chapterT 「Sweet」 な彼女 2
萌が見かけた社員は郷原哲史(ごうはらさとし)と平岩直毅(ひらいわなおき)といい、営業推進部に所属する社員だった。共に入社5年目の28歳。 どこにいても目立つ存在の二人は社内でも常に噂の的だ。 特に平岩は女性の人気が高く、社内だけでなく取引先の女性たちからも何かとお誘いがかかるらしい。 確かに彼は俗に言うイケメンというやつで、背が高くてスマート、スーツを着ればいかにも「できる男」といった風情だ。それに加えて軽めで人当たりが良く、親しみ易い性格とくれば、どこにいても引く手数多になることは頷けた。 だが、萌が惹かれたのは彼ではなかった。 彼女が目を留めたのは、いつも平岩と行動を共にしている同僚で友人の郷原哲史。一見、平岩とは真逆とも呼べる雰囲気の持ち主だ。 彼も同じように長身だが、決定的な違いはその体格だった。 モデルのようにすらりとしている平岩に比べて、郷原は筋骨隆々、特に上半身は何度見ても惚れ惚れするような逞しさだ。思わず「あの二の腕にぶら下がってみたい」などと、不埒なことを妄想してしまうくらいに。 見た目は少々厳つい顔つきで、黙っていると怒っているようにも見えるのだが、ちょっとはにかんだように笑うところを偶然見てしまった萌は、そのギャップにすっかり参ってしまった。 事実、彼は非常に穏やかで真面目、その上仕事もきっちりとこなすと周囲の評価も高い。 彼が開拓した営業先でも「是非ウチの担当に」と指名が引きも切らないのだという。 萌が彼と接するチャンスは、内勤の女性が持ち回りでしている朝のお茶当番の時だけだが、できるだけ美味しいお茶を出そうと気合を入れる彼女に、彼は必ず「ありがとう」と微笑みかけてくれる。そのたびに顔が赤くなり、胸がきゅんとしてしまうのだ。 噂を聞いた限りでは、女性にもほどほどにもてるようだが、だからといって異性関係が派手だというわけではないようだ。同僚の平岩のように常に浮名を流している素振りはなく、その適度な堅さが彼女理想のツボにはまった。 外剛内柔、これぞ本当の「男」だわ。 そう思った萌だったが、かといって簡単に進む話ではない。何せ彼のような男性には、得てして既に付き合っている女性がいることが多い。いくら自分の理想どおりだからといって、人の恋人を横からかっさらうような不道徳をしたくはない。 それに、無暗にアタックしても、相手がそれに応じてくれなければ関係は成立しないのだから、恋愛スキルがゼロに近い萌にとっては何から始めれば良いのかを判断するのが難しかった。 どこかに分かり易い恋愛マニュアルか、ハウツー本でもないかなぁ。 そんなことを思い悩みながら、陰からこっそり彼を見ているだけの状況がすでに2ヶ月近く続いていた。 そんな彼女が無謀とも思える「お願い」を彼に仕掛けたのには、あるきっかけからだった。 その夜を遡ること2週間前の週末、4月に一緒に入社した同期の女の子たちと飲みに行く機会があった。 あちこちの部署や支店に配属された同僚たちとゆっくり話をするのは、研修の時以来だ。 集まったのは女性ばかり十数人、いい感じにお酒も入ると、何処も同じで始まるのは男性の品定めだ。当然シモネタも炸裂する。 「やっぱ、平岩さんって格好いいよね〜」 「うんうん、何かすべてがスマートって感じ」 「ねぇねぇ、彼ってあっちも凄そうじゃない?」 「絶対に巧いんだよ。でなきゃ、あんなに女の人が次から次へと群がるはずがないもんね」 「あ、でも郷原さんの方も結構遊んでるみたい。だって彼、いい体してるし、見るからにあっちが強そうじゃん」 それを聞いた萌は思わず飲んでいたチューハイで咽た。 「ああ、メグちゃん大丈夫?」 「ぐふっ、だ、だいじょうぶ……です」 涙目になりながら、同僚の一人に渡されたおしぼりで口を押さえている間も、周囲の男性談義はエスカレートしていく。 「私はやっぱり、平岩さんがいいなぁ」 「そぉ?一晩がっつりやるなら、体育会系の郷原さんの方がいいじゃない。ねぇ、メグちゃんもそう思わない?」 話を振られた萌は、曖昧に頷いた。 「そうですね、何か頑丈そうですし」 「ふふふ、頑丈?そうだよね〜そんな感じだよね」 その言葉に友人が何を思い浮かべたのかは、含み笑いで想像できた。 「でも他にも『一晩お願い』って言えば案外簡単にOKしてくれそうな軽い人って結構いるじゃない?」 「そうだね。でも男も女も、みんなそんなもんじゃない?欲求不満解消に、ちょこっとつまみ食いみたいな」 「やだー何か不潔っぽいよぉ」 「でも、結構みんなやってるみたいだし」 適当に話を受け流しながら、自分にまだ男性経験がないことに何となく焦りを感じた。 彼氏さえできたことがないのだから仕方がないが、それを口に出すことができなかった。どうやらこの中では、経験がないのは自分だけのようだ。そのことを恥じる気持ちはないけれど、心の中に何か釈然としないものが残ったのも事実だ。 もちろん、相手は誰でも良いから「処女を捨てる」なんて自棄っぱちなことをするつもりはない。 望むらくは彼氏を作り、その人とそういう関係になれればよいのだろうが、思うようにことが運ばない今となっては、なかなかそれも難しい。ならば、恋愛スキルを上げるためにも、一度自分が好ましいと思う男性にベッドで指南を願ってみてはどうだろうか。 彼女たちの言うように、多くの男性が本当に、そのてのことに簡単に乗ってくれるというならば。 そんな彼女の脳裏に真っ先に思い浮かんだのは、やはり郷原の姿だった。 確かに体は厳つくて大きいが、優しそうで女性に対して思いやりもある。それに同僚たちの話によると、そこそこ遊んでいて、あちらの経験も豊富そうだ。 彼なら未経験で拙い自分をしっかりリードしてくれるのではないだろうか。 それから萌は郷原に接触する機会をうかがっていたが、外回りの彼と内勤の自分では社内にいる時間が合わなかった。朝礼が終わり、出かけて行った郷原が、彼女が会社にいる間に戻ってこられないこともたびたびだ。それに、いくら同じフロアで仕事をしているとはいえ、勤務時間内にそんな不謹慎なことを話すことなどできるはずもなく……となるとなかなかチャンスは訪れない。 だが、そんな萌に、運命の女神がちょっとだけ微笑んだ。 7月上旬のある金曜日、ビアガーデンで社員会主催の慰労会が行われる計画があったのだ。 折りしも当日はボーナス支給日。懐が潤った社員たちは皆、大はしゃぎで次々にジョッキをお替りしている。 その時には参加した人数が多すぎて彼の近くによることさえできなかったが、2次会で場所を居酒屋に移したところでチャンスは訪れた。 萌が座ったのは、郷原のいるテーブルのすぐ隣り。 彼が席を立ったのを見計らって、彼女も場を外した。そしてあの場所で、彼がトイレから出てくるのを待ち伏せしていたのだ。 いくら照明を落し気味とはいえ、ただ立っているだけでは人目につく。 そこで萌は、タバコの自販機と作り物の観葉植物の間の隙間に目立たないように、こっそりと身を隠した。 どきどきしすぎて心臓が壊れそうだ。 素面で彼と向かい合っても、とてもそんなことは言えそうになくて、飲めないお酒を何杯も無理をして飲んだ。お陰で少し足元がふらつくが、それでも何となく肝が据わった気がする。 自分のしようとしていることは無謀だとわかってはいても、今日を逃すと二度とこんなことをする機会は訪れないように思えた。 清水の舞台から飛び降りる、いやいや、スカイツリーからバンジージャンプの気分かも…… などと言えばえらく大げさに聞こえるが、萌にとってはまさにそんな心境だった。 『来たっ』 ドアを出てきた彼を見つけた。 「よし、いくわよ!」 その瞬間、萌の心臓が一際大きく跳ねた。 HOME |