chapterT 「Sweet」 な彼女 5
「何か面白いものは見つかったかい?」 「ひっ」 突然声を掛けられた萌は、振り向きざまに手にしていたカタログを背中に隠した。 「いえ、別に……」 スラックスに上半身は裸のままの郷原は、つかつかと彼女の側に歩み寄ると、後ろに回った手から薄い冊子をひったくった。 「あっ」 「こんなものはまだ初心者には早いよ。大体君は、男よりも先に酒の飲み方を覚える必要があるな」 それを言われるとぐうの音も出ない。 「はぁ……本当にご迷惑をお掛けしました」 萌はしゅんとして肩を落とした。 その間に、彼も冷蔵庫から缶のウーロン茶を取り出してきて、プルトップを押し開ける。ごくごくと飲む喉のあたりが力強く動き、思わず萌の目はその様子に釘付けになった。 「ところで、昨日言ったことを覚えている?」 「言ったこと?」 そう問い返しながら、覚えがないのにこれ以上自分が何をしでかしたのかと戦々恐々だ。 「ほら、『初めての』云々ってやつのこと」 「ああ」 よかった。それだけはしっかりと覚えていた。 「素面に時にもう一度聞くけど、何で僕を相手にしようなんて考えたんだ?」 「もちろん、郷原さんが素敵だからです。それに……アレがすこぶる丈夫で、一晩中でもOKなくらい元気だし、おまけにベッドで女性の扱いが巧いって」 よどみなくそう答えた彼女の言葉に、郷原は飲んでいたウーロン茶で咽た。 「だ、誰にそんなことを聞いたんだ?」 「え?だって皆さんそう噂していますよ」 「皆さん?」 「主に会社の……女性の社員さんですけど」 確かにそこそこ遊んでいる自覚はあるが、知らぬ間に女性たちからそういう評価を受けていたとは。 入社以来、そちら方面はマメな平岩に任せ、自分は社内の女性には声を掛けず、できるだけ目立たないようにしてきたつもりだった。 「あ、でもあくまでも噂ってやつみたいです。誰も実際に郷原さんとえっちしたことがあるって言う人はいなかったし」 「当たり前だ」 今の会社に入って5年。 一度も社内の女の子と寝たことはない。 公私のケジメをきっちりとつけ、プライバシーを守るためにも、プライベートで同僚と……特に女性社員とは付き合うことを避けてきたのだから。 「みんな言ってましたよ。郷原さん、体ががっしりしているから、きっとアレも大っきくて『絶倫』なんだって」 「あのなぁ……」 今度は郷原ががっくりとうな垂れながら、側にあったベッドに腰を下ろした。 どうやったら見たこともない彼のモノをそんなに誇大評価できるのだろう。誰か下着の中まで見通せる赤外線カメラのついた目でも持っている奴がいるんだろうか。 女の思考って、よく分からん。 「だから……そっち方面に慣れている郷原さんなら、私みたいな初心者でも巧くリードしてくださると思ったんです。何せ私、今まで本当に男の人に接する機会がなかったもので」 「そんなことは恋人を作って、彼氏に頼めばいいだろう?」 彼の至極ご尤もな言い分に、萌は困ったように首を振る。 「彼氏って、欲しいと思っても望みどおりにできるものではないんですね。あれだけ男性が一杯いる職場にいても、誰も声をかけてくれないし。ちょっとは期待していたんですけど……」 それは多分、彼女の先輩であり、指導員でもある主任の六嶋が睨みを利かせているせいだ。営業部には仕事はできるが素行の良くない男性社員が少なくない。確か昨夜の酒席でも、入社したばかりの女の子を奴らの毒牙に掛けてはなるものかと六嶋が息巻いていた。 「それに私、男の人と付き合ったこと自体なくて、何をどうしたらいいのかもさっぱり分からないんです。だから、誰かに手ほどきしてもらったら、それなりにノウハウも得られるかなぁって」 もう一つ、口には出さなかったが、彼女が郷原を選んだ大きな理由があった。 彼ならは、自分を軽々と抱き上げてくれそうに思えたからだ。 夢にまで見た、憧れのお姫様抱っこ。 平岩も背丈は大きいが、何分スマート過ぎてどうも信用ならない。その点郷原なら、上半身は筋骨隆々、抱っこどころか肩に座らせてもらってもびくともしないだろう。イメージでいうなら、恋人ジェーンを軽々と抱えて木々を飛び渡るターザンといったところか。 「それはどうかな」 郷原の言葉に、萌は妄想から現実に引き戻された。 「僕はその考えには反対だ。そんなふうに自分を粗末にしてはいけないよ。それに、男がみんなそんな誘いに簡単に乗ると思ったら大間違いだ」 「でも、男の人って、軽い遊びならすぐにOKしてくれるって……」 「中には、一握りだけどそんなヤツもいるさ。でも自分の人生の一大事をわざわざそんな碌でもない男にくれてやる必要はないだろう。それにやっぱり危険だよ。もし病気をうつされたりしたらどうする?相手が避妊を怠ったら?後々大変なことになる可能性だってあるんだし」 「でも、郷原さんは……普通の男の人は、私みたいな女は嫌なんですよね?」 「私みたいな女って?」 「多分私、いざそうなっても何もできないで、ただベッドに転がっているだけなんじゃないかと思うんです。そういうのを男の人は『マグロ』って呼ぶんでしょ?」 それを聞いた郷原は、思わず頭を抱えた。 一体このドジなお嬢ちゃんは、どこでそんな無駄な知識を詰め込まれてきたのだろうか。 「だったら多少遊んでいるくらいの人の方が、私みたいなのはてきぱき捌いてくれるかなぁと思って」 「てきぱき捌くって、それこそマグロの解体ショウみたいにかい?」 「あ、ちょっと意味あいは違いますけど、そんな感じですかね」 彼女は本当にその「意味」が分かっているのか。言葉だけ聞いていると彼には甚だ疑問に思えた。 「けれど、好きでもない男に身体中弄り回されるのを我慢できるのか?」 「だから郷原さんにお願いしたんです。どうせなら、少しでも自分が『好き』と思える人に抱かれたいなぁと思ったから……」 ダメだ。 この一見世間知らずのお馬鹿なのか、それとも箱入りすぎて無垢なのかよく分からない子を、世間の荒波に放り込むことはできない。 真顔で冗談のようなことをキッパリ言い切る萌を目に前にして、郷原は自分でも理解できない感情がわきあがるのを感じた。 敢えて言うなら保護欲とでも表現するのか。馬鹿な子ほど可愛いという親の気持ちが何となく分かるような気がする。 もちろん、日常生活や仕事を普通にこなしている彼女が、本当に馬鹿というわけではなさそうだが、どこか少しボケていて、世間一般の感覚とズレていることは間違いないだろう。 思いを廻らせている彼のちょっと怖い顔を見ながら、萌は消え入りそうな声で囁いた。 「正直に言うと、勢いでお願いしたものの、本当はどうしたいのか、まだ自分の感情をしっかり掴めなくって。何せ私には、そういう経験がまったくないんですから」 そう言った彼女が無意識の上目遣いで彼を見上げる。 「ただ、郷原さんの姿を見るたびにどきどきするし、胸がきゅんとするのは本当です」 これって恋かしら?などと言いながら、一人で「きゃっ」と照れて赤くなる萌に、最早郷原は諦めの溜息をつくしかなかった。 もうここまできたら、乗りかかった舟だ。 この、混じり気なしの天然ドジ娘に、「ABC」だろうが「いろはの『い』」だろうが「四十八手」だろうが、手取り足取り教えてやろうじゃないか。 「萌、ちょっとこっちにおいで」 「君」ではなく、急に名前で呼ばれた萌は、驚きつつも素直にベッドに座った郷原の前に立った。 「はい?なんでしょうか」 それに答えることなく、郷原は彼女の腰を引き寄せると、自分の膝の上に横抱きにした。 「キャッ、あ、あの一体何を……」 「いいから、黙って」 彼はそう言うと、徐に萌の唇を奪ったのだ。 呆然とした顔で、超至近距離から彼を凝視したまま固まった萌の表情に、郷原は唇を離すと苦笑いを浮かべた。 「こういう時には目くらい閉じるものだよ」 「え?そうなんですか?」 何の疑いもなく彼の言葉に従う萌の唇を、郷原の舌先がなぞる。 「ひゃっ?」 思わず口を開けた萌の唇の間に、郷原は強引に舌を捻じ込む。 「んぐぐっ」 じたばたと動く手足を強い力で簡単に押さえ込むと、彼は我が物顔で萌の口内を舌先でなぞり始める。初めての感覚に戸惑いつつも、それに応えるように、おずおずと自分の舌を差し出した彼女に、郷原は満足げな笑みを浮かべた。 「そうだ、それでいい」 それからは彼に求められるまま、萌は夢見心地で生まれて初めての「大人のキス」を堪能していた。 だが、彼女がもっと座りのよい場所を求めて彼の膝の上でお尻を擦り付けた途端、郷原は突然彼女を床の上に立たせると、急いで脱ぎ捨ててあったカッターシャツを着込んだ。 「帰ろう。用意してくれ」 「へっ?」 まだキスの余韻も覚めやらぬ萌は、訳が分からないという顔で郷原を見上げた。 「出るぞ」 萌が慌ててベッドやタオルを直しているうちに清算を済ませた郷原は、それから一言も発することなく、彼女を引っ張ってホテルの部屋を後にした。 わ、私何か変なことしちゃったのかなぁ…… それまでの甘いムードはどこへやら。 彼女の腕をとったまま、無言でずんずん歩く郷原の強張った横顔を見上げながら、萌は泣きたい気持ちになっていたのだった。 HOME |