曜日の朝にかけての出来事を報告する萌の話を、六嶋は驚きの声をあげながらきいている。その間に、既に2個のおにぎりが彼女の胃袋に納まったが、六嶋はなおも新たにサンドイッチの袋を開け始めている。 「だって、まだあの時には側に郷原さんがいたし……」 「ふうーん。で、本当に何もなかったの?」 「はい。郷原さん、雰囲気のないラブホで初えっちするのは嫌だって」 「へぇ〜意外。あのマッチョな体で、案外繊細なことを言うのね」 「あ、でも分かる気がします。だって、メグちゃんにとっては、一生に一度の経験になるんだから、できるだけ良い思い出に、っていうその気持ちは」 尾藤はそう言うと、萌に向かってにっこりと笑った。 「ちゃんと気を使ってくれそうな人で、良かったわね」 「はい」 尾藤は業務グループ4人の中で、唯一の既婚者だ。 昨年から営業部に在籍しているが、派遣という身分のせいか、あまり他の社員と交流を持っていない。一緒に机を並べて仕事をしている萌でさえ、彼女のプライベートな部分はほとんど知らないのが実情だ。 既婚者というのも、尾藤が左手の薬指にマリッジリングをしているせいでそう言われているだけで、実際には誰もご主人という人に会ったことがない。 いつも控えめで穏やかな性格だが、仕事は正確ですこぶる速く、今まで上司からも何度となく直接雇用を打診されるほどの切れ者だった。 「でも、まさか本当に彼に突撃していくとはね」 サンドイッチを平らげ、ペットボトルの紅茶を飲みながら、六嶋が呆れた顔をする。 「はい。私も、まさかそれでOKがもらえるとは思っていませんでした」 「まぁ、郷原なら目を瞑ってやるか。独身だし、変な浮ついた話もないし」 六嶋は何やら一人ぶつぶつ言いながら、考え込んでいる。 「それで、真剣にお付き合いするの?」 尾藤は最後に弁当箱に残ったプチトマトを箸で摘む萌に、心配そうに聞いた。 「はい。そういうことをするなら、ちゃんとしたお付き合いをしようって言われました。えっちするだけの……セフレみたいな関係は嫌なんだそうです。だから勢い、次のデートの約束もしちゃいました」 あの後、帰りのタクシーの中で、郷原の方からそう言ってきたのだ。彼に望むのは「初体験の相手」だけのつもりだった萌にしてみれば、驚いたが嬉しい提案だった。 何せ今まで彼氏イナイ歴23年。まさかこんなきっかけで男の人と付き合うことになるとは思っても見なかったのだ。 「セフレは嫌って……そりゃまた、随分とあからさまなご発言だわね」 六嶋は呆れたような口調でそう言うと、昼食時に出たゴミをまとめ始める。 「まぁ、でもこれで安心したわ。メグが酔った勢いでヤリ逃げなんてされてたら、私が彼を捻じ込まなくっちゃいけなくなるところだったから」 そこで丁度午後の始業のチャイムがスピーカーから聞こえてきて、3人は急いでテーブルの上を片付け、席を立つ。 「そういえば、六嶋先輩、土曜日に何かあったんですか?」 給湯室に寄っていくからと尾藤が先に休憩室を出ていくと、残された萌は六嶋に気になっていたことを聞いてみた。 「え?何かって?」 「だって、先輩、電話で話したときに何となくおかしかったから。話していても上の空っていうか」 「そ、そんなことはないわよ」 「でも」 「メグの気のせいよ。さあ、仕事、仕事。午後からもビシビシしごくからね」 「ええ、そんなぁ、先輩待ってくださいよ〜」 上手くはぐらかされたような気もするが、結局その後、話はうやむやになってしまった。 その時の萌は、まさか自分の行動の余波が他に及んでいるとは思いもしなかったのだから、仕方がなかったと言ってしまえばそれまでだが。 同じ頃、その日は珍しく昼まで社内にいた郷原と平岩は、近くの定食屋で一緒に昼食をとっていた。既に日替わりランチのカツ丼を食べ終えていた二人は、悠々とお茶をすすっている。 「で、お前もうあの子と寝たのか?」 「いや、まだだ」 「へぇ、お前にしては慎重だな」 それを聞いた郷原が悩ましげな顔をする。 「そりゃそうだろう、相手は自称、生まれてこの方男と付き合ったこともないっていう、天然ドジっ子だぞ。幾らなんでも、キスの仕方も知らないような子を一足飛びにベッドに連れ込めるわけがないだろうが」 最初は郷原も、萌の受け答えを演技ではないかと疑っていた。このご時勢、セックスについて本当にここまで天然なボケをかますことのできる女がいるとは思ってもみなかったからだ。 だが、いくら話題を振っても、どこか微妙にズレた反応しか返ってこない。おまけに、本人は至極真面目。