「お方様?」 朝も遅い時間、中を覗うように千代が障子越しに声を掛けてくる。 鈴は床の中で、一人静かに横たわっていた。 あの後、数え切れないほど夫となった男に抱かれた。疲れ果て、気を遣るまで何度も何度も。 最後には気が狂(ふ)れるかと思った。 いっその事その方が良かったかもしれない。 苦しまず、一思いに楽になれるのならば。 赤子の話を聞いた後でも、重定は何も言わなかった。 彼は怒っていたわけではない。 その証拠に、手をあげることもなじることもしなかった。 ただ冷徹に淡々と、無言のうちに、今誰が彼女を支配しているのかを鈴の身体に思い知らせ、所有の証を刻み込んでいっただけだ。 そして彼は最後に鈴にこう告げた。 「いくら俺を厭おうが、世継をそなたの胎から出すことに変わりはない。今から心しておくがよい」 腕さえも上げられないほど疲弊し、精も根も尽き果てた鈴の身を拭い、床に寝かせると彼はそのまま部屋を後にした。 目的を達し、もう用はないとでもいうように、一度も振り返ることさえせずに。 千代の呼びかけに応えようとするが、叫びすぎて嗄れた声が喉に張り付くだけだった。 もとより体の方は、自分では指先一つ動かせない。 「お方様!」 異変に気付いた千代が障子を開け、中に飛び込んでくる。 果たしてそこにあったのは、一人では起き上がることもできないほど憔悴しきった鈴の姿だった。 「お千代…仕度を」 掠れた声で身づくろいを促す鈴の側に寄り、主の身体に掛けられた小袖をそっと剥いだ千代が思わず顔を背ける。 「お方様、なんとお労しい」 首筋に、肩に胸に背中に。 体中のあらゆるところに痕となって残る無数の証が、昨夜の出来事を無言のうちに物語っていた。 抱えて半身を起すも、今の鈴は支えていなければ崩れ落ちそうな頼りなさだ。 気品に満ち、凛としたいつもの居住まいは鳴りを潜め、そこにあるのは痛ましいほど儚い、打ちのめされた少女の姿だった。 丁寧に体を拭き清め、何とか小袖を着せ掛けると、主の体を抱えるようにして脇息に寄りかからせる。 その間に夜具をあらためようと床を見た千代の目が怒りに見開かれた。 「お方様、どこかにお怪我をなさっているのではありませんか?」 夜具に付いた染みを見た千代は、重定に狼藉を働かれたと思ったらしい。 良く見れば白い小袖にも所々に赤黒い染みが散っている。 「いえ、どこも…」 「ならばあの血は」 一瞬の間の後、千代の脳裏にある考えが浮かんだ。 俄かには信じられないことだったが、この状況ではそう考えるしかなかったのだ。 「まさか」 「お千代、お願いだから、何も言わないで」 弱々しくやっと身体を支えて座る主の目から、新たに零れるものを見た千代はすべてを悟った。 鈴にとって、昨夜は本当の意味での新枕だったのだ。 自らも一度は嫁した身なれば、初夜の後の身体の辛さは分かっている。 それもその相手はあの大男、重定なのだ。 一晩で一体どれだけの苦を乗り越えたのかは想像するに難くない。 前の夫、景之公に嫁いで三年。 なぜという疑問はあるものの、今は何も聞かずに身体を休め、心を休めることが主には一番必要なことだと千代は思った。 「これは私が内々に始末いたしましょう。どうかお方様は今日一日安息されますように」 鈴は魂を抜かれたかのように昏々と眠った。 昼が過ぎ、夕餉の時刻が来ても目覚めようともしない。 幸いにも今宵、殿の御渡りはないらしい。 それを知った千代は安堵した。 まだ鈴の身体は癒えてはいない。今無理をさせれば、身体だけでなく心までも傷つき壊れてしまうのではないかと憂いていたのだ。 「お千代、そこにいるの?」 夜半になりそろそろ灯りを落そうかと思い始めた頃、鈴はようやく目覚めた。 「お方様、何か召し上がりますか?」 衣擦れの音がして、鈴が半身を起こそうとしているのが見える。 「お水を」 まだ嗄れたままの声は、微かだが口調にいつもの優雅さが戻っていたように思えた。 まだ本調子ではないだろうに、背筋を伸ばし揺らぐ身体を真っ直ぐに保とうとする健気な姿は気高ささえ感じさせる。 気丈なお方だ。 立ち姿は大輪の白百合。 だがその内には摘まれても摘まれても、翌朝にはまたたおやかな花を咲かせる朝顔のような強さが潜んでいる。 千代は不謹慎だとは思いつつもそう感じずにはいられなかった。 「もうしばらくお休みくださいませ。今宵は殿のお出ましもないとのことですから」 「そう…」 横になりながら答える声に安堵が滲む。 「お千代」 「はい?」灯りを消し、部屋を退こうとする彼女を鈴が呼び止める。 「そなたに頼みがあります」 暗がりの中、枕元にいざった千代は掠れた声を聞き取ろうと耳を寄せた。 「あの散薬を、今一度、数多く手に入れてほしいのです」 その言葉を聞いた千代の顔色が変わる。 「ですがお方様、あれは…」 「怪しからぬものであることは分かっています。けれどどうしても必要なのです。わたくしのためにも、そして斃れていった相良の者たちのためにも」 この婚姻は相良の滅亡を内外に知らしめるため、鈴はそう思っていた。 戦国の習いによって、勝者である右近重定に慰み者にされるのは仕方がない。それは相良が戦に破れた時から判っていたことだった。 ただ一つ、鈴にとって誤算だったのは、重定が鈴との間に子を儲けようと考えていたことだった。 この時代、正室の産んだ子が跡継ぎになるとは限らない。たとえ正室に子がなくとも側室が男子を生せばそれで家督は守られる。 鈴が重定を忌み嫌い、頑なに相良を大事に想っていることは右近の家臣たちも重々承知している。故に鈴を一度辱めればそれで重定の目的は達せられ、すぐにでも彼女を放り出すとばかり思っていたのだ。 これからも重定の床に入るのなら、何としても子を孕んではならない。 そのためには昨夜の散薬がどうしても必要だった。 主の言葉に納得できないまま、その願いの強さに最後には首を縦に振った。 千代は部屋を下がりながら嘆息する。 何ゆえ我が主は、自ら進んで御身に苦労を背負われるのか。 女子に生まれた故の悲哀はあろうとも、それに靡けばもっと楽に生きていくことができようものを、と。 HOME |