「篤義」 婚礼の翌朝、新妻の部屋から戻ってきた重定は側近を呼びつけた。 「お前、もし新たに妻を娶ったとして、どのくらいその女を抱かずに過ごせると思うか?」 「はぁ?」 朝の膳を前にした主の唐突な質問に、思わず素っ頓狂な声が出る。 「はあぁ、つまりはその女子に手を付けずにいられるかということですか?」 重臣たちの中で重定に一番歳が近いのは彼だ。 武芸には優れていても無骨な主と違って、この男は怜悧な策士であり人の裏をかくのが非常に上手い。言うならば重定の懐刀だ。 今まで主君の影となり常に側に仕えてきた篤義だったが、この突拍子もない問いほど驚かされたことはなかった。 「御館様、もしや昨晩の奥での首尾が…」 彼の言わんとするところを察した重定は、苦笑いをしながら首を振る。 「いや、そうではない。そうではないのだが…」 この時代、大名家の結婚は戦略と同義語だった。 もちろん当人たち、特に女性の側の意思などまったく考慮にない。 有力な家の女性は生まれながらに政略の駒であり、嫁すればすぐにでも世継ぎを望まれる。 早ければ十にもならないうちに他家に差し出され、夫の相手をすることを強いられるのだ。 今よりも寿命が短く結婚適齢期が早いとは言え、若年での無理な出産がたたり命を落すことも珍しくはなかった。 「そうですね、仮にその女子が重い病に伏せっているとか。そういう状況でもない限りはありえませんな」 「だろうな」 それだけ言うと重定は朝餉を取り始めた。 何が何だか分からないという顔をした篤義は、それでも一礼するとその場を下がった。 今朝は朝議もない。 昨夜の宴の有様では起き上がれる臣も多くはないだろう。 重定は、一人中庭に出ると弓を構えた。 放たれた矢は羽音を響かせながら的へと刺さる。 それを見ながら、我知らず昨夜の閨でのことを思い返していた。 鈴をいくら弄ってもほとんど手ごたえがないのは、彼への反感が因をなしていると思っていた。 夫を持ったことのある身なれば、男と床に入れば意に副わずとも、身体は自ずと求めに応じるものだろう。 最初から素直に身を任せてくるとは思っていなかったが鈴も所詮は女子、多少手荒くとも体を合わせればしなやかに自分に添ってくるものだと思い込んでいたのだ。 まさかあの姫が未通女だとは夢にも思わなかった。 嫁して三年が経つというのに、手付かずの女子が世にどれくらい居ろうか。 相良の当主だった景之が不能だと聞いたことはない。現に鈴の他にも愛妾がいたというのだから話が合わない。 噂では、暫し手元から離すことさえ難を示すほどの溺愛ぶりだったというのに、なぜ同衾しなかったのか甚だ不可思議だ。 その噂があったからこそ、この地を手に入れてからひと月余り、鈴に月の障りがあったと侍女から知らされるまで婚儀を待ったのだ。 もしも鈴の腹に景之の子がいれば、後々やっかいなことになりかねない。 それは自らの出自を見ても明らかだった。 重定の母は、右近氏に滅ぼされた有力大名の妾だった。 管領家に連なる名家だったその家には母のほかにも数人の妾がいたが、一族が滅ぶと同時に戦に功のあった武将たちに下賜された。 その後、母は右近に来て十月十日も経たぬ間に重定を産んだ。 誰も面と向かっては言わぬが、重定が右近の胤かどうかを疑う者は未だ多いのだ。 今でも二つ年下の弟、重尚に家督を継がせようとする輩がいることは知っている。彼自身それでも別段構わなかったのだが、当の重尚は戦よりも芸事の方が肌に合うらしく、早々と京に住まいを移してしまったのだ。 主家の不和は一族の結束を弱める。 それは戦国の世に生きる者にとっては致命的な痛手となる。自分の跡継ぎの出自が定かでないことは、後々に禍根を残しかねない。 自らがそうであったように。 だが鈴の様子からその心配自体が取り越し苦労だったことになる。 「全くもって解せぬ話だ」 だがしかし、己の所業も褒められたものではない。 床入りに不慣れな女子相手にしては大人気ないことをしたと自分でも思う。 あれだけ酷使すれば、さぞかし陰(ほと)は辛かろう。 あの姫のことだ。 当分の間、寝床はおろか部屋にも近づけてもらえぬやもしれぬ。 その様を思い描くと苦笑いがこみ上げる。 しかし、ゆくゆくは子を、更に言えば跡目となる男子を成さなくてはならない。 できれば世継は正室である鈴の腹から出るのが望ましい。 その子に右近と相良の両の地を継がせることができれば、まずは安泰だ。 だが… 閨で聞いたあの一言がどうしても頭から離れなかった。 『相良の仇たる右近の係累を我が腹から出すことだけは、誰が許しても、このわたくしが許せぬのです』 放った矢が大きく的を外れ、側の茂みに飛び込んだ。 「御館様、祝いの客人がお待ちです」 告げに来た家臣の言葉にはっと我に返る。 「すぐに行く」 放たれた矢を見、いつもと違う主の様子に怪訝そうな顔をする小姓に弓を渡すと、重定は一人客間へと足を向けたのだった。 ☆ ひとこと memo ☆ 戦国時代、今の成人式にあたる男性の「元服」は大体が10代始めから16,7歳くらいに行われました。 これが終わると男性は成人とみなされ、戦場にも赴いたようです。 これに対して女性は「鬢曾木(びんそぎ)」という髪を少量削ぐ儀式があり、やはり10代半ばあたりに行われ、これ以降は髪型や着物を大人のものに改めました。 この時代女性は10代始めに結婚することが多く、鬢曾木も嫁いだ先の夫の手によって行われたようです。 現在からみれば、かなり早婚です。 武田信玄の息女は12歳で北条氏に嫁ぎましたし、大河ドラマにもなった前田利家の夫人、まつも結婚した時は12歳だったと記憶しています。 それぞれ翌年には第一子を出産しているのですが、この頃の年齢は数え年なので、おそらく満年齢で12歳くらいでの出産だったと考えられます。 人生五十年と考えられていた時代だとしても、かなり早熟だったように思いますね。 INDEX |