わざとウケを狙っている様子はまったく見られなかった。 コンビニの駐車場の前で、呼んだタクシーを待っている間に交わされた会話を聞いたら、多分平岩は笑い転げるだろう。 何せ、彼女の表現はストレートだ。 「あの……一つうかがいたいことがあるんですが」 「何かな?」 「もし、もしですよ。えっちする時、二人のそのサイズが合わなかったらどうなるんですか?」 「サイズ?」 「あ〜、つまりはえっちする時に、サイズ違いで穴に入らなかったどうしようかと、急に心配になって」 「はぁ?」 それを聞いた郷原は、思わず手にしていた缶コーヒーを取り落とした。 「だって、郷原さん、体が大きいから、アレも絶対に大きいって。よくよく考えたら、私自分のサイズって知らないですから」 「き、君だけじゃなくて、女の人の大半は自分のサイズなんて知らないと思うよ」 それどころか、そんなところにサイズがあるなんて聞いたこともない。 確かに外国の避妊具にはラージサイズがあることは知っていたが、少なくとも日本製でそういうものはお目にかかったことがないし、自分もそこまでは必要ない。 「裂けたらどうしましょう。きっと痛いだろうし」 郷原は、「そんな心配は無用だ。大体出産時には、そこから赤ん坊が出てくるんだよ」と言いかけて止めた。 これ以上底なし沼のような、この会話にはまってしまったら、抜け出せなくなるように思えたからだ。 「郷原さん、よろしくお願いします」 今からこんなことをお願いされても困ると思いつつ、真剣な顔で頭を下げる萌にそれを言うこともできず、彼は曖昧に頷いた。 「あ、ああ。善処するよ」 どうも調子が狂うなぁ。 郷原はタクシーに乗ってからも、そんなことを考えていた。 エロい言葉もさらりと口にする様子から、俗に言うカマトトというやつとは違うだろうが、突っ込みどころ満載の彼女との会話は妙なツボに嵌る。 だからといって常識がないわけではなく、何せタクシーに乗って、萌が最初に言ってきた言葉が、 「郷原さん、ホテル代とタクシー代、ワリカンにして後でちゃんと請求してくださいね」 だったのだ。 こういう場合、成り行きとはいえ金の払いは男が持って当然という認識は彼女の中にはないらしい。 その、他人に媚びない、頼り過ぎない、筋の通った考え方に好感を持ったのは確かだった。 この子と付き合ってみるのも、面白いかもしれない。 そう思ったから、タクシーの中でそう提案してみたのだが…… 「えっ、本当ですか?」 嬉しそうに即OKした彼女の口から飛び出した言葉に、思わず唸りそうになった。 「それでは、レッスン1として、手繋ぎデートからお願いします。行き先は動物園か遊園地、もしくは雨天ゲーセン。頑張ってお弁当作ります。きゃ〜楽しみですっ」 おいおい、お前は中学生か? 突っ込みそうになったが止めておいた。というのも、前にいるタクシーの運転手の肩が小刻みに震えているのが目に入ったからだ。笑い声を出さないよう、必死に耐えている彼にこれ以上の苦悶を与えては酷だろう。 遊園地から始めて、大人の関係に至るまでどのくらいかかるのだろうか? 何だか考えるのがバカバカしくなった。 それでも側で彼女の幸せそうな表情を見ていると「それでも、まぁいいか」と思えてしまう。そんな、ほんわか甘い雰囲気が彼女の周囲には漂っているのだ。 「甘いよなぁ」 食後に頼んだアイスコーヒーを飲みながら、郷原がぽつりと呟く。 「えっ?ガムシロップ入れたのか?」 向かいに座る平岩が不思議そうな顔をする。 「いや」 そうじゃないと言いかけて、目の前にあるコーヒーを見つめた。 ここのところずっと、甘さのある付き合いなんてしてこなかった。相手もモーニングコーヒーはブラックを好むようなタイプばかり。 それはそれで満足していたが、たまにはとびきり甘いものを飲みたくなることだってある。 もちろん、甘い女性も然りだ。 現に、この前コンビニでブラックコーヒーを2コ買おうとした彼に萌が言ったのだ。 「すみません、私コーヒーは甘くないと飲めないんです。できたら甘いカフェオレでお願いします」 カップタイプの甘いカフェオレを嬉しそうに啜る彼女を、可愛いと思ってしまった自分がおかしい。 多分、彼女は甘い。 味見した唇だけでなく、ちょっとズレた考えも素直そうな性格も、きっとどこを舐めても裏表なくほんわかと甘い味がするのだ。 本気で付き合ってみるか、あの天然甘味料たっぷりな女の子に。 知らぬ間に自分の方からお砂糖たっぷり摩訶不思議な極甘世界に飛び込んでしまったと彼が実感するのは、もうしばらく後のこと。 HOME |