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月の宴 華の乱 その九 



鈴が重定に嫁いで半年あまりが過ぎたある春の日、待ちに待った吉報が彼女の元にもたらされた。

「お方様、京の、後九条のご実家から書状が参っております」
その知らせに、鈴は伝えに来た千代が驚くほどの笑顔を見せた。


この数ヶ月というもの鈴の体調は芳しくなく、座敷に籠もって過ごすことが多くなった。
特に月の障りに当たると、数日は何も口にできないくらい衰弱し、床に伏したままで起き上がれないこともしばしばだ。
千代が手配りした薬が障りを起こしていることは分かっているが、それでも鈴は夫と床を共にする時にはそれを用い続けた。
主人の体を心配した千代は止めるよう何度も諌めたが、鈴は頑として聞き入れようとはしなかった。

かの散薬は名こそ薬とはいえ、元をただせば毒。
女間者が使命のために身を挺した時に、孕まぬために使う恐ろしい薬だ。
作用の強い本草は、確かな効用を顕すと同時に使う者の体を痛めてしまう。
効きが強いその薬は、女間者とて常用はしない類のものだった。

千代はもうその薬を手に入れるつもりはない。
もちろん鈴に手渡すつもりもなかった。
どれほど乞われても、主の身体がぼろぼろに壊れていくのを黙って見ていることなどできようはずがなかった。


「お方様、何か良い知らせが参りましたか?」
文を見ながら喜びに顔を綻ばせる鈴の様子に、思わず千代が問いかける。
「侍女頭だった綾乃が、無事男の子を産んだと」

この城が落ちた時、身重だった綾乃を京へと逃がした。
母の生家である後九条の家にいる久(ひさ)を頼ってのことだった。

久は始めは母の側仕えとして、母が没してからは鈴の乳母兼教育係として、長年後九条家に仕えてきた、公武両方の儀礼に長けた筋金入りの女房だ。
今では家の女房たちを束ね、奥向きをすべて仕切っていると聞く。

「綾乃様といえば…」

綾乃の存在は公にはされなかったが、内々では知る者も多かった。
特に近しい家臣たちの間では、妻妾があまりにも仲むつまじく一緒に過ごす姿を見て不思議に思っていた節もあったくらいだ。
千代の父も医師とはいえ、相良の家臣の一人だったのだ。その話は幾度となく耳にしたことがある。

「もしや、綾乃様のお子といわれますと…」
はっとして言いかけた千代を鈴は目で留めた。
それは口にしてはいけないこと。特にこの右近の家においては禁忌に等しい言葉だった。
「早速祝いをせねばなりませんね。お千代、仕度を頼みますよ」


「今日は良い便りがあったそうだな」
その夜、奥に来た重定も鈴の浮き立つ様子に気がついたようだった。
「はい。古馴染みからの文に、つい嬉しくて」
酌をしながら楽しげに話す鈴を見て自然と重定の頬も緩む。

妻に娶って半年、夫婦としては随分と馴染んだと思う。
だが妻の心は未だ彼を寄せ付けようとはしなかった。
鈴にとって彼は今も亡き夫の仇であり、自分の一族を滅ぼした右近氏そのものなのだ。

確かに最初の頃のように誰彼かまわず皆を睨めつけ、体全体で拒絶を表すようなことはなくなった。自分の置かれた立場を悟り、分別を弁えたことは良いことだろう。
しかしその分、周囲に対する反応や喜怒哀楽が段々と薄くなってきているように感じるのだ。
何も感じないことで己を守っているのかと疑うほど静かに、ただ淡々と日々を送る生気のない妻の様子を好ましいとは思えなかった。
それならいっそ最初の頃のように、敵意を剥き出しに彼に挑みかかってくる鈴の方がまだましだ。

このように彼女が素直に喜びを表したのはいつ以来だろう。
そして怒りや悲しみを表に出して見せたのは。
ふた月?いや三月前だっただろうか。
気がつけばもう思い出せないほど長く、妻の笑い声を聞いていないような気がした。


「鈴姫」
その夜、睦み合った後の気だるい体を寄せ合いながら眠りにつこうとしていた時のことだった。
「何か俺に言うことはないのか」
鈴は一瞬身体を強張らせた。
よもや、あの文の内容を重定に知られたのではあるまいか。

そんな彼女の心配を他所に、腕枕をした夫が問うてくる。
「侍女が、千代ではないのだが…そなたの障りが遅れていると申しておってな」

別の意味で身が固まった。
奥で世話を受ける人間には私事など無いに等しい。
彼女の月のものの有無とて例外ではないのだ。
ましてや右近の家臣たちは皆、今や遅しと世継ぎを待っている。その報せが主人に事細かに伝えられていても不思議はない。

「いえ、まだそのようなことは」
起こるはずがなかった。
そう、今までは。

千代が手に入れてくれた薬は暫く前に使い果たしてしまい、手元には残っていない。
もうこの後は千代にも頼れないのは分かっていた。
少しずつ身体が蝕まれていく中で、今日の知らせを聞くことだけを縁(よすが)にただひたすら耐えてきたが、それも限界に近かった。
だが筋道がついた今、いつこの身が儚くなっても思い残すことはない。


ひと月余り後、梅雨のはしりの合間を縫って、千代は鈴から預かった荷と共に京へと向かった。
世の中が荒れ、治安の悪かったこの当時、女性の旅は困難なものだったが、鈴のたっての願いを千代が引き受けたのだ。
もちろん一人旅など以っての外。警護のために篤義が同行することになった。


出発の前夜、千代は鈴の枕元に呼ばれた。
先日来、また体調を崩した彼女は夜具の側に寄った千代にある大事なものを託すと言う。
それは細身な桐の箱に収められていた。

「これは?」
箱を見た千代が問いかける。
「亡き殿の…景之様の遺されたものです」

中にあったのは一振りの見事な懐剣だった。
鞘には相良家の紋が施されている。

「これは相良家が代々受け継いできたもの。殿も父から賜ったと聞いています。この刀は相良の当主の証。これを京の、綾乃の元へ届けてほしいのです」

落城の折、刀剣の類は全て右近氏に召し上げられた。鈴の母の形見もその時取り上げられたままだ。
だが鈴は密かにこの短刀を隠し持っていた。これだけは次の相良の当主に渡すために、どうしても守らねばならなかったのだ。

目立つ箱を何とか着物で包むと千代はそれを自分の荷に紛れ込ませた。
他の贈り物などおまけも同然だったのだ。
鈴はこれを間違いなく綾乃の手に届けたいがために自分を頼ったと悟った千代は、黙ってそれを引き受けた。


見送りにも出られず、鈴は一人奥の寝所で伏せっていた。
やっとこれで肩の荷が下りたような気がした。
あとは無事に千代が京へ着き、綾乃に会うことができれば。
長い道中を心配しつつも頬を緩める。

篤義殿がいれば大丈夫だわ。
あの殿方なら必ず千代を守ってくれる。

篤義と千代が憎からず思っていることは鈴も感じていた。
今回のことも、篤義自らが進んで千代の同行を願い出たのだ。

もうこれでこの世に未練はない。

今まで勘の良い千代を欺くので精一杯だったが、もう隠すことはできない。
すでにひと月以上、月のものが遅れていた。
今までも何度かそういうことがあったが今回は少し様子が違う。

床から這い出し文机の引き出しを探る。
落城の折からずっと持っていた小さな包み。
万が一に備えて常に懐に潜ませていたのは、自害用の丸薬だった。

千代たちが京に無事着いた暁には、知らせがくる手はずになっている。
それまでは待たなければならない。
それが終わればすぐに楽になれる。もうしばらくの辛抱だ。

あと少し、あと少しだけ…。




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