chapterT 「Sweet」 な彼女 4
「どこでもいいから、近くにトイレはないか」 「お客さん、このあたりにそんなものはないですよ」 今タクシーが走っているのは、高架になっている自動車専用道だ。車が走ることが前提の道路には、コンビニもなければ公園もない。路肩も狭く、中央分離帯以外には、草むらさえ見当たらなかった。 「とにかく、休める場所があるならどこでもいい。急いでくれ」 郷原の言葉に、運転手は側道に入ると、そのまま次の降り口で道路を下りた。そして何を勘違いしたのか、すぐ側にあったラブホテルにタクシーを乗り入れると、入口の前で車を止めたのだ。 「おい、ここって……」 「お客さん、ここなら取りあえずは休めるし、トイレもありますよ」 「しかしなぁ……」 そうこうしているうちにも、萌は口を押さえたままタクシーから降りてしまった。切羽詰った状況では、足の痛みは二の次になっているらしい。 「ちょっと待て!」 財布から抜き出したお札を運転手に渡すと、郷原も慌てて後を追う。 「お客さん、お釣り」 「いい、取っておいてくれ」 車を降りた場所も、周囲はコンクリートやアスファルトで固められていて、地面といえば小さな植え込みがあるくらいだった。 それを見た萌は、本能的にトイレを求めて、側にあった建物の玄関に足を引きずりながら駆け込んだ。 そんな彼女の目に飛び込んできたのは、くるくる変わる電飾ディスプレイと原色の幾何学模様の壁紙だ。 「うっぷ、気持ちわる……」 普通で見ても目が痛くなりそうな色使いを、こんな時に見てしまった萌の気分の悪さは最高潮に達しようとしていた。思わずその場にしゃがみ込んだ彼女を、後ろから追ってきた郷原が抱え起こす。 『いらっしゃいませ、お部屋の選択ボタンを押してください。ご休憩の料金は……』 「いいから、どこでもいい、とにかくすぐに開けてくれ」 インターフォン越しの従業員の言葉を遮ると、彼は動けなくなっている萌を抱き上げ、そのまま一番近くにあった空室の案内が出ている部屋へと駆け込んだのだった。 翌朝 妙にすっきりした気分で目覚めた萌は、辺りを見回した。 見覚えのない部屋、見覚えのないベッドそして…… 「やっと起きたのか?ドジっ子」 自分が寝ていたベッドの下の、床から聞こえてきた声に驚いて見ると、そこで片肘をついて半身起き上がっていた彼と目が合った。 「え?何で郷原さんが?」 不思議そうに彼を見下ろす萌に、郷原は脱力したようにその場に寝転がった。 「あれだけ大騒ぎしておいて、覚えていないとは言わせないぞ」 「大騒ぎ?」 何のことかと思いつつも、昨夜の記憶を辿ると、断片的にだが、自分のやらかしたことが頭に浮かんできた。 確か居酒屋で捻挫をした。それで帰宅を余儀なくされ、自分を送ると申し出てくれた六嶋と、郷原、平岩の4人でタクシーを拾おうとしたのだが、なかなか捕まらずそのうちに六嶋が寝込んでしまった。 仕方なく2台のタクシーに分乗することになり、自分は郷原と一緒に乗り込んだまではよかったが……。 「あ、もしかして、私……タクシーの中で粗相をしてしまったんでしょうか?」 お酒の飲みすぎで、我慢できないほど気分が悪くなってしまい、必死で我慢したのはしたが。 今までコンパや宴会でもそこまで飲んだことがなかった萌は、自分の酒量の限界を知らなかったのだ。もちろん、吐き気をもよおすまで飲んだのも昨夜が初めてだった。 「いや、何とかぎりぎり間に合った。この部屋のトイレまでは何とか持ちこたえたよ」 しかしそれから後が大変だった。 彼女をトイレに放り込んだ後、暫くして中をのぞいてみると、吐くだけ吐いて気分が良くなったのか、萌は床に座り込んだまま便器を抱えて眠り込んでいた。 何とか狭いトイレから彼女を引きずり出した郷原が、正体をなくした萌をベッドに寝かせたまではよかったのだが…… 「君が寝込んだんで帰るに帰れなくなって、仕方なくここに泊まることにした。それで僕もベッドの反対側で寝ようとしたんだけどね」 「でも、郷原さん、何で床に?」 そこで彼は盛大な溜息をついた。 「夜中に2度、君にベッドから蹴り出された。仕方がないから、それからは床で寝た」 どうやったらこの広いベッドの全面を使って、あそこまで暴れられるのか。少なくとも、「アレ」をする目的でつくられたラブホテルのベッドは、普通のものよりも大きいはずなのだが。 学生時代、部活動の合宿で何度も雑魚寝を経験して、寝相の悪いヤツともそれなりに付き合ってきた彼だったが、萌の動き方は半端ではなかった。 見ていると、まるで布団の上を転がりまくる子供並だ。 「今まで誰かに寝相が悪いと言われたことはないのか?」 それを聞いた萌が口を尖らせる。 「両親とは小学校に上がった時以来、一緒に寝てませんから」 「そうじゃなくて」 一緒に寝た男に、と言いかけて、郷原はあることに思い至った。 そういえばこの子、僕に「初めての人」になってくれとか言ってなかったか? そのうちに、萌がごそごそしながらベッドから出ようとし始める。 「どうした?」 「あの……」 もじもじしている。その仕草に、郷原は彼女の行きたい場所を察した。 「トイレか?」 萌は顔を赤らめて頷いた。さっさと行きたいのはやまやまだが、如何せん昨夜捻挫した場所が痛くて、上手く右足が動かせない。 「仕方がない。連れて行ってあげるよ」 「でも」 「恥ずかしがっていても、これじゃぁ仕方がないだろう?それとも漏らすまでそこにいる気か」 それを聞いた彼女は、小さな声で「すみません」というと、素直に彼の腕に収まった。 その後、再び郷原に抱えてもらってバスルームに行った萌は、顔を洗い、歯を磨いてやっと口の中の気持ち悪さから開放された。 「あれだけ吐いたら、ひどい二日酔いにもならないだろうな。これでシャワーでも浴びたらすっきりするんだろうけど、ちょっとその足では無理だろう」 片足で飛び跳ねながら、何とか自力でバスルームを出てきた萌に、郷原が笑った。 「着がえもないですし」 「そうだな。でもせっかくだから、僕はちょっと使ってくるよ。そこに掛けて、何か飲んでいるといい。オレンジジュースがいいか?それとも水?」 「あ、お水を……」 彼はのぞき込んだ冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを取り出すと、彼女に手渡した。 「それじゃ、ちょっと待っていて」 遠くにシャワーの水音を聞きながら、萌は興味津々であたりを見回した。 うわー、ラブホ、初体験 ☆ 足の痛みも何のその、ベッドに這い蹲ると、ヘッドレストに置いてある、ティッシュボックスの側の小奇麗な小物入れに手を伸ばす。 何が入っているのかと蓋を開けてみると、中から出てきたのは 「きゃっ、コンドーム!?」 どうやら香りつきらしく、甘ったるいフルーツの香料の匂いが鼻につく。 「うっぷ、今日はムリ。これ嗅いだら吐きそう」 慌てて箱の蓋を閉め、次に隣に幾つか並んでいるボタンを次々に押していく。 あるボタンは音楽が流れ始め、あるボタンはライトの光源調整だったりする。中には艶かしい色のスポットライトが2方向からベッドに当たるように点くものもあった。 一通り、ヘッドレストのあたりを探索した萌は、今度はローテーブルの上に置かれた薄い冊子を手に取った。 それを開いて、思わずごくりとつばを飲み込む。 「うわ、これって……」 中に載っていたのは、俗に言う「大人のオモチャ」やナースやセーラー服といったコスチュームの類だ。アダルトショップやネットで買えるのは知っていたが、こんなところでも売っているなんて。おまけに後ろの方のページには用途不明の液体入りボトルや、何やら怪しいグッズも載っていたが、彼女にはそれが何なのかも良く分からなかった。 「ラブホって、いろんなものが買えるんだなぁ」 いろんなものを手にとっては純粋に驚き、好奇心に目を輝かせている萌を、バスルームからこっそりと眺めていた郷原は思わず忍び笑いをもらした。 この部屋は今どき珍しく、浴室の上半分がガラス張りで中が見えるシースルータイプになっていた。ということは、その逆も可能だ。 シャワーを使っている彼に気付くことなく、室内の探索を続けている萌の様子が浴室の中からも丸見えだったのだ。 あの様子だと、本当にラブホテルに来たのは初めてのようだ。どうやら男を知らないっていうのも、あながち嘘ではないのかもしれないな。 今まで相手にした中には、純情そうなふりをして実は……という女性もいた。 ベッドに入るまでは演技できても、事の最中の仕草や事後の所作までは誤魔化せない。 彼自身、別段それでも構わなかった。ベッドの相手に初々しさが必要だと思ったことはない。むしろ、彼の欲求を満たすには、多少遊び慣れた経験豊富なくらいの方が好みだともいえた。 大体今まで自分のやってきたことを考えれば、女性にだけ処女性を求めるのは卑怯な気がするし、体だけの関係と割り切れる大人の女の方が付き合いやすかったのも事実だ。 さてと、このドジな子猫ちゃんをどうしたものかな。 もちろん、美味しくいただくという考えは彼には全くなかった。 そう、この時点ではまだ。 HOME